見出し画像

「必要悪」と「正義」~検察・警察・自衛隊、そして国は正義の味方なのか

 というツイートを先程、したのだが、この話をもう少し詳しくしてみたい。

 検察はそもそも巨悪と戦う「正義」の味方ではなく、治安や法秩序の維持を通して国家という権力機構を守る為に存在する機関であり、私たち国民を国家が取り締まる組織。

 ただ、その治安や法秩序が維持されることが私たち国民が暮らしていくのにも必要不可欠な為に、取り締まられる私たち自身も検察を謂わば、「必要悪」としてその存在を容認せざるを得ないのだ。

 勿論、検察はそもそもが国家という権力機構を守る為に存在する機関なので、時には検察が国民の望む「法秩序の維持」よりも安倍内閣など「権力機構を守る」為にこそ働く、その結果、検察は国民にとっての「悪」になるという理屈…この点を理解せずに、検察を単純に「正義」として捉えるのは明らかに間違いなのだが、この間違いを犯しているマスコミや国民が大多数なのも確か。

 その結果、どんなに必要ではあっても「悪」である以上、規制や制限が加えられるべき検察が「正義」としてやりたい放題になっている現実もこの国には存在する。

 例えば、検察の暴走を防ぐ為に法規定として設けられている「法務大臣による指揮権発動(検察庁法第14条)」も、「正義」である検察を巨悪が妨害する悪法という誤った印象操作で今や事実上、使うことが出来ない代物に堕している。

 また、ちょっと変わった所では、昔は悪役のイメージが強くて、司法試験に合格した司法修習生の中で人気がなかった「検事」の人気が上昇。今では希望者が殺到という、それこそキムタクのドラマの影響のような話もあるが、いずれにしても検察が「必要悪」ではなく「正義」という誤った認識がこの国で広まっているのは間違いない。

 とくにこの国の検察には「起訴便宜主義」という、起訴か不起訴かの権限を全て検察官が持つという絶大な権限が与えられている為に、国民が納得出来ない起訴や不起訴が相次いだり、人質司法などにも見られる検察の横暴と強権ぶりを招いたり、今のこの国の「検察ファッショ」と呼ばれる状態の大きな要因になっている。

 で、この話は検察にとどまらない。

 実は同じような目的と意味で、警察や軍隊(自衛隊)も存在している。特に警察や自衛隊は暴力という判りやすい「悪」をふるう組織なので、「正義」ではなく「悪」、ただし「必要悪」だという考えは納得しやすい筈。

国家という存在は、国の独立や社会の秩序を守るために、暴力装置を合法的に独占・所有しています。それが国家のひとつの定義だろうと。暴力装置というのは、すなわち軍隊と警察です。日本では自衛隊と警察、それに海上保安庁も含まれます。  『軍事を知らずして平和を語るな』石破茂

 これがマックス・ウェーバーが述べた「国家による暴力の独占」ということだし、「暴力装置」という概念(検察も国民に対して強制力を持つ公権力行使の機関であり、広い意味では「暴力装置」とも言える)。

 ここまで考えてくると、そもそも「国家」という権力機構そのものが「正義」なのか、「悪」なのか、という考えにも至ってしまうが、国家を単なる「悪」と見なせばアナーキズムとなるし、国家を純粋な「正義」と見なすのは悪しき国家主義や全体主義に過ぎない。

 私たちの文明が社会契約論に基づいて国民国家という権力機構の有り様を選択してからもう何世紀も経っている訳だが、その「悪」と「正義」のどちらでもない、謂わば国家を「必要悪」と見る考えこそが主流だったのではないだろうか。

 検察、警察、自衛隊、そして国についても、単純に「正義」と捉えるだけではなく、「悪」として懐疑的に見つつ、制限を加えながらも「必要悪」として私たち国民自身の為に利用していく…この考え方こそが正しいと私は考えるのだが。

 

※「検察」についての具体的な問題点については、宜しければ、こちらの記事を。



twitterやYouTube「日本国黄帝チャネル」では言えなかったこと、言い足りなかったこと、ニュースや様々な事柄をTVや新聞は決して伝えない視点で発信していきますので、あなたの考えるヒントになれば幸いです。