「ギャラクシー街道」に見る、監督の抗い
三谷幸喜、飛行機見た、似!(ミタニコウキ、ヒコウキミタ、ニ!)
本日とりあげるのは「ギャラクシー街道」。
三谷幸喜監督の映画最新作です。
以前、ぴあフィルムフェスティバルで入賞した時に、唯一僕の作品を褒めてくれた(いつまでそれをいうのか)審査員の香取慎吾さんと、特に思い入れのない(ならいうな)綾瀬はるかさん主演、その他大物俳優陣がへんてこりんな宇宙人を怪演する、おもしろ風コメディ風映画です。
僕の中でギャラクシーといえば「スーパーマリオギャラクシー」です。
任天堂の開発力を世の中に見せつけた珠玉のゲームであり、これを超えるギャラクシーにかつて出会った事はありません。
三谷さんは、僕のギャラクシーを塗り替えることができるのか?
今回はそこが争点になりそうです。
しかしこの映画、世間では散々の評価らしいです。
とにかくなるべく先入観を持たずに観たい映画だったので、レビューはもちろん、いかなる評判も耳に入らないようにと、しばらく山にこもっていました。
しかし、小鳥がさえずれば、三谷の悪口。
山がうなれば、三谷への憎悪。
というように、山にこもっていても聞こえてくるは、その悪評。山の生活に慣れると、動物が、自然が、何を言っているのか分かってくるんですね。。。誤算でした。
こりゃ早いとこ観ないと、ハードルが下がりすぎて何でもかんでも面白くなってしまうぞ!
という焦燥感にかられまして、先日、下山するや否や映画館に飛び込みました。
「はやく、三谷を!三谷の新作を!」
とさがむ僕を、売り子のお姉さんはどこかに置き忘れた愛想を思い出しながら、なんとか機械的な笑みを浮かべていました。
(それにしても、映画館のチケット売りの人って愛想ないよな)
さてスクリーンに入ると、大人気の三谷映画に関わらず、客席は酒焼け状態。
閑古鳥が鳴かずに「いや〜鳴いてる場合じゃないっすよ、野田さん」と馴れ馴れしく話しかけてきそうなくらい、ガラガラでした。
さて、肝心の内容です。
一言で言うと
三谷幸喜よ!あんたは映画をやめなさい!
……と言えれば話は終わりなのですが、どうもそうは言ってられない。
ただ、世間での酷評はうなずけました。
登場人物が思っていたよりも少なく、劇中のセットもなんだかやけに大味で、ガラガラの客席と繋がっているような錯覚を起こし(宇宙だから?)より寒々しい。笑いはなく常にシーンとしているから、足音だけがやたらうるさい印象で、これ大丈夫かな…と不安になるのです。
なんだか、役者陣の演技も空回りしているように見えて、
小鳥が「ミタニ、ツギナシ!、ミタニ、ツギナシ!」と鳴くのも無理はないなぁと。
一般的に三谷さんと言えば、一応、華麗な伏線の回収劇が得意なウェルメイド作家、という認識が広がっている事だろうと思います。
どんでんがえし!があるわけじゃないのですが、いかにも脚本家らしい、小ネタどうしの思いもよらぬ繋がり感でお客さんを満足させるタイプであす。
叙情に訴えて感動を巻き起こすような、三丁目の夕日的な仕上がりを期待されている作家ではありません。(夕日と言う意味では、マジックアワーやってましたが)
逆に言うと、期待されていることも明確で、客はその「うまさ」(まさにカギかっこつき)に感嘆したいしたいのです。
そう言う点で言うと今作は、客が怒って帰る内容です(実際に、途中で出て行くお客さんもおりました)。
因みに、自分は、三谷監督作品には、だいたい触れてます。
一応コメディ作家の端くれ(!?)ではありますので、なにかと気になる存在なのです(舞台はDVDで数本見てる程度ですが)。
ただ、舞台やドラマは面白いと思うのですが、どうにも映画は好きにはなれません。もたついているというか、野暮ったくて仕方がないというのもありますが、こう言う感じ面白いでしょ?という、広告代理店的、テレビ的なオールスターキャスティングな創作スタンスにげんなりするのです。
「おいおいおい〜三谷ちゃんよ〜俺ならこの映画で言いたい事、10分で言えるぜ?」
と、何も怖くなかった神田川なあの頃は、そんな恐ろしいセリフがついぞ口から出ていました(今は、全く思ってません)。
まぁ大ヒットしているから、自分の好き嫌いはゴミみたいなものなのですが(大人な俺!)、ステキな金縛りがあまりにつまらなかったので、もう観るのをやめようとかと思い、次の「清須会議」は未見のままです。
しかし!!今作「ギャラクシー街道」に関しては、かつての三谷作品にはないような、不思議な魅力がまとっている(ような気がします)。
三谷作品て、観たら何も後に残らないような発散型の作品が多いのすが、今作に関しては観終わった今でも、ギャラクシー街道とは一体なんだったのか?と、思わずにはいられません。
一度観ただけじゃ、解読できませんでした。
物語が理解できないわけではありません。
「なぜこの映画をとったのか」と言う、そもそもの部分がどうしても解せず、観ながら混乱に陥ったのです。
パルプンテ街道まっしぐらでした。
え?これ本当に三谷作品なのか?と。
三谷幸喜はこうして観ろ!的なガイドブックがまるで役に立ちませんでした。
というか、そもそも混乱は、そのガイドブックを照らし合わせながら見ているからこそ起こっているようでした。
ギャグそのものに意味はなく、目的としての笑いがあった今までの作品とは違い、ギャグがなにかしらの示唆を含み、その後ろに隠された本当の意味みたいなものが実は重要な作品なのではないかと。
その辺りはガイドブック『何も考えずに笑うがいい、我が名は喜劇王』には載っておりません。ある程度、監督の意思みたいなモノを感じ取ろうとしなければ、まったく笑う事の出来ない駄作である、と脳が勝手に判断してしまいます。
けれども、ガイドブックを捨てて作品を眺めていると、この廃れたハンバーガーショップや、閉鎖間際のギャラクシー街道が、なんだか監督自身に思えて来たのです。
もしかしたら、三谷幸喜は、三谷幸喜であることを放棄しはじめたのではないか?または、放棄したいのではないか?
つまり、作品そのものではなく、作品を創作する態度によってそのことを暗に示しているのではないか、と。
今までだったら、悩める創造主を描き、結果、いつもの三谷幸喜らしい「笑えるw」コメディを作り上げ、映画館の前で「笑えました!」とか言われる東宝祭りな映画を結局は作るであろうところを、今作は、映画の存在そのものが作品としてあまり本人から切り離されず、はからずも、監督自身の思いと同化してしまったのではないか。
笑えないモノを笑えるようにつくるのではなく、しっかりと笑えないモノとして作り上げる。作品自体がひとつのメッセージになっている。
とすると、とても批評性の高い作品であるような気もして、果たしてそれがいいのか悪いのか分かりませんが、数々の傑作を世に送り出し、ここまで上り詰めた三谷先生だからこそ成立させることのできる、選ばれしものの作品であるような気がします。
宮崎駿小師匠もそうですね。
笑えればよし、盛り上がればよし。それをつきつめ、どこかで押さえてきた自意識が今回は全面に出ているのではないか。
とすれば、世の酷評もうなずける!
そして、あまりに多い下ネタも、なるほど!と思えてくる。
おそらく本質的には下品なんですよね(いい意味で)。
だから、伏線の回収劇でその下品さがバレないように、うまいぶってウェルメイドやってるんだと思います。なんかわかるなぁ、その気持ち。
もう一回くらい見てみようかな。
ということで、異論反論ありましょうが、次はおそらくとんでもない娯楽怪作がくるはずだから、ファンの人は待ってあげてね!
マリオギャラクシーは超えたか、超えてないのかだって?
ジャンル違うから比べられません!!!
※劇中で、綾瀬はるかが卵を落とすのですが、その落とし方が非常にうまくて、一瞬NGシーンを使ってんのかと思いました。卵落とし女優としてこの先君臨するでしょう。