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【日本遺産の基礎知識】関門“ノスタルジック”海峡~時の停車場、近代化の記憶~(福岡県・山口県)

執筆:日本遺産普及協会監事 黒田尚嗣

福岡県と山口県の日本遺産「関門“ノスタルジック”海峡~時の停車場、近代化の記憶~」の基礎知識を紹介します。
※本記事は、『日本遺産検定3級公式テキスト』一般社団法人日本遺産普及協会監修/黒田尚嗣編著(日本能率協会マネジメントセンター)より一部を抜粋・再編集したものです。


日本遺産指定の背景

古来より陸上・海上交通の要衝であった関門地域は、幕末の下関戦争を契機とした下関・門司両港の開港以降、海峡の出入口には双子の洋式灯台が設置され、沿岸部には重厚な近代建築が続々と建設されました。
狭隘(きょうあい)な海峡を外国船が行き交う景観の中、日本が近代国家建設へ向け躍動した時代のレトロな建造物群が、時が停止したかのように、現在も残されています。渡船や海底トンネルを使って両岸を巡れば、まるで映画のワンシーンに紛れ込んだような、ノスタルジックな街並みに出会うことができます。

海上交通の要衝「関門海峡」

1.関門海峡の歴史地理的位置


古代以来、官道や主要な街道は関門の地で結びつき、多くの人や物資の交流が行われてきました。瀬戸内海と日本海との結節点でもある関門海峡は、陸路と海路の十字路を形成し、幕末には外交や通商を迫るため、西洋諸国の黒船も通過するようになります。
その重要性を理解していた長州藩の志士は、海峡を封鎖し攘夷を実行しました。これを契機に下関戦争が起こり、日本が開国へと舵を切り、歴史の潮流を変える転機となったのです。

2.国際港湾都市「関門港」の開港と発展


下関戦争で大敗した長州藩は、元治元(1864)年、講和使節に高杉晋作を任命して講和を成立させ、下関港は、事実上、開港しました。
ブラントン率いる英国人技術者集団が海峡西側の六連島灯台と東側の部埼灯台を設計し、ともに明治5(1872)年に初点灯され、日本の文明開化と関門海峡を照らし始めたのです。この双子の洋式灯台の灯に導かれて、下関港と門司港は、共に特別輸出港や大陸との定期航路の寄港地に指定され、国際港湾都市として一躍注目を集めることとなります。
また、関門地域の国際的な重要性をいち早く見出した駐日英国公使アネスト・サトウの提案により、明治34(1901)年、下関に英国領事館が開設され、これをきっかけに、明治後期から大正にかけて、重厚な構造かつ当時最先端の意匠をもった近代建築が林立するまち並みが形成されていきました。

旧下関英国領事館

3.「海峡七路」の完成


昭和に入り、海峡の両岸を海底で結ぶ関門鉄道トンネルの建設が計画され、この世界最初の海底トンネルの完成により、文字どおり「関門」として立ち塞がっていた海峡が、陸路によって突破されました。その後、車道・人道トンネルの開通、さらに関門橋の架橋により、関門海峡に「海峡七路」と称される多様な交通網が完成します。それまで陸上と海上交通の結節点としての役割を担ってきた関門地域は、本州・九州間の通過点となり、明治から昭和初期にかけての重厚な近代建築群がまるで時が止まったかのように残ることになりました。

「関門“ノスタルジック”海峡~時の停車場、近代化の記憶~」の詳しい情報はこちら

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著者プロフィール

日本遺産普及協会代表監事。近畿日本ツーリストなどを経て、現在はクラブツーリズム株式会社の顧問を務める。旅の文化カレッジ講師として「旅行+知恵=人生のときめき」をテーマに旅の講座や旅行の企画、ツアーに同行する案内人や添乗員の育成などを行う。また自らもツアーに同行し、「世界遺産・日本遺産の語り部」として活躍中。旅行情報誌『月刊 旅行読売』に「日本遺産のミカタ」連載中。著書に『日本遺産の教科書 令和の旅指南』などがある。日本遺産国際フォーラム パネリスト、一般社団法人日本旅行作家協会会員、旅の文化研究所研究員、総合旅行業取扱管理者

運営:日本遺産普及協会


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