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『本朝神仙記伝』の研究(71) -米叟上人-

#00453 2017.1.3

 米叟上人(べいそうしょうにん)は何人(なんびと)たるかを詳らかにせず、またその常住の所を知らず。よく音楽に通じて、その秘曲を知りたりと云ふ。
 土佐国の藩士に谷好井(たによしい)と云へる人あり、即ち谷秦山(しんざん)先生の後にして、今の谷中将の先なり。国学を以て名あり。
 嘗て京都に遊べる時、鞍馬山に於て米叟に遇ひ、催馬楽(さいばら)の、『その駒』、『伊勢の海』、『田中の井戸』、『席田(むしろだ)』等の秘曲を授かり、心中に歓ばしく思ひけるが、後に心付きて、元来この態(わざ)は雲の上の秘事なるを、かく習ひたりとも、その家々の咎めもやあらむ、如何にすべきと思ひ、その由(よし)を米叟に云ひて尋ねければ、米叟答へて、「もし咎むる人あらば、我に習ひたりと答へらるべし。我に問ふ者あらば、我は常陸国なる岩間山にて異人に出会ひし時習へるならば、ありのまゝに然(しか)答ふべし」とて、岩間山の異人のことを種々語れる中に、「飯を供ふるに、形の見えざる時にも供へたる飯の失せることもありし」と語れりとぞ。
 
 然るにこのことは、谷好井の男子・谷万作正兄(たにまんさくまさえ)と云へるが、常に父・好井より聞き居たりしを、好井は文化四、五年の頃、世を去りしが、その後十四、五年を経て文政四年の八月、正兄江戸に在りし折しも、平田篤胤翁の許に高山寅吉と云ひて、常に仙境に通ふ童子あり。
 この童子を仙境に誘(いざな)ひしは、即ち常陸国なる岩間山に住む仙人なる由(よし)伝へ聞きて、文政四年八月二十八日に正兄自ら平田家を訪ね、かの寅吉に会ひて、「山にて催馬楽と云ふ音曲を聴きたることは無かりしか」と尋ねたるに、「さる音曲は名は知らず」と答ふる故に、然らば『その駒』、『席田』等の文句を云ひ聞かせて、「かゝる文句の音楽を聴きたることは無かりしか」と云へば、「その文句の音曲は聴きたることありしと覚ゆ」と云ふにぞ。正兄これを聞きて、さては米叟が云へることは事実なりとて、大いに感じけるとぞ。 
 かくてこの米叟は、自ら鞍馬山に居りつゝも、岩間山の異人より音楽の秘曲を伝へ得てありしを始め、如何にも常人の如く聞こえぬを思ふに、これまた所謂(いわゆる)仙人の一人にてありしならむと云へり。
 
 厳夫云、本伝は平田篤胤翁の著に係る『仙境舞楽』の図巻に付せられたる書中に見えたるを採りてこゝに載せたり。
 然るにこの米叟が催馬楽の秘曲を習ひたりと云ふ、常陸国なる岩間山の異人とは如何なる御方か知る由(よし)無きに似たれども、然らず。これは本書の中に載せたる髭道人の伝の下に、『仙境異聞』を引きて云へる、かの高山寅吉を仙境に伴ひし杉山僧正と云へる仙人にて、この仙人の常陸国なる岩間山に住むことは同書に詳らかなり。 #0435【『本朝神仙記伝』の研究(53) -髭道人-】>>
 
 然れば米叟に催馬楽の秘曲を授けたりと云ふ異人は、必ずこの杉山僧正仙人にてありしならむ。今これを思ひ合すべきは、本伝に、米叟が岩間山の異人に飯を供ふるに、「形の見えざる時にも供へたる飯の失せることもありし」と語れる由見えたるが、余(よ)嘗てこれを聞きしに、平田家に於て高山寅吉がその師・杉山僧正仙人を祭れる時も、固よりその形は見えざるに、供へたる飯は失せて無くなりしことのありきと云ひしが、全く米叟が語れると符合せり。
 
 かれこれを思ふに、米叟も杉山僧正仙人の弟子にて、既に得道したるも猶仙去の時至らず、暫く人間(じんかん)に留まりて居(おり)たるものなるべし。 #0339【『異境備忘録』の研究(24) -勲功を立てる-】>>
 因みに云ふ、この杉山僧正仙人を始め、『幽界物語』なる清浄利仙君、また『異境備忘録』なる何某先生を始め、猶数十人の神仙あれども、思ふ旨ありて暫く本伝にこれを載せず。乞ふ、この諸仙を知る諸氏、強ひてこれを咎むる無からむことを。 #0233『幽界物語』の研究(3) -幸安の師・清浄利仙君-】>> #0329【『異境備忘録』の研究(14) -肉転仙の幽助-】>>
 
(清風道人云、『幽界物語』及び『異境備忘録』にも、道を得て地仙以上の位階を得られた、本朝における数多の歴史上の人物の御名が見えます。)

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