雑記/人権とは言うけれど
だいたい建前を言えるくらいの小賢しさがあると、現実的で冷徹な意見に対してすぐに人権がどうこうという話をしたがる。が、僕は人間が人権に救われている所なんて見たことがない。例えば、穀潰しのニートである僕が29まで生きられた事が人権の恩恵だという向きもあるだろうが、それはどうだろうか。僕個人としては、身近な人間がたまたま最低限の慈悲を持ち寄って生かしてくれただけとしか思えない。或いは、その都度に利用価値があっただけだ。メンヘラのケアだけは得意だったから。とにかく人権に生かされている実感は全くない。
人権人権と声高に言うからにはもっと公が弱者を救済するべきだと思うが、小さい政府を目指す日本は自助を推奨し、どんな問題もなるべく家庭や親族間での解決を求められる。家庭や親族間のトラブルが原因で困窮している場合、殆どの公的機関はだんまりを決め込む。生活保護も、障害年金も、社労士でも通さない限りはどんなに困窮していても貰えることはない(1%くらいはあるかも)
世間は弱者男性がどうこうのような、偽りの(或いはマイルドな)弱者救済にばかり目を向けるが、本当の弱者とは『誰の目にもとまらない』存在だと思う。そして、そういう人間は、誰からも救おうとさえ思われることなく自殺か孤独死する。ワープアでもまだ収入があるだけマシだろう。モテないなんて、生活の基盤がある分だけ贅沢すぎる悩みだ。たぶん、路傍で変死体になり見つかるようなホームレスというのは想像より多く存在すると思うが誰も気がつくことさえない。
紛争地帯からの難民などの扱いを見てもそうだ。おそらく戦争による被害者に、現代の可哀想ランキングで勝てる存在などいない。しかし、社会は難民に冷たい。政府も同じだ。人権があれば誰かの命が守られるというわけではなく、一部の人道的な活動家が個人的に援助してくれているのが実情だ。そして、その網にかかるかどうかなんて完全なる運でしかない。震災の復興も同じようなものだ。政府は本当なら見捨てたいと思いながら、渋々公費を使っている。SNSの声に石川県の避難所の中には、弁当が一日に一度しか出ない場所もあるらしいという告発があった。確かに、無いよりはマシだろうが、無いよりはマシと擁護できるギリギリの支援というのが、やっている感を出すのが露骨で本当に渋々しか金を使いたくないのが伝わってくる。震災の被害者という、何の落ち度もない人間さえお金をかけて貰えないのなら、僕みたいな人間が手を差し伸べて貰えるわけがないのは明らかだろう。政府は弱者を救済したいだなんて思ってはいない。
結局のところ、人権が保護しているのは『守る価値』のある人間だけなんだろうと思う。公共の利益にならない人間は、社会も個人も本当なら消えて欲しいと思っているのが透けて見えている。弱者救済を心から望んでいる人間なんて、それこそ0.1%でもいれば良い方だろう。社会主義が上手くいかないのは、制度の問題ではなく人間の本性が弱者を蹴落としのし上がることに快楽を求める性質だからなのだと思う。人間はみな残酷なのだ。
故に、誰もが平等に生きる権利があるというのはあくまでも理想だ。事実ではない。健康で文化的な最低限度の生活なんてものは別に保証されてなどいないし、保証されていない実態を何度も見たことがある。僕はそういうお題目と化した善性が嫌いだ。無いなら無いとはっきり言ってくれた方が気が楽だし。建前は社会性などと言うが、では社会性とは欺瞞じゃないかと思う。大人になるとは上手に嘘がつけるようになることだ。
とにかく結局のところ、人は人を見返りなしでは助けてはくれない。そういった意味で、隣人愛を説いたイエスキリストは革新的な存在だったんだろうとは思う。結局は彼も『社会を乱す』という理由で磔刑にされ殺されてしまった訳だが。それはそうだ、弱者を踏み躙りたい欲求を持つ社会にとって、これほど厄介な敵もいなかっただろうから。