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国語の時間

作文が好きだった。

読書感想文は不思議なくらい苦手なのに。

小学校から中学卒業まで、なぜかよく学級通信に自分の作文が掲載された。

恥ずかしかったが、先生が笑ってくれるのがうれしかった。


辞書を眺めるのも好きだった。

そこには知らない漢字や単語や慣用句があって、言葉の表現の細やかさに驚いた。

言葉の海を漂うのは、どういうわけか気持ちがよかった。

もっと気持ちに沿う言葉があるのではないかと、何度も辞書を繰った。


文を書いたり本を読んだりするのに辞書を引きまくるうち、親の所有していた古い辞書から、入学祝の辞書、授業で使う辞書、兄弟の辞書まで私の部屋に総動員された。

辞書にも性格があって、意味の正確性は何より、解説文から編纂した人の個性が垣間見えることがある。

一番のお気に入りは金田一春彦編の現代新国語辞典。

いまも手元にあるが、表紙もかすれて綴じも解れてボロボロになってしまった。

近々、ご子息の秀穂氏が編纂に加わった新版の購入を考えている。

私は金田一家三代それぞれの書く文章、そこから見える人柄が好きなので、辞書に関しては金田一編と決めている。

私が思う、それぞれの先生の特長を挙げてみる。


・京助先生といえばアイヌ民族。アイヌ語だけでなく、宗教・文化的な側面もしっかりと記されている。今はもう日本領でないところまで旅した記録が興味深い。詩的でおおらかな文章。

※京助先生の本は、特に随筆はほぼ絶版になっているが古書店で手に入りやすい。ネットに出品されているものの多くは高額なので注意。


・春彦先生といえばアクセント。方言からその土地の背景、日本人の精神が垣間見える。とても博学で、日本語の成り立ちや変遷に理解を深めたいならこの方。手抜きのない文章で、知識欲を満たしてくれる。


・秀穂先生はとてもユーモラスで、考え方が自由で柔軟。発想自体がとても面白く、笑わせてくれる。正しい正しくないという旧来の学者的な構えがなく、何ともゆるくて心地よい文章。学者というより旅人のよう。


いまの世の中では文系よりも理系のほうが評価される。

それは別に構わない。

しかし、たまに聞こえる「国語なんか役に立たない。だって正解なんてないんだし」という言葉には悲しくなる。

まず、人の好きなもの、得手不得手を否定してはならないだろう。

国語とは何か。

言葉という最低限のツールで、自分の気持ちを伝えたり相手の気持ちを慮る術を身につけることだと私は思う。

「国語なんて…」と口にすることは、「人の気持ちがわからない、自分は思いやりがないし思いやる気もない」と宣言しているようなものだ。