何になろうとももとはタンパク質
身体的変化はなかなか難しいです。仮に変化したとしても、その変化に追いつけないタンパク質の塊の脳は受け入れようとしません。なぜ、身体的変化を起こさないといけないのか。環境の変化だと考えられますが、ホモ・サピエンスは環境を変えることができますので、自らの遺伝子を操作する手筈を整えなくても、自己中心世界をフレキシブルに動かすことが出来るのです。それにも関わらず、自らの変化を望むのはなぜなのでしょうか。ホメオスタシスが働けば進化はしないように思います。しかし、そのホメオスタシス自身もホメオスタシスが働いているにも関わらず、突然変異でホメオスタシスが分裂します。それはまるで大化の改新です。表面上は変化なく経過しても内部で変化を起こしている。生物が最も得意とする方法です。外部の変化、つまり身体的変化は何かしらの制約が課されているのです。現在が究極的最終形態。今を生きているようで今を味わうことは出来ない。今の連続は過去の連続。今を生きられないタンパク質の塊は酵素を使わない限りブーストができません。今の蓄積をなしているはずの現在は酵素の働きにより、今に近づこうとしている。しかしそれは線で描いた三角形のように、電子顕微鏡で見ているような不完全な存在でしかありません。イデアがあるからこそという考え、直感的には〇〇的イメージの合致です。
進化は未来に向かって効力を発揮し、過去との決別を好みます。未来に分子の塊自体を持っていくことができませんので、未来に託します。今を生きられないタンパク質が、過去をミルフィーユして、未来で生きようとする。これは自然の摂理そのものです。二項目で成り立つタンパク質世界は実は単純にできているのかもしれません。過去と未来の間に時間があると思っているのですが、そのようなものは全くなく、現実を受け止めきれないのも、過去を受け止めなければならない。