いつまでも

いつまでもこうやって続いていくのだろうか。

この長い廊下をひとりで歩いている時にはそう思うことがよくあった。

窓の外は、陽の光によって輝いているが、遠く連なる木立の彼方の空の色は冬の外気の冷たさを、思い起こさせた。今日の予定では、肌身に寒冷を感じる機会はさて...あっただろうか。

「いづれの時」

それは、今の私の時である。そうでなかった頃のことをつい最近のことのように、そうである今をはるかむかしのことのように、時間の遠近を逆に感じる錯覚に懐かしさを認めながら、廊下の角を曲がったところで、いつまでも続けているのは誰なのか、私なのか、あるいは私たちだ、ということになるのだろう、そうとしか言い様がないのならば、なるほど日本語における主語というものの概念は虚しいものだと思ったのだった。

#小説


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