楽しい椅子、嬉しい椅子、悲しい椅子

寝室のベッドの横に椅子を置いている。今は一人暮らしなので椅子の上に服やパジャマを置くようになっているが、元々は人が座るための、ただの椅子だった。一人用のアームチェアだった時期もある。私は椅子が好きだ。ベッドの横にある椅子は、かつて風邪で寝込んでいるとき、私が何気に話す他愛もないことに当時の同棲相手が聞き手となって相槌を打ったり、思うことを言ってくれたりするためにあった。ぽつりぽつりではあるけれど、お互いの考えを交感して、それだけで発熱の疲労を忘れるとまでは言えないが、風邪で弱っているけれど一人ではないという安心感を得ることができた。

一緒に暮らすくらいだから生活のパートナーであることには変わりなかったが、彼は典型的なアウトドア派で、ものごとを深く考えるタイプではなく、彼との会話にはテレビのような一方的に情報を与えてくれる媒体が必要だった。それを話題の種にして一緒にテレビを見ながら会話が始まるのだ。私もテレビを見るのは嫌いではないが、話題のきっかけがテレビだけなのかと思うと、そんなものだろうかとも思った。

部屋で一緒にソファーに座って映画を観ることもよくあった。が、私は映画を観たあと、しばらくは余韻を楽しんだり考え込んだりして自分一人の世界に入り込んでしまう。それとは逆に彼の場合は映画を見終わると、それはそれとして、映画は映画として終わってしまい、これといって言葉を交わさずソファーから立ち上がり、すぐに外へ遊びに行こうとする。私はもっと、外に遊びに行く前に何かをどうかしたいのだけど、彼は間が持たないのか、私が”どうかする”ことを避けたがっていることが分かるので、結局映画については2人とも何も言葉を交わさないまま一緒に遊びに行ってしまう。彼は足が地面に着いている時間が短い。男とはそういう生き物なのか? 私は足が地面に着いている時間は長いが、頭の中がひとところにいたたまれないところがある。相性の問題だろうかと考えたこともある。

彼が私と同棲する前は母親と二人で暮らしていたようだ。どういう暮らしをしていたのか知らないが、「あなたに任せていれば、あの子(彼)も私も安心だ」というようなことを、彼のお母さんによく言われたものだ。「あなたのことを母親のように思って安心してるんじゃない?」とまで言われた。どういうつもりなのだろう、そんなことを言われても私は全然嬉しくなかった。どういうふうに育てたのか知らないが、私は彼のお母さんにきっぱりと言った。「私は彼の彼女であって、躾役でも母親でもありません」。年の差や立場の違いなど全く関係なくまっすぐにものを言う私に、彼のお母さんは閉口していた。

彼が私と話している途中でテレビをつけてしまうと、私との会話が退屈なのだろうかと思うことも多かった。
普段の様子から察するに、彼は退屈というよりも、自分の考えを改めて考えたり言葉にしたりするのが面倒くさいというのと、考えたこともないことをわざわざ考えるのが面倒くさい、そんなふうに見えた。彼氏彼女の関係とは、そんなものだろうか。

付き合い始めて日が浅い頃は、いろんなことを話して相手のことを知りたい自分のことを知って欲しいと思うのは当然だ。でも彼が黙っていると私は何か表現に困っているのではないかと思い、想像して「○○ってことなの?」と助け船を出すと、「うん」とうなずくだけ、それで会話は終わる。やはり考えるのが面倒臭かったのだろうか。考えるのが好きな私と考えることが苦手な彼、デコボコだからこそ上手くいくと期待したこともあったし、仕事の業種が違うのでシフトが合わなかったもののコンサートやリサイタルにも行った。あまり旅行はできなかったけれど実際楽しい時間も沢山あった。たまには一人の時間も必要だろうと敢えて一人にしてあげたこともあったのだけど、私に楽しい時間だけを求めた彼に、それは余計なことで、私自身が向いていなかったようだ。私は彼に楽しい時間以外も求めていた。
今でも思う。考えることを諦めちゃダメだ。

貯金で買ったダイニングテーブルにも二人分の椅子がある。窓側が彼の席、自然にそうなった。食事中の会話は楽しかったが、ある時期から彼は食事が終わるとさっさと居間のソファーに移動してしまうようになった。あれだけ私になついていた彼が、一人の時間を持ちたがるようになった。「想定外のことを話されると困惑する」と言われたこともある。自分の頭の中にある選択肢以外のことを話されるのが嫌だったらしい。自分では制御の効かない女はいつだって嫌われる。やはり相性の問題なのだろうか。

そう悩んでいたが、実は彼には新しく好きな人ができていた。相手は彼が勤める会社の社長令嬢だ。彼が突然このアパートを出て行ったその3か月後には結婚していたようだ。子供も出来ていたとか何とか、全ては何となく分かってきたことだ。彼のお母さんも知っていたようだが、私には何も知らせてもらえなかった。彼と一緒に住んでいながらも、既に蚊帳の外の人として扱われていたのかもしれない。それはそれで仕方がない、文句も言えない。彼との付き合い方には自分にも原因がある。加えて、自分一人で自分だけの世界に際限なくのめり込んでしまうという私の性格も災いしたのだろう。

それでも人は変わる?
それでも人は変わらない?

一年近く経ったとき、部屋にある通信機器類の名義変更のために彼に電話したが連絡が付かず、通信会社から彼の会社に連絡を入れてもらった。彼も彼女(奥さん)も会社を去ったらしい。それでも名義変更は無事にできたが、彼らが会社を去った理由は分からないし、誰にも聞かなかった。

「何も起こってないように見える時に全ては起こっている」という、どこかの本で読んだ言葉が、このときほど胸に刺さり、自分を苦しめ、自分で噛みしめたことはない。

恋人同士だからこそ言えないこと、親友だからこそ、友達だからこそ、親子だからこそ言えないこと、兄弟だから、姉妹だから言えないこと、世の中には言えない関係だらけだ。相手のことが分かりすぎて何もかもを察してしまい、何も言えなくなってしまう。

愛が愛として伝わらない、優しさが優しさとして伝わらない。人間として、女として、男として、大人として、子供として、これほど悔しく、涙も出ないほど悲しいことはない。その結果、より深い関係、もっと濃い関係になりたくてもなれないという言葉以上の関係もある。

それでも会いたい人はいる。でも会ってしまうと、言葉の限界を超えられない気がしてしまう。どうなんだろう?

今日も私は、ダイニングテーブルの窓側の空席を何かで埋めようとしている。やりたいことで。やらなければいけないことで。



#日記


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