政党議会制は民主主義にあらずーー  政策ごとに抽選で選ばれた代議員の多数決で決める「抽選民主主義」制度を提言


【民主主義のはずが、庶民を犠牲にし続ける政治】

長年続く政治不信。リーマンショック前から今に至るまで実質賃金は下がり続けているが、国民向けの減税はなく、逆に税控除は縮小され、消費増税には容赦が無い。一方で法人税は好景気でも一貫して減税傾向だ。小渕政権では99年に高所得者向けの所得税最高税率の引き下げ、法人税の減税と国民向けのいわゆる定率減税があったが、景気回復を理由に、定率減税のみ07年に廃止され、リーマン後も復活はなかった。一方、法人税率はその後も右肩下がりで減税され続けた。

政府は19年10月の消費増税時はリーマンクラスが来ない限り増税すると言ったが、いざ導入ができれば、その後にどれだけ大不況が訪れようが関係ないらしい。コロナ渦の空前の景気悪化でも社会保障財源の確保だと言って庶民には「負担の論理」で消費税減税はやらないと言う。

一方で、企業向けでは、どれだけ最高益を上げていても、国際競争力に打ち勝つためという「配慮の論理」が適応される。実質賃金が下がり続ける国民には負担を強要し、2017年頃まで最高益を上げてきた大企業へは配慮の論理だ。コロナ渦では、あまりに実体経済へのダメージが深刻で、国際比較からも政府の日本国民軽視が明白となり、10兆円規模の国民向けの財政支出が検討されているが、これとて国際比較の議論や大きな世論がなければ到底なかっただろう。その10兆円とて、消費税で換算しても年間の消費税収の50%弱であり、払った税金の半額弱がやっと戻ってきたに過ぎない。しかも、自粛要請などでほとんど売上がなくなった事業者への支援も補償はわずか最大でも100〜200万円で、金融支援といっても大半は貸付だ。そんな中小企業の事業存続が危ぶまれている状況で、政府はV次回復予算として、5Gやレアメタル貯蔵など、不急の項目に巨額の財政支出が行われる。国民の感覚からはまず、国民の生活や中小事業者の事業継続に対策の優位性がおかれるものとの認識があるが、今からコロナ回復後の事業を経済対策だとして既存の事業継続より「優先」するというのだ。

【政権による利益相反とその必然】

このような利益相反はあげればキリがない。最近の固有事例では、民間が水道事業の運営を可能とする改正水道法(18年暮成立)を巡って、民営化を推進している内閣府民間資金等活用事業推進室に仏水道サービス大手の日本法人社員が出向していたことや、仏で官房長官補佐官が接待を受けていたことが問題視されたこともあった。水道事業を担う民間が有利な事業を展開できるようになれば、それはそのまま国民には不利になる。この件を問いただされた菅官房長官は「服務規律を順守させている。制度上の問題はない」とシラを切っている。これで許されるのが実態だ。

日本だけではない。欧州で特にコロナ渦が酷かったイタリアは、EUの落第生と言われるほど経済が悪化していたが、中国マネーを受け入れ、その依存度を増していった。港湾の権益の一部を売却し、自国民への雇用対策を行わず、ブランド産業を中心に安価な中国人労働者を受け入れ、コロナ渦では、交流の強かった武漢との往来を止められず、被害を拡大させてしまった。ギリシャやポルトガル、なども同様だ。こうした国々の上層部に中国が手を回したていると考えない方が非現実的だろう。

規制緩和とは利権である。なぜ、その規制が必要なのかの理由を棚上げし、緩和のメリット部分のみを強調し、特定の民間企業に甘い汁を吸わせているのである。規制とは本来、国民を守るために存在するが、企業から見れば、規制撤廃はビジネスの大きな種になる。国民が不利益を被る分、企業は得をする側面があるのだ。企業を得させれば、政治家も得をする。

そもそも政治家は誰のために政治をしているのか。政治資金パーティは支援者から2万円の会費を募って資金集を目的としたパーティーを行っているが、彼らは2万円の会費を支払って来場する業界団体の関係者のための政治、仕事を強いられる。「消費税を上げてでも、法人税を下げてくれた方が配当や役員報酬が増えるので、法人税を下げてくれ、社会保障のためと言えば国民を納得させられる」と頼まれる。しかし、国民のために逆のことをやれば、選挙資金も集まらず、次の選挙への立候補すら危うくなる。

こうした国民に対しての利益相反はなぜ起きるのか。なぜ政治家や政府がそれを主導したり、陳情攻勢を許容するのか。

総理大臣を含め、政治家は国会議員としての身分、官僚も国家公務員と言う身分、とその職業の上に成り立つ。政治家や官僚も人間である以上、民間人同様に自らの身分を守ることと組織内での出世がまず第一である。

議員が官僚が役職の身分を守ることと、国民の利益が一致する場合は問題はないが、全ての政策がそうとは限らない。政治家は官庁や業界団体、所属会派の意向に反して政策を実行することは難しいし、業界団体の要望や意向とはたいてい一般国民の利益とは相反する場合が多い。官僚も組織としての省益を無視して、管轄や指揮監督権、予算を放棄することに繋がる政策はしない。国民から見た非効率、不採算こそが=政府の利権である。

例えば労働市場の規制緩和は非正規化をもたらし、G20先進国でも賃金の伸び率は最低クラスだ。その分、大企業は収益を上げており、相反関係になっっている。外国人労働者の受入に関する規制緩和(改正入管法)も経済界の要望で実現したが、これも日本人の給与上昇の機会を奪うものとなっている面がある。

こうした国民の不利益=財界の利益の政策は、要望や陳情の結果でもあるが、こうした要請を無視することはなかなか難しいし、政党の大きなスポンサーにもなっている。もちろん国最大のスポンサーは税金を納める国民であるが、選挙は数年に1回しかない。しかし、陳情や要望は年中ある。この要望をかなえるか叶えないかが政治家や官僚の利権となる。増税など国民の関心事が強い問題は軽々に実現が難しいが、そうではない政策は正当化できる理由さえあれば、例え国民に不利益があろうと、その部分には触れなければいいだけであるため、実現は簡単である。


【政治不信は属人的な問題ではない】

このような政治不信は「〇〇政治家が悪いから」と言う属人的な問題ではなく構造的に必然的な問題だ。

政治家や官僚が自らの身分を守るための行動と、国民の利益は相反すると言う構造的な問題があるためである。本来、行政執行者として利権と情報を持ち、国民の利益に対するインセンティブや動機が薄い官僚に対し、政治家は監督、指導が期待されているが、それはあくまで国民が勝手に懸ける期待である。現在の選挙制度が根拠のない性善説に立っており、
権力欲や金銭欲を自己の目的にして「国民のためだ」と嘘をついて立候補する人間の存在を想定しておらず、そういった人間の真の姿を見抜き、立候補や当選を防ぐ手段もない。

現職であれば、よほどの失態がない限り再選する選挙期間では、政治家とて、国会議員としての行動原理が国民のために向く動機は薄いのである。

【国民と政治家・官僚は別人格。人間は自らの属性より身分を優先する生き物】

つまり、政治を行う側・行政(政治家・官僚)と国民の関係はあくまで「別人格」であると言う認識が必要だ。人間は属性より対価や権力の根源である身分や立場を優先する生き物である。権力を手にした政治家や官僚が、見ず知らずの国民のために、本気で汗を流し続ける理由はどこにあるのだろうか。国民がそう信じているだけではないだろうか。約2200万円の議員歳費をもらう国会議員が平均年収が400万円の国民の民意を反映するための代表と言えるのだろうか。誰が政治家になっても、このような構造では、余程ポリシーがない人物ではない限り、ダメ政治家になってしまう。

そしてそもそもポリシーや良心がある政治家は、このような政治体制では決して出世できない。理想的な政治家と現実の政治家には大きな矛盾があるのだ。業界団体の意向を無視して国民のための政治で正論を振りかざす人間に、経団連など業界団体の支援を受ける政党の幹事長や総裁は決して公認を与えないからである。

仮に清廉潔白で国民のために行動する信念の政治家が、総理や大臣など権力を得たとすれば、経済団体や官僚の既得権を崩すことになる。改革しようとすれば、大きな抵抗にも逢うだろう。特に国家の情報を知りうる官僚とまともに対峙しようとすると、官僚側がその政治家を排除したいと言う力学が働き、メディアへのリークも増えることになる。その政治家に失点がなければ秘書や周辺の人物でも構わない。とにかく、官僚にとって都合が悪い人物が大臣などになれば、排除の力学が働くことになる。それが嫌なら、官僚の筋書き通りに動かなけえればならない。

つまり、既得権の願いを叶える政治家が残り、そうではない国民のために動く信念の政治家は「簡単に放逐できる」構造になっているのである。短命に終わった第一次安倍政権は天下り規制などを盛り込んだ公務員制度改革を主要政策としていたが、なぜかスキャンダルが相次ぎ、わずか1年で退陣した。しかし、第二次安倍政権では公務員改革は後退し、戦後最長クラスの長期政権になっている。

財務大臣など、就任前にどれだけ増税に反対しようが、就任以降は、ほぼ増税派に転じている。これには度重なる「ご説明」もあるだろうが、財務省の傘下に国税庁がおり、大臣の説得に失敗すれば、査察をチラつかせると言う説も一部で指摘されるほどだ。真偽はともかく、やろうと思えばできてしまい、その動機も十分あるのだ。つまり、スネに傷がある議員を大臣にすれば、省庁の長ではなく、失敗の責任だけとる、操り人形にできるのだ。国民は頑なに根拠もなしに、そのようなことはやらない、と信じているだけだ。

こうした利益相反が国内だけで済めばまだいい。同様の陳情攻勢や、万一弱みを握られてしまったらどうなるか。カジノ誘致問題では、秋元議員が中国企業からの接待で逮捕されるなど、現実問題として起きている。

【実際は総理大臣による「独裁体制」である議院内閣制。民主主義は単なる思い込み】

今の総理大臣は進んで自己保身のためであったり、望まざる場合も含め、利益相反が起こりやすい体制だと言える。しかも、現在の日本の小選挙区制度での議院内閣制は、実際は独裁主義と言っていいほど権力が集中しているために、総理大臣が暴走すれば議会の存在意義が低く、止める手段がない。と言うのも、政党に属している以上、ほとんどの法案の採決では党議拘束があるため、事実上、一介の議員の意見や判断は法案の可否に事実上極めて反映されにくい仕組みになっている。党議拘束とは、実際には独裁主義である。このような独裁的な総理大臣を一人の人間に委ねる事を、果たして間接的な民主主義と言えるのだろうか。そもそも総理大臣は民意を反映しようがしまいが自由だ。国民の利益に反する政治をすれば、次の選挙で落ちるからしないはずというのは完全な思い込みで、実際には利益相反でも、嘘をついて正当化すれば、次の選挙でも当選できる。

この党議拘束という制度は本来は、目玉政策の予算案など、政権の意向を反映しやすくする事を目的に導入されているが、それが結果的に正しいとは全く限らない。むしろ、「良薬口に苦し」の理屈で、「国民が苦しみに耐える事こそ将来の発展や幸せに繋がる」と言う宗教のような考えの下、利益相反の理屈がまかり通ってしまう。

また、仮に政権の方針に意義を唱え、造反すれば、除名処分になり次の選挙でその議員は公認を失う。つまり、国民に選出されたはずの国会議員であっても、総理が内閣の名で提出した法案の「党議拘束があえて外されたごく少数の法案以外のほぼ全て」に自分の意思を表明できず、賛成を強いられているのが、現状である。

これは、結局、総理大臣など、最高権力者が「一人の人間」であることによってもたらされる負の部分だ。もちろん、優れた指導者が思いも寄らない手法やリーダーシップで民意の反対を押し切って、結果的に国を発展させられればいい。しかし、現在、日本も世界も一人の指導者が国を引っ張っているが、それが例えばGDPの向上とどう因果関係があるかは不明だ。ただ、日本ではバブル崩壊意向の30年は先進国でも最低クラスの経済成長率で、実施値賃金もこの10年以上は減り続けている。格差拡大も世界的傾向で、解決できた指導者は今のところ、いないと言っていいだろう。戦後の日本社会が急速に発展したのは、他国の教育水準が低く、ライバルの少ない中で、民間の努力と技術進歩によるものだろう。


【自分を殺さないと政治家になれない宿命】

現実的に、政治家になりたければ、与党か有力野党に所属しなければならない。無所属で活動ができるのはよほど知名度がある場合に限られる。選挙においても、政党所属と無所属での有利不利は政党助成金や選挙活動のしやすさなど、大きな差がある。有利不利が作れていおり、必然的に、政党所属を強いるように「法律的に」なっているのである。つまり、「国会議員になりたければ、政党に所属して自分の考えを捨て、幹事長や総裁の言う通りの行動をしなさい」と法律が示しているのである。

「政治家は自分の信念で国民の利益のために政権の提出する法案が悪いと思えば反対すべき」と言うのは完全に「ただの綺麗事」である。実質的に国会議員は政党で公認権を握る幹事長とその任命権者である総裁の2人が決められるのである。政治家の能力値の問題でも全選挙区に常に関心を寄せ、サッカーの代表のように、地方議員や公務員、民間に有力な人間がいれば、すぐトレードして常に人材を更新していけばいいが、実際はよほどのミスかスキャンダルを起こさない限りは、現職は次の選挙でもほぼ公認が得られる。

そもそも「選挙」とは有名無実化しており、有権者が優秀で国益に沿って行動する人を、現実的に選挙に置いて選ぶことは不可能だということである。一つは、国益のために本気で行動する人間は、政治家にはなれないと言うこと。もう一つはたとえ優秀であっても、見ず知らずの人間は選挙では決して選ばれないと言うことである。

日本は民主主義と言っても、国会議員になりたければ、自らの考えを捨てて大政党に所属し、総理大臣になるまで死んだふりをする投票ロボットとなるか、諦めるかしかない。

【政策や実行力を選べず、イデオロギーしか選べず、既存政党の既得権の土台にたつ小選挙区制度】

有権者も、所詮は個別政策を選ぶことはできず、議員が所属する政党のイデオロギーしか選べない。現在の小選挙区制は、普段の政治の結果責任を判断するのではなく、野党との力関係が全てと行っていい。いかに与党が不甲斐なくても、野党をよしと思わなければ、永久に既存の政権が続く。政権のない野党や無所属候補はいかに正しくてアピールしても、ニュース価値が低いため、世間に広く知られることはない。認知できない、認知されてないものは選ばれることがないのである。つまり、既存政党の既得権という土台に現在の選挙制度があるのだ。新党を立ち上げ、全国に候補者を立てるのは莫大な資金力が必要で、かつ、実績のない新党が得票を大きく伸ばすのも難しい。

人間は物事を選ぶ際は対象を調べ、比較検討の上で優位性をつけて選択するが、選挙では多くの当選を握る大半の有権者は、立候補者全員を詳しく調べて将来性を検証したうえで選択することなどない。既存政党に属する現職が、限りなく有利な現在の選挙制度を用いて「選ばれた」と解釈するのは大きな間違いである。知らない人間は選ばれないという、人間の行動原理があるため、いくら意欲があっても知名度のない人間は立候補をためらい、結局、選挙での立候補者は5〜10万人に1人いるかいないかだ。ある程度知っていて親しみのある人間の「追認」を数ある候補者から吟味して「選んだ」とは到底言えないだろう。

現行の選挙制度は人間の生物学的な心理的傾向を全く考慮に入れていないと言う極めて大きな欠陥と言えよう。大抵の判断基準は、有権者のイデオロギーに近く、支持する政党かどうかと、現職時代にスキャンダルを犯していないかどうかだ。新人と比べ、いかに現職が凡庸でも、現職というだけで圧倒的に有利な理由がここにある。こうした致命的な心理的バイアス(偏り)を放置したままで、政治家が国民からの信用を勝ち得て「選ばれた」と言えるかどうかは疑問だ。そして、利益相反が選挙結果を持って正当化されてしまうのである。

当選に必要な要素の格言は「地盤」「看板」「鞄(資金)」と言われる通り、能力や良心は重要ではない。

【与野党の二者択一を民意と呼べるのか】

このようにして「形式的に」選ばれた議員は選挙期間を過ぎれば、有権者や国民に配慮する動機はなくなる。数年後に次の選挙はあるが、所属委員会で無理に質問をして頑張らなくても、犯罪やスキャンダルさえ起こさなければ、何もしなくてもやり過ごせてしまう。政権トップの総理大臣も、より有利なタイミングで解散総選挙を打てる。このように選挙に関しては有利、不利が考慮されていないのが問題だ。特に小選挙区比例代表制では強引に実質的に与野党の2択を突きつけられ、信任されたことになり、選挙後の政治家の失策も信任した国民の責任とされてしまう。この小選挙区制度での実質的な与野党の二択は心理学で言うところの「ダブルバインド(二重拘束)」に近い。つまり、与党の個別政策や行政の対応には反対だが、仕方がなく与党という消極的投票行動は、本来、与党でも野党でもない、別の選択肢もあっていいはずなのに、2択を迫られ、無意識のうちに第三の可能性を排除されてしまい、結果的に与党を追認してしまう状態になってしまい、これをもって民意を反映されたとお墨付きを与えてしまうのである。

このように日本が民主主義の国と言うのは国民の勝手な思い込みに過ぎない。

【民意を反映する仕組みは抽選から選抜した代議員制はどうか】

やはり、最高の意思決定者は人間ではなく、あくまで、課題ごとに多数決であるべきではないか。政治家を身分として選抜してあとは放任の間接民主制はそもそも上記の理由から民主主義ではなく、現実には特定の人間による専制政治になっている。だから世論軽視で、国民の苦労や不安にも鈍感で無関心になり、利益相反にも繋がる。国民と国会議員に選ばれた素晴らしい総理大臣が国民を導いてくれていたら、少なくとも名宰相と言われる総理が過去にいたはずだが、高度経済成長期を終えて以降はいないだろう。池田勇人や田中角栄は評価はされているが、たまたま人口ボーナスと高度経済成長の恵まれた時代だったことも大きいだろう。

ここからは頭の体操だ。政治の意思決定を抽選やくじ引きで選んだ代議員で決めると言う仕組みを提案したい。
実はこの「くじ引き民主主義」はすでにヨーロッパでは一部で導入されていて、フランスでは一部の諮問機関の委員をくじ引きで決める案をマクロン大統領が提案したそうだ。アイルランドやベルギーでも法案などの審議会委員の一部を抽選で決める試みが実行されていると言う。こうした試みは、日本だけでなく、欧州でも特定政党が支配する議院内閣制による政治が民意から大きく解離していることによるものである。

直接民主制は物理的に難しいが、法案を決める議員や影響を与える審議会委員を抽選で選ばれた国民が代議員として自らの意見を直接反映することが、民意の反映の手段として近しいというワケだ。完全に抽選するか、抽選である程度選び、そこからペーパーテストなど行いある程度の質を保つようにするかは議論の分かれるところだろう。ただ、現状のように、私利私欲や利益相反に走ろうが、数年に1度、不甲斐ない野党との対立を、ガス抜きのように「選挙」として、民意を反映したように装える(選挙後に公約不履行や意図しない負担を押し付けられても国民は対応できない)制度よりはマシかもしれない。

【「抽選代議員民主制」の具体的アイデア】

具体的なアイデアはこうだ。3万人を日本国籍保有の成人から年収分布と居住地域の割合を実態と合わせて以降は無作為に選び、そこから、代議員の意思のあるもので知能テストのようなものを行い、最終的には日本人の平均生活者に近い500人に絞り込む。500人の理由は許容誤差を5%以内とされる400に余裕を持たせた数字で民意に近い信頼できるサンプル数であるためだ。この500人を月に1度程度、国会議事堂に集め、政策課題や法案ごとに多数決で賛否を問う。代議員には法案や政策の吟味や熟考を義務とし、交通費と宿泊費、日当など合計3〜5万円を支払う。任期は年6で継続性の観点から3年ごとに半分ずつ入れ替える。なお、在任中の圧力や陳情や賄賂を避けるため、在職中の氏名や情報は非公開とし、接触は法律で規制する。さらにこの500人の中から、緊急性を要する重要事項の決定や行政官の人事、やその他の調整をする理事会を作る。理事会は氏名公表で常勤で公務員並みの給料として、主に行政を監督し、人事権を持つことにする。

法案や政策の是非を問う判断には、推進派、反対派がそれぞれ、理由をいくつか示し、それを公開のWeb上などで見やすく、双方の主張を検討しやすいように示す。代議員はそれを精査する義務を負うものとする。吟味したのちに、国会で投票し、決定する。
もし、矛盾した決定がある場合は、改めてその優劣を問う。例えば、国民の移動や集会の自由を尊重するという決定と、伝染病の蔓延を手段を選ばず、食い止めるべきという決定があったとしたら、どちらの決定を優先すべきかをあらためて判断するというものだ。目的が手段を正当化するかどうか、目的に対して手段のデメリットが下回るかどうかの判断を下すと言うものだ。この制度の例外は予算案だ。予算案だけは決めないと、行政が止まってしまう。そのため、予算の総額や配分の案をいくつか作り、その中から多数決で得票が多いものを決めればいい。

行政については、前記の理事会が総理大臣や各省庁の政務三役を官僚や民間から指名し、省庁の大臣にはその省内の全人事権を与えて政治主導を行う。指導力のない現制度の大臣だと、官僚の政策の失敗などの責任だけ負わせるためのマシーンに成り下がってしまうため、いっそのこと官僚に委ねる方が無駄がないのではないか。国会議員がやる方が国民のためになるという理屈は、現状から見る限りは単なる思い込みだろう。

行政や法案などは、随時、国民から案を募れるようにし、常時案を
プールできるようなオープンな目安箱のようなサイトを構築し、そこから前出の代議員が法案の候補を選び、投票にかける。そして代議員の採決を経て法案化出来たりするようにする。もちろん急を要するような課題は総理や行政が対応することになるが、その行動基準を国民の意思とイコールの代議員が決めることで、真の民主主義を目指す。

以上の案は現状の国会議員で構成する政党執行部に代わり、代議員やそこから選抜された理事会が絶大な権力を握ることになる。権力の暴走を止めるのは任期だ。任期を伸ばそうとする懸念はあるが、それは、現在の制度でも同様だ。他国に目を向ければ、中国では習近平が事実上、任期を撤廃し、ロシアのプーチン大統領も同様だ。安倍首相も自民党総裁の任期を延長してしまったし、検事長の任期の延長ももちろん党議拘束で採決をしてしまった。つまり、権力の存在がある以上、独裁の懸念は政治制度や体制とは関係ないということだ。ただ、任期の重要性を認識した上で抽選で選ばれている以上、独占欲や権力欲のある人間が選ばれる確率は、現在のような野心があれば、誰でも立候補できる現在の制度よりは少ないのではないか。しかも、抽選の代議員であれば党議拘束もないため、無茶な法律も通りにくい。

暴走があるとすれば、代議員を現在のような国会議員のような高給を保証する身分に変える法案を提出してしまい、それを代議員が乗ってしまった場合だ。こうした暴走を防ぐためには、代議員の立場や身分変更の法案が提出された際は、別の抽選で選ばれた代議員が採決する仕組みを導入すればいい。つまり、代議員の自らの立場や身分、待遇に関することは自ら決められないという仕組みを作ることが重要だ。現在の制度では当選以降の国会議員の暴走を防ぐ手立てがないことを考えれば遥かにマシと言えるだろう。






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