抜け落ちてしまった言葉はどこへ行く?

なんというのだろう、これは私という俗物なりの現実性から出てくる疑問というか考えなのだけど、人との会話って、先を追って最終的な理想を追うあまり、もしくは相手を尊重しようとするあまり、本心を伝える言葉が抜け落ちてしまうことがある。

私は時々思う。理性というものが相手への配慮のつもりであっても、「理性」という名を借りた我儘、あるいは保身のようなものになって、理性を盾に相手を傷つけてしまうことだってあるんじゃないかって。自分はポーカーフェイスな理性で乗り切っても、我儘を望んだかもしれない相手の心はどうなってしまうのだろうと。

理性は結局のところ、何かを守るためのものでしかない。それが自分であれ他人であれ、社会的なものであれ、何かを守るということは、自分を抑えているだけではなく、むしろ抑えることで、どうしたって他のものを傷つけてしまう。そう考えると、理性を立てつけられた側からすれば、自分にも他人にも大して有難いものでも、感謝されるものでも、ましてや立派なものではない。

言葉や会話は大切だけど、本当に伝えたいことは伝えないことで伝わることもある。それに、抜け落ちてしまったからこそ、タイムラグがあって伝わったりもする。

そこまで考えて、己の言動は愛情なのか理性なのか?と自分に問うてみると、本心をむき出しにした我儘こそ、相手が心から望んでいたものであったり、喜ぶものであるのなら、我儘も一種の愛情であって、純度1000%の情熱なんじゃないかと改めて思う。

私は自分を欺けないし、欺く気など全くない、私は俗物だって悪人だって何だってかまわない、
好きなことは好きなのです、好きな人は好きなのです、仕方のないほど好きなのです、朝から晩まで好きなのです、夜も眠れないほど好きなのです、気が病んでしまうほど好きなのです、ただ、好きなのです。


#我儘 #理性 #本当の情報


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