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霊魂と肉体(9) -顕幽一致-

#00631 2019.12.27

 然るに普通の人は我が身中に然るものゝ有る事等は固より知りませぬから、何事も皆その可否善悪共に自己の心のみにて決行しているものゝやうに思ふて居りますれど、事実は決してさうばかりではありませぬ。その訳が判ってみると実に恐るべき事があります。
 
 それは如何であるかと申すに、この世界は顕界(あらわよ)と幽界(かくりよ)とがありて、今我々の住んで居る所は申すまでもなく顕界にて、人間世界でありますが、この顕界の外に猶幽界と申して神等(かみたち)の坐します神の世界があります。
 
 世の始め所謂(いわゆる)神代と申した時代には、その神の世界と人間の世界とが今日のやうに未だ判然と分かれなかった故に、神も人も雑居して居たものでありますれど、天孫御降臨に際して天下(あめがした)の顕事(あらわごと)と申すこの人間世界の事とは別に、幽事(かくりごと)と申すこの国土に属する幽界の事は大己貴神即ち大国主神の治め給ふ事に天祖大神の御定め在らせられしより、顕界と幽界とが追々に相隔たりて遂に今日の如く全く隔絶するに至ったものであります。 #0480【扶桑皇典(10) -顕幽分界-】>>
 
 そこでこの顕界の人間には幽事及び幽界の事が一切判らぬやうになって仕舞ひまして、神代の事や幽界の事を疑ふやうに成ったのも無理からぬ事ではありますれど、それは畢竟(ひっきょう)我が神代の古伝の研究の足らぬ故の事にて、神代の古伝の講究が十分に出来たらむには毫(ごう)も疑ひを容るべき余地無きに至るべきは申すまでも無き事であります。 #0221【神道宇宙観略説(12) -日本の神典は世界無二の実典-】>>
 
 これに於てその神代の古伝に依って調査致してみますに、この世界の事と申すものは、何事も顕界ばかりで行はれて居るものではありませぬ。矢張り幽界と相俟って顕幽一致して行はれて居るものでありますから、総て顕界ばかりを見て幽界の事を知らずに居ては大いなる過ちが出来ますから、始終左の目にて顕界を見れば必ず右の目にては幽界の上を観て居るやうに致さねばなりませぬ。
 
 既に前に申しました人間の魂と魄との事に就ても、矢張り目に見えぬ幽界の神が冥々の内より人の魂を助けて善を勧め給ふ事もあれば、また魄を助けて悪を為さしめらるゝ事もあります。
 その天国に属する善神が人の魂を助けて善を勧め給ふを神の恩頼(みたまのふゆ)を蒙る称し、また太陰根国に属する悪神が人の魄に入りて悪を増長せしめらるゝを禍神(まがかみ)に相率(あいまじこ)らるゝと称します。
 
 その神の恩頼を蒙ると申す事に就ては、神代の巻の上巻に、大己貴命・少彦名命の御神徳の事を挙げて、「百姓(おおみたから)今に至るまで咸(ことごと)く恩頼を蒙る」と載せ、また『景行天皇紀』の四十年に日本武尊の御東征の事に就て奏上在らせられし御言の中にも、「頼皇霊之威力」とあるを「ミタマノフユノ、ミイキホヒニ、ヨリ」と訓を付け、また「頼神祇之霊」とあるをも「アマツカミクニツカミノ、ミタマノフユニ、ヨリ」と訓んであります。
 
 これは皇霊(スメラミコトノミタマ)にも坐しませ神祇(アマツカミクニツカミ)の霊(ミタマ)にも坐しませ、その神霊(ミタマ)の幸魂(サキミタマ)をサキハヘ賜るに依りて、分与(サキハ)へられたる方に在りてはその魂の殖(フ)ゆるが故に威力も加はれば幸福(サキハヘ)も得らるゝを以て、ミタマノフユは霊魂(ミタマ)の殖(フユ)と申す意義と見えます。
 
 次に禍神の相率り相口会ふと申す事に就てもその例を挙ぐれば、『祝詞式』の道饗祭詞(みちさえのまつりのことば)に、「八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売、久那斗(くなど)と御名(みな)は申して辞竟(ことおえ)奉らくは、根国(ねのくに)底国(そこのくに)より荒美疎び来む物に相率り相口会ふ事無く、下より往かば下を守り、上より往かば上を守り、夜(よ)の守り日(ひ)の守りに守り奉(まつ)り斎(いわ)ひ奉り云々」と書かれてあります。
 この詞に因りてその荒び疎び来りて人々の魄に率る物は根国底国より来るものである事は確実に知らるゝのであります。
 
 またこのマジコルと申す詞は全くマジリコムと申す意であります。またその荒び疎び来る物即ち禍神なる事は、同じ『祝詞式』の御門(みかど)祭詞には、「四方(よも)四角(よすみ)より疎び荒び来む天(あめ)の麻我都比(まがつひ)と云ふ神の言(いわ)む悪事(まがごと)に相率り相口会ふ事無く云々」とあるにて知らるゝのでありますが、この「麻我都比と云ふ神」とある神を直ちに彼の伊邪那岐神の禊祓を行はせ給ひし時に生(あ)れませる大禍都日神(おおまがつひのかみ)・八十(やそ)禍都日神なりと思ふは誤りであります。
 この神は又の名を瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)とも申して彼の『大祓詞』に見えたる祓戸の四柱の神の内の一神に在らせられ、特に罪穢れを忌み嫌はせ給ふ神に坐します事は、伊邪那岐神の禊祓の段(くだり)の事、また祓の事の御話を致す時に委しく申し述べませう。 #0199【清明伝(2) -心の祓い清め-】>>
 
 然らばこの御門祭の詞に「麻我都比と云ふ神」とある神は如何なる神を指すかとの疑ひを起されませうが、これは彼の根国にて伊邪那岐神を追ひ来りし予母都志許売(よもつしこめ)の類または伊邪那岐神の筑紫の日向の橘の小門の檍原にて禊ぎ祓ひ為し給ひし時に、予母都国の穢れ触れたる御帯、御衣、御褌(ちはや)を投げ棄て給ひ、その物に依りて成りませる道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)、和豆良比能宇斯神(わずらいのうしのかみ)、飽咋之宇斯神(あきぐいのうしのかみ)等申せる神等(かみたち)数多(あまた)ありますが、これ等の神等の部類眷属の神であります。
 然ればこれ等の神等も根国底国より荒び疎び来りて世の中に禍事を起すより矢張り禍神とは申すと見えます。 #0147【『仙境異聞』の研究(12) -悪魔は存在する?-】>> #0273【『幽界物語』の研究(43) -幽界の禍物-】>> #0361【『異境備忘録』の研究(46) -魔界-】>> #0505【扶桑皇典(35) -妖物-】>>

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