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何の為に読書をするのか?

 はっきり言って、僕は100%自分が面白いからでしか読書をしていない。読書が何かしらの教養であるという意識はあまりないし、故に読書家が偉いとも思っていないし、小説家も個人的には好意を持っているが『偉い人』だとは微塵も思っていない。僕にとって、読書とは単なる娯楽である。

 例えば、僕は太宰治の斜陽が好きで何回か繰り返し読んでいる。しかし、主人公と母と弟については細部を思い出すことが出来るが(それでも人名を覚えるのが苦手で名前までは思い出せない)どういう親戚のツテを使って東京から田舎(舞台の地名も思い出せない、たしか伊豆?)へと移住することになったのかも思い出せない。しかし、僕は斜陽が好きである(それを否定される謂れはない)。お前のそれは間違った読書だ、と言われても、斜陽の文体とそこに表される人間の感情が好きなのであり、一方で羅列される情報にはあまり興味がないのだ。

 そういう好みの問題もあってか、僕は殆ど推理小説やSF小説の類いを読まない。理由は恐らく単純で、僕にとって純文学というジャンルに比べるとそれらは文章そのものの響きやリズム、登場人物の感情表現の割合が少なく感じて物足りないのだと思う。僕は例えばJ.Dサリンジャーや、或いは梶井基次郎のように主人公がだらだらあーでもないこーでもないと内情を吐露して終わるような作品が好きなのだ。

 現代の作家でいうと、村上春樹はかなり好きだが彼特有の謎めいた世界観みたいなものには、やはりあまり興味がない(そこに集中していないので世界観の方は覚えていない)ので、『世界の終わりと〜』系統よりは『ノルウェイの森』や『ねじまき鳥クロニクル』のように比較的わかりやすい作品の方が好きなのだと思う。

 読書家=賢いみたいな先入観が『読書をすることには他の趣味と比較して価値があるか?』みたいな変な話題を生み出してしまうんだろう。

 しかし、僕なんかは例としてわかりやすいが、『中卒』でも年間100冊以上本を読むやつはいる(ニートだと時間は幾らでもある)し、いちいち全部の内容を暗記するまで丁寧に読んでるわけでもないだろう(逆に読書家なら『百年の孤独』の登場人物で家系図書けたりするのか?)し、右から左へと、読むだけ読んで何の糧にもなってない読書など沢山あるし、それを読書とは呼ばないなんてこともない筈だ。

 その瞬間が楽しければ娯楽としてそれは正解だし、逆に内包された意味ばかりを読み取ろうとして言葉の響きや美しさに目を向けないと苦痛になる本なんて幾らでもある(アンドレジッドの『地の糧』とか、本当に途中で投げ捨てて街へ出てやろうかと思った)

 そして、本を読むことで国語力が増すか?のような教育的な命題にもあまり意味はないように思える。別に詰め込むように本を読んだところで、僕みたいに中卒で終わる個体もいるだろうし、読書によって文章を書く能力が高まったとも思わない(僕の文章は恐らく読みやすいものではないだろう)

 じゃあなんで数ある娯楽の中で読書なの?と聞かれれば、身も蓋もないが本は他の娯楽より安いので値段に対して潰せる時間の効率が良いというのが僕の答えだ。今風に言えばとにかくコスパが良いのだ。

 そもそも、僕の生まれた家は貧しかったので、だいたい幼少期から暇つぶしはもっぱら学校の図書館だった(型落ちのゲーム機(PS2全盛期に、PSやSFCで遊んでいた)や遊戯王くらいはしたが)大人になってからも古本屋に1000円くらいもっていけば8冊は本を買えて、速読でも軽く1週間は楽しめる(早い?遅い?その辺りは個人差があるだろう)のが大きかった。

 そういう境遇の中で育ってきたので、読書をすることがある種のステータスになる世界をあまり知らなかった。僕自身も内向的な人間だし、趣味を他人と共有することも滅多にないので本を読まない人の方が圧倒的に多いらしい(?)ということすら歳をとるまで気が付かなかったくらいである(人より他人に興味がないのかもしれない)

 まぁ、もう一度だけ僕の意見を述べておくと『読書は楽しいからする』でいいんじゃないかと思う。そこに高尚な価値を付加しないといけない理由も僕にはよくわからない。

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