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怪異実話(15) -参州磯丸の歌のこと-

#00299 2014.6.19

 参州(三河国)の伊良古崎に平次郎という網引の漁夫が住んでいました。平次郎は孝心の深い男で、父のしゃっくりの病に悩み、食事もできないことを歎いて、その地の産土神・伊良古明神の社に断食参籠し、父の病気の快癒を祈ったところ、その孝心が神明に通じたのか父の病は治りました。
 
 その後、平次郎は他人が歌を詠むことを羨ましく思い、「歌というものは聞いても面白いものだ。我も何とか歌詠みになりたい」と、再び伊良古明神の社に断食参籠し、「どうか歌詠み人にならしめ給え」と只管(ひたすら)祈ったところ、満願の日に御拝殿で慎み深く拝していた時、蛙が一匹どこからか目の前に飛んで来るのが見え、それを見た瞬間、不思議なことに胸中に歌が一首、自然に浮かんで来ました。
 
 しかしながら、平次郎は元より無筆文盲で一字も読み書きができないため、そのまますぐに拝殿を立ち過ぎ、親しい人の許へ行って、「我は今、歌を詠みました。忘れない内に書記して下さい」と頼んだのですが、その人は「どうして汝に歌を詠むことができようか。空事だろう」と云いました。平次郎が答えて、「疑われるのも仕方ありませんが、しかじかの訳で一首の歌が胸中に浮かんだのです」というので、その人が「ならばその歌は」と尋ねたところ、「いひ出(いで)ぬ 池の蛙の 我がことや 身を浮草の ねのみなくらん」と一首の歌を詠み、その歌を詠んで以来、平次郎の胸中には歌が限りなく浮かんで来るようになりました。
 
 その後、播州に行って明石の人丸明神の社に参籠して祈り、また上京して北野天満宮にも参籠し、芝山大納言殿(京都の歌道宗匠芝山大納言持豊)に入門を許されて弟子になることができたのですが、宮中より「時鳥(ほととぎす)」という題で歌を詠むようにとの仰言(おおせごと)を下され、「九重の みはしのもとの 橘に とのゐして鳴け 山ほとゝぎす」と詠んで奉ったところ、仙洞御所(上皇の御所)の叡聞(えいぶん)に達して御感動あらせられ、御褒美として平次郎に磯丸という実名を賜られたのでした。
 
 磯丸が京都より帰国の折、伊勢大神宮に参詣したのは(旧暦)八月末ことで、朝夕は既に寒くなっていたのですが、旅立ったのは夏の頃で、衣服は夏の単物(ひとえもの)だったため、「いかにせん 中は過ぎゆく 秋風に 夏のまゝなる 旅の衣手」と詠んだところ、伊勢長官より衣服を賜り、さらに両宮の神職の家々より衣服数反も賜り、それらの衣服は伊勢より参州・伊良古崎まで伝馬二頭によって運送されました。
 
 また、ある人が稲田に蝗(いなご)が付くことを憂えて、磯丸に「蝗を除く歌を詠んで下さらんか」と頼んだので、「露ならで いとふ稲葉に つく虫を はらへ水穂の 国つ神風」と詠んで賜ったところ、その歌を書いて稲田に立てると忽(たちま)ち蝗は消えて稲が栄えました。
 
 また、ある人の子が白くもという病にかかり、髪の毛が抜けるほどになったため、「白くもを治す歌を詠んで下さらんか」と頼まれ、「人草の 上にかくれる 白雲を はらへ高まの 原の神風」と詠んで賜りました。
 そして小児の月代(さかやき、前頭部)を剃って頭をよく洗い清め、その歌と磯丸という名を隙間なく真黒になるまで書かせたところ、白くもの病は忽ち治ったのでした。
 
 また、ある人が瘧(おこり)の病を煩って歌を頼んだ時には、「天地(あめつち)を 動かすことは 難(かた)からめ 露のおこりを おとせ言の葉」と詠んで賜ったところ、瘧の病は忽ち癒えました。
 また、ある人が肩に疔(ちょう)という腫物が二、三できたのを患って歌を頼んだ時には、「立て往け花 なきかたに 二つ三つ 何を便りに 蝶(疔)留まるらん」と詠んで肩に書いたところ、疔の腫物は忽ち消えました。
 
 また、ある人が旅立つ時に、道中で無難の守り歌を頼んだため、「玉鉾の 道の守りの 神かけて 恙(つつが)なかれと 祈る言の葉」、「野辺にても 暮れなば宿を 借る茅の 葉におく露の 身こそ安けれ」と詠んで賜わったのですが、この歌は今も霊験があり、また他にも歌に奇特があったことが数多く伝えられています。
 
 磯丸は若い頃は無筆でしたが、歌人となって後は自らの歌を自筆して残したため、天保末年、齢(よわい)八十余歳で終焉を迎えた後も、それを世の人はただただ賞翫(しょうがん、尊重)しました。また、伊良古崎の町家が出火した時、磯丸の家のみ焼けずに残ったことも不思議なことであります。
 
(清風道人云、糟谷磯丸大人(うし)は「歌聖」と称され、また「無筆の歌詠み」とも呼ばれた実在の人物で、大人が見るもの、触れるもの、思うことが自然に歌となって口をついて出たことが伝えられています。
 磯丸大人が生きた時代は天明の大飢饉、浅間山大噴火、天保の大飢饉などが相次ぎ、大塩平八郎の乱を始め各地で一揆が起こった不穏な世相でした。そこで救いを求めた人々に対して磯丸大人は、庶民の困り事を解決する禁厭(まじない)歌を詠み与え、やがて多くの人々に尊敬されるようになり、帰幽後は磯丸霊神として伊良湖神社の境内に祀られ現在に至っていますが、大人は清浄利仙君の御神示「歌や詩は実情より出て世人のために作る道である」を実践されたといえるでしょう。 #0241【『幽界物語』の研究(11) -詩歌について-】>>
 さて、和歌の霊験についての伝承は、菅原道真公が左大臣・藤原時平によって無実の罪を着せられ、大宰府へ左遷させられることとなり、京の都を去る時に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」と詠んだところ、その梅の木が都から一晩で大宰府の道真公の屋敷の庭へ飛んで来たという飛梅伝説をはじめ、古来より夥(おびただ)しく存しますが、そもそも心中の想念や祈りを表現する言葉は霊なるものですので、歌に霊験があるのも当然のことで、神法道術で用いられる秘詞の多くが詩歌調であることも頷(うなず)けます。 #0281【『幽界物語』の研究(51) -菅原道真公のこと-】>> )

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