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デ・ゼッサント&チャールズ・ボン

その男との会話はいつも私の心に不思議な形の波を起こす。聞こえてくる言葉が空気に乗って耳に届くとき、私の中で聴覚とは別の感覚が開く。言葉と言葉のあいだに、キミは何もしなくていい、そのまま聞いているだけでいいのだ、という意味のメッセージが含まれているようで、それが私に安堵感をもたらす。オレは難しいことは言わない、とてもシンプルなことしか言わない。だからリラックスしていいのだと。

朝の喫茶店のコーヒーは久しぶりだ。1階に本屋の入ったこのビルの2階と3階は喫茶店になっている。2階は静かではあるが、本屋の客がそのまま上がってくるので少し人数が多い。3階は更に静かで、朝なら客はまだいない。明るさも程よく、チョコレート色の壁をバックに所々に置かれた不老不死の観葉植物、ハランがよく似合っている。きっと夕暮れ時の店内も素敵なのだろうが、私は朝早い時間の、まだ店全体がせわしくなる前の手垢の付いてない新しい空気が好きだ。

時として媚びるような芳香を放つ両性具有的な雰囲気の彼も、この時間は化粧をしていない休日の女のように無防備で気取りがない。私は化粧をしているものの毎日が休日のようなものなので、さぞだらしのない顔をしているだろう。そう思ってあまり見つめられないように何か話をしようとしたときだった。

「コロンビアの女神みたいだな、Mollyの顔」と、先に彼が言葉を発した。
またやられた。この男は私の思考回路をなぞることができるのか?
「え?誰の顔?コロンビア?」
「コロンビア・ピクチャーズだよ、映画会社の。映画が始まるときに聖火か何かを持った女神みたいな女が出てくるだろ」
ああ、あれか・・・
「あっという間にズームアウトされるけどさ、髪をアップにしたらあれにそっくりなんじゃないかな」
私は半径1メートルの空気に僅かな波が立ったことを感じてしばらく黙り、そして波が収まるのを待ってから言った。
「もっと小さな声で言ってよ。それにあの女神の顔、ちゃんと顔を見たことないから分からない」
「今度映像をストップさせて見てみなよ、きっとそっくりだよ」
彼は私に煙草の煙がかからないように顔をずらし、視線は私に向けたまま笑って言う。

彼が会話で私に近づこうとするプロセスは、プロの金庫破りがドアに耳を当てて繊細な手つきでダイヤルを回しながら、錠が外れる音に耳を澄ませている映像を想起させる。
カチン、と小さくはじくような金属音が確認できれば、鉄の扉を躊躇なく開き、彼は間を置かずに一気に襲い掛かるだろう。そして中身を丸ごといただく――
でも怖がることはない。私に中身などないのだから。

「年末年始はどうしてるんだっけ?実家に帰ったりするの?」
「いいえ、アパートにいるわよ。ここ数年はそうしてる」
「一人で大掃除でもやるの?」
「大掃除は春と秋に年2回やってるの。真夏や真冬に窓拭きなんて嫌だし、身体が動きやすい季節に済ませるのよ。全部やり終わるのに3日はかかる」
「間取りは同じでもオレの部屋とはずいぶん違うんだろうな」

部屋は私のサンクチュアリだ。デ・ゼッサントという没落貴族の青年が主人公であるユイスマンスの「さかしま」という小説がある。デ・ゼッサントのように暮らすこと。それが私の理想だ。でもあんな生活、実現は不可能だろう。あの作品は淡々と彼の生活が描かれているだけの退屈なデカタン小説だ。大きなストーリー展開もなく浮き沈みもない。でもそれだけにデ・ゼッサントという人物を浮き彫りにすることに成功している、不思議な小説だ。
私は口から煙を吐き出してから言った。
「なんの色気もない部屋よ」

彼は箱からタバコを1本取り出し口にくわえてライターで火を付ける。喫煙者のたったそれだけの動作を今まで何百回、何千回見てきただろう。それでも彼の一連の動作には無駄がないように感じた。何年気づかずに同じアパートに住んでいたのだろう。

私には、今年の夏に知り合った友達でもなければ恋人でもない男がいる。その男は、突然現れた、といっていいだろう。奇襲のようなものだ。でも目の前の彼、ミスター・ポイズンは「表れた」のではなく、気が付いたらそこにいた、そんな感じだ。それはベトナム戦争などの映画で見るジャングルの中のベトコンのようなしなやかさと恐ろしさが・・・

「付き合っている男はいるんだろ?」
ほら、まただ。彼はどこから私の思考を読み取るのだろう?気が付いたら心を読まれている。
「連絡をとっている男性はいるけど、まだ若いし、特別な関係とは言えないでしょうね」
「だったら特別な時間を過ごすこともないのかな」

特別な関係でない男と、どう特別な時間を過ごすというのだろう?オレは何も特別なことを尋ねているとは思ってないよ、といった取り澄ました顔。でも彼の言葉がタバコの紫煙のように私にまとわりついてくる。
私は思う。こういうときに肝心なのは、強がらないことだ。強がったところで何もかも見透かす彼には敵わない。ある程度は正直に身を委ねて、神経の強度を温存するほうがいい。

「頻繁に会うわけじゃないの。付き合ってるわけじゃないし、下の名前で呼び合ってるわけでもない。第一、彼からは一度も好きだって言われたことがないのよ」
「好きだっていわれたことがない・・・」

彼は私の言った言葉を低い声で反芻しながら思案しているようだ。私と彼のどちらが吐きだしたかのか定かでないタバコの煙が、店内に飾られたハランに届こうとしている。煙に働きかけられたハランの巨大な葉は、ゆったりとした動きでそれに反応している。

「そいつはさ、好きなら好きだ、惚れたなら惚れたと素直に言えない奴なんだろうな」
「それくらい・・・」と言いかけたが、彼に遮られた。
「あのなMolly、好きなら好きだと素直に言えない奴は、嫌いなら嫌いとも素直に言えないんだ」

私は黙った。だから何なんだ、それくらい分かっている。でも今の彼の言葉によって、一直線に進んでいた何かを強引にグニャリと飴のように曲げられたような感覚が、強く残った。私は彼の言葉を待つ。私の目を見つめたまま彼は続ける。

「クールな奴に限ってそうなんだよ。肝心なことが言えない。そんな男は何も言えずただ黙々と現状を受け入れるしかない。そういう不器用さがあるんだよ。男って情けねえんだ」

さらに追い打ちをかけるように曲がったものに釘を打って、意図的に固定されていくようだ。でも私が変なのではない。彼が変なのだ。私は口を開く。

「つまり?」
「つまり?」
「嫌われてる可能性がある?」
「嫌われてる可能性がある?」
今度は私が彼の目を見つめて言った。
「そうやって村上春樹の小説に出てくる主人公みたいに繰り返さないでくれる?」
「分かった」

私の心をなぞるように近づいてくる。近づいて金庫を破って中身をごっそりいただくつもりなのかもしれない。でも私の中は空っぽだ。なのに空っぽだと分かっても彼は動揺しない。それを最初から知っているからだ。中身が空だと分かっていながら確信を持って罪を犯そうとする。落胆した様子はおくびにも出さない。それが彼だ。
その奇妙な振る舞いは、フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」に登場する徹底した宿命論者、チャールズ・ボンを思わせる。

ミスター・ポイズンの話し方は独特だ。発せられた言葉は暗号化された電文のように私に届く。当然そのままでは解読できないので、私は頭の中の解読器を使わなくてはならない。私としては面倒なのだが、彼は自分の言葉を全ての人に届けるつもりはない。
では理解できる人にだけ届けばいいという種類のものかというと、そうではない。そんな楽で雑で勝手な方法をとるのは私だけだ。彼がとる手段とは思えない。届く相手を絞っているようにも思えるが、それとは少しニュアンスが違う。むしろ届いてほしいというヒューマニックな願いのようなものがウェーブとなって電文と共に届くのだ。

彼にも感情はある。でも伝わってくるのは感情ではない、もっとフィジカルなテンションだ。そこには内面とか感情とかいう温かさや冷たさ、あるいは色合いや意味を伴ったものはなく、もちろん善悪の概念もない。科学的で単純な心電図や周波数で伝わってくるテンションだけだ。そのテンションを感じるとるかぎり、私は彼の言葉を無視できない。

でも今日の彼は少し違う。何か失敗するのを予測してギリギリのところで止めたような気がする。いや、止められなかった。だから私はわざわざ解読する必要がなかったのだ。それが私を落ち着かせている。彼は何かに成功し、何かに失敗している。「しまった」と思っているだろうか。

何かを伝えようとするテンションの高さは「何か」と共通していると、どこかで読んだ気がした。でもそれが何だったのか、私はあえて思い出そうとはしなかった。


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