葬式は生きてる人のためにある。

知り合いが死んだことが信じられなくて、葬式に行かなかったんだけど、
悪手だったなと今更ながらに思う。
行きたくなかったから、行かなかったので、この選択は私がしたのでいい。
そうではなくて、葬式はその人がこの世からいなくなったことを生きている人達に知らしめる、死んだ人をあの世に送る儀式に見せかけた、生きている人達が行う、生きている人達の為の儀式だったんだなと思った。

で、この儀式でちゃんとこの世からいなくなったことを確認しないと、
その後ひきずることになるのかなと。でも、今回の場合、葬式に行かなかった場合と行った場合が比較できないのでなんとも言えないが。
仮に行ったとしても、やっぱり悲しさは拭えないので、同じかもしれない。

突発性難聴もどきになったのが、5月の忙しさのダメージか、仕事のストレスか、
6月の天候の過激さか、それともこの死の理不尽さが受け入れられないのどれかなのか、合わせ技なのか見分けがつかない。だけど、この死が私に多大なストレスを与えていることは間違いない。

私は考えるのが趣味みたいなものだから、ずっとこの死について考え続けて、
そして別に答えもでないんだけど、それでも、文章に書き出すことで少しはまとめらるようにはなってきたかも。文章に書き出すことで整理ができるから、前進。
悲しいのか、理不尽だなって思ってるのかよく分からないけど、気持ちが消化できないというか、受け入れられない。受け入れられないからなんだってことなんだけど、寂しいかな、そう寂しい。もう会えないんだなって。
それもおかしな話で、しょっちゅう会ってたわけでもないし、実際に会うのは年に何回かだったのに、思った時に連絡がとれないということで、寂しくなるのか。
死ぬと言うことの理不尽さよ。理解できぬ。

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