この世が「できるやつ」ばかりになったら?

ギクッとした題名になってしまった。書いてる僕も誰かがこんなこと書いてたらゾッとする。「なんかのビジネス書か自己啓発本の煽りじゃないか?」と。

僕はできるヤツの対極にいる人間である。まず、できることとできないことの差があまりに極端である。なので、小学校時代から僕の内面には不登校(僕らの時代には「登校拒否」なんて言われてた)の気配がずっと自覚的に存在した。

できない場面での僕は悲惨なものだった。小学校時代のあだ名は「ボケ老人」。22年3ヶ月勤めうつ病になった合わない場所での仕事では、見るも無残なパフォーマンスだった。

なのになぜか、僕はできる方の人間と思われてしまうことがある。彼らを見て思う。「あぁ、どうせ僕の本性を知ったら、途端に無能だの役立たずなのと言い出すな!」と。なので、期待値はなるべく低く、もっと言えば初対面の時には僕の存在は目立たないほどいいと言うのが、今までの経験則として存在する。

表題の話題に戻るが、「この世が『できるやつ』ばかりになったら?」どうなるかという問題提起は、できない側の人間の僕にとって、僕に罵声を浴びせてくる人たちへの反論としてよく考えるものである。

「そんなに人を無能扱いするんやったら、まずわしら役立たずを放逐すればいいじゃないか。で、お前らみたいにパワハラしてストレス発散するような成績優秀で素晴らしいサディストたちがこの世を席巻すれば、全てがうまくいくんじゃわ。」。

歴史上、実際そういう実験をやった国がある。旧ソ連の「大粛清」である。ナチスドイツの「最終的解決」は、ユダヤ人に対して行う前哨戦として、「T4作戦」というのをやっている。精神障害者・知的障害者・同性愛者など、社会のお荷物と考えられた人たちを収容所に送り込み虐殺したのである。

露骨にこういう政策を実行したこの二つの国のいくすえは、みなさんご存知のとおりであろう。ナチスドイツは崩壊し、ソ連も崩壊した。

ただこれは、国家社会主義者や共産主義者だけの問題ではない。必勝劣敗の考えは、むしろアメリカや西欧の国に存在する。もちろん東アジアの日本にも韓国にも北朝鮮にも、そして中国にも存在する。上司が従業員を評価する目は、女衒が売春婦の良し悪しを見るような目と何が違うのだろうか。
「こいつは使えるなぁ、ありゃダメだ!」である。

話が本題からそれてしまっている。この世ができるヤツばかりになったら、多分ものっすごくカッコいい世界ができるだろう。ナチスの制服はカッコよすぎていまだにそのファッションを真似るフェチのみなさんが絶えない。少なくとも外見的には。
ただ、我々「できない・使えない」と烙印を押された側の人間がそのまま黙っていると思われても困る。放逐された、その外側から、我々はお手並み拝見させていただきたい。

我々「できない」だ「バカ」だと言われた人間としては、成績優秀生の築いていく世界がどんなものなのか、外側からではあるが、けだし見ものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?