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【第3回】代わりに語る?

NASCのアートディレクターの角地智史と、今年度参加型展示会でアドバイザーとしてご参加いただいた飯塚純さんは、偶然にも「ファウンド・フォト」という美術のジャンルを研究するアーティストです。そんな2人が2020年9月10日から12月5日までアール・ブリュットに関して対話を重ねました。その対話を飯塚さんに全4回で報告いただきます。

こんにちは!

飯塚純です。

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さて、全4回のうち今回で3回目の連載となりました。

「ファウンド =見出す」という言葉を通じて、「アール・ブリュット」というものを一緒に考えていきたいと思います。

詳しい自己紹介とこの連載の趣旨などは前回でご説明させていただきました。今回は連載3回目の記事となります。第1回は、こちらからまずはご覧くださいね!

「代わりに語る」を考える

前回、あるワークを通じて発見がありました。「伝える」という言葉は、「伝えるもの」自体を(自分なり)に理解して伝達するイメージなので・・・もしかしたら(自分の言葉で)「語る」というニュアンスが近い言葉かもしれない・・・とアール・ブリュットについて考えました。

角地さんとの対話を通じて、アール・ブリュットに関する作品は、身近にいる人(ご家族や施設の方々など)が代わりに語る場合が多くあることがわかりました。

実際のワーク・ショップ時でも、アール・ブリュット作品を制作者の代わりに伝える参加者(親や施設スタッフ)は、「これがなんだかわからないんだけど・・・作品かな?と思って・・・持ってきました・・・」と作品を見せる前にお話されていた言葉が印象的でした。

「代わりに語ること」を考える

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角地さんとの対話で、少しアール・ブリュットの歴史(主に言葉の名付けられ方)についても触れました。

アール・ブリュットという言葉は、2010年にパリで開催され、その後に日本全国に巡回した「アール・ブリュット・ジャポネ」展が大きな出来事としてありました。

そして、この展示の成功が、障害のあるかたが制作するアート作品として「アール・ブリュット」という言葉が広く使われていくようになったこと。

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日本では"障害者が制作するアートを指す言葉"のイメージが強いけれど、海外では美術教育や制度といった枠組みの外で活動する幅広い表現活動のことを指すそうです。

もし、この「アウトサイダー・アート」の歴史や作品に関して詳しく知りたい方がいらっしゃいましたら、美術出版社から出版されている雑誌で「美術手帖」というものがあります。その2017年の2月号の特集で「アール・ブリュット」に関して、その表現をめぐる様々な言葉が書かれているのでぜひご覧になってみてもいいかもしれません。

↑ 特に、90ページに書かれている野澤和弘さんのリポートは、現代における社会現場と制度から見たアウトサイダー・アートについて書かれており、この角地さんとの対話で議題になっていた「アール・ブリュット」という言葉の受け止め方について、大きな手助けになってくれました。

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前回は、「見出す」ために必要な力である「見つること」と「見つけた理由を伝えるワーク」を通じて、「他者を通じて自分を語る、語りなおす感覚」を気づきました。

私は、「ぼくらのアールブリュット展」のワークショップでは、作品の良し悪しは判断せずに、その全てを受け入れ、最善の展示プランを対話しながら提案していく方法でワークショップの準備を進めました。

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その「語り」は誰の語り?

当事者のご家族やその周りにいる施設で働く方々が、それを「表現」と見出し、作者の代わりに語るとき、その「語り」がそれで良いものなのか・・・ということを一度立ち止まって考えることも重要なのではないでしょうか。

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角地さんとの対話の先で、ある一冊の本を読みました。

誤解としての芸術
アール・ブリュットと現代アート

ミシェル・テヴォー 著,杉村 昌昭 訳

鑑賞者のための芸術論——ピカソの『ゲルニカ』は鑑賞者の「誤解」で傑作となった?アール・ブリュット論の第一人者が芸術の核心を解き明かす、革新の現代アート論。「芸術とは誤解である」これは創造行為と作品受容の関係の紐帯に「誤解」を据えた、きわめて新しい芸術論である。芸術としてのアール・ブリュットの誕生を「誤解」のキーワードから紐解き、芸術の未来を鋭く開示する。絵画や彫刻作品のみならず、演劇や詩、ジャズ、あらゆる芸術に眼差しをむけ自由自在に参照しながら、創造行為に無意識が与える芸術性の可能態を探る、エキサイティングな一冊。(原著: Thevoz, Michel(2017) L’ART COMME MALENTENDU, Minuit, Paris. )_ミネルヴァ書房公式サイトより引用。

芸術とは「誤解」されるもの?

この書籍では、あらゆる芸術分野を超えて独自の視点で「アール・ブリュット」の視点を与えてくれるものでした。ただ、独自の視点が主になるため、僕は疑いつつも理解の一つとして読みました。この本の序文がわかりやすかったので読んでみても良いかもしれません。

この書籍によれば、制作者と受容者の間で<芸術の本質>が正しく語られる(翻訳)することは難しいそうです。ですが、(強引かもしれませんが)そう言った誤解そのものが、鑑賞者へメッセージを投げかけるものがある・・・むしろアール・ブリュット(生の芸術)は、作者の無意識のうちに超越的な交霊が狂気とともに形を得たものでは?・・・という内容が先史時代の洞窟の壁画を例として挙げながら指摘されていました。

僕はこの部分は、鑑賞者が「そう信じたいだけ」の願いや理想の幻想のように感じました。みなさんは、どう思いますか?

例えば、生活の一部で「心地よいから」という理由で紙を丸めている方がいるとします。それは、「内側から出る衝動的なエネルギー」などというものではなく、「心地よさ」から来る生活の中にある純粋な行動そのものだったりもするのでしょうか?

さて、ここで第1回から見てきている光の動画を改めて見てみましょう!

この動画は、私が新潟県の水族館で実際に撮影したものです。水槽から虹色の「光」が、まるでカーテンのように現れていました。

__例えば、この「光」が「誰かの作品」だったとします。

これをつくった人が自分で「この光が作品」だと伝える術がなかったら・・・

あるいは、本人がこの光を「作品」だと認識できずにいたのなら・・・​

光の作品は、誰の目に触れることがないですよね。

今回、私は美しいと思い撮影し、こうしてみなさんにお見せしました。

この「私」の役割は誰になるのでしょうか?

・・・・・改めてご覧いただき、何か感じ方が変わりましたか?

この角地さんとの対話を通じて、私の作品である「ファウンド ・フォト」作品を制作するときにおこなう「見出す」という行為にフォーカスを当て、その言葉を考えていくことが関わる方々にとって何かのヒントになるのではないかと考えました。私は答えを出すつもりはなく、代わりに語ることを考えることで「アール・ブリュット」という言葉について考えることができたら・・・と思っています。

次回は、この角地さんとの対話の先で実践した展示「ぼくらのアール・ブリュット展」を通じたやりとりを掲載し、最終回となります。

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(文と写真:飯塚純)

飯塚純(いいづか じゅん) 
1987年新潟県上越市生まれ、上越市在住。国内外で美術家として活動中。これまでにDOOKSより、多くの作品・書籍が出版され、2018年に 香港 のアート・スペース「Tai Kwun」にて作品の一部がア ー テ ィ ス ト ・ラ イ ブ ラ リ ー に 収蔵。近年では、講演やワークショップなどの教育活動もおこなっている。
飯塚純さんのホームページ https://www.juniizuka.net/
飯塚純さんの研究実績はこちら https://researchmap.jp/juniizuka

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令和2年度 新潟県障害者芸術文化活動普及支援事業

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