地上には風を、地下には水を

小説で読んだのかドキュメント番組を見て聞いたのか定かではないが、山に、あるいは地下にトンネルを掘る場合に重要なのは、岩盤を爆破の連続で掘っていくのではなく、"岩盤で"トンネルを作るのだそうだ。なるほどなと思った。むやみに硬い岩盤を爆破させ、地下も地上も支えているかもしれない鉱脈を失えば作ってきたトンネルも潰れ、地上も沈下する。トンネルを掘るというのは緻密で精度の高い計測が不可欠なのだと改めて考えさせられた。

考えてみると、地下の岩盤の構造は自分の精神構造と似ているのかもしれない。下手に触らないほうがいい。私はたまに集中的に読書をするが、ネットやテレビで情報として紹介される本より、自分の手が自然に求めるまま手に取って読んでいることが多い。読書をしているあいだは意識があまり外に向かない。これはどういうことかと考えてみると、トンネルを掘っていることとても似ていることに気づいた。自分の中にトンネルを掘っている。ここのところずっとそうだ。地下に入り込み、凄まじい迷路のような自分の精神構造を観察し、様々な地層に細心の注意を払いながら、「ショーシャンクの空に」のアンディー・デュフレーンのごとく、小さなハンマーで少しずつ岩を破壊していく。岩を砕くには最低限の腕力は保持してなければいけない。最後の一振りで一気に壁が崩れ、向こう側へ通じる先に新境地が待っているのか、それともそこを掘り続けないと出会えなかった運命的な水脈に出会うのか。考えても分からないが、砕いた岩の破片で傷だらけの魂のまま新しい風に纏われたいという欲求が本能なら、地下で待っている運命の層に触れてみたいと願うのもまた本能なのだろう。

小説でも映画でも音楽でも、長編でも短編でも、大作でもショートフィルムでも、シンフォニーでも数分のラプソディーでも、表現の幹への旅に飽きる日はおそらく生涯来ないだろう。文章を書き始めてからというもの、周りからは「変人」、「宇宙人」から始まり、「悪魔」、「鬼」、「亀」と言われ、「反逆者」、「ギャンブラー」、「挑戦者」、年明け早々には「ババアには愛が足りねえ!」などと言われてきた。べつに私は何者でもかまわない。が、おそらく「漂流者」でもある。そしてもしかしたら?漂流者はいつも心のどこかで、天邪鬼だと分かっていても他人より少しでも嘘をつかないですむ人に、サリンジャーのようにライ麦畑でつかまえられたがっているのかもしれない。


#日記

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