「闇の脳科学/『完全な人間』をつくる」
(これは2021年3月にエッセイの会に投稿したエッセイです)
今回は、前回の「注」で少し触れた『闇の脳科学/「完全な人間」をつくる』(ローン・フランク著 文芸春秋)という本を紹介したいと思う。これは、岡田斗司夫チャンネルというYouTube動画で紹介された本で、脳科学に関する興味深い話題を扱っていて、なおかつミステリー的な要素もあるという面白い本だ。著者のローン・フランクはデンマークを代表するサイエンス・ジャーナリスト。自ら鬱病を患い、幼少期から人間とは何かという疑問を抱きつづけてきたという女性である。
冒頭、患者B-19が娼婦とセックスするシーンから始まる。隣室でこれを観察(脳の波形観察)しているのが精神科医ロバート・ヒースだ。
彼が活躍した1950年代、ゲイはまだ病気とみなされていた。患者B-19をゲイから「正常」な人間に戻すための治療として試みたのが、ヒースの考案した脳深部刺激療法だった。患者自身も性的嗜好のせいで兵隊を除隊されるなど困難な状況に置かれ、自殺寸前まで追い込まれて「病気」を治したいと思い志願した・・
というと、いかにもマッドサイエンティストの話のようだが、実はまっとうな脳科学の本である。1950年代に脳深部刺激療法という画期的な治療法を開発したにも関わらず、闇に葬られてきた精神科医ロバート・ヒースの栄光と挫折の物語でもある。
当時はまだ悪名高いロボトミー手術も行われていた。
冒頭の患者B-19の「治療」の成果についての論文を読んだ著者(ローン・フランク)は衝撃を受ける。ロバート・ヒースという精神科医はマッドサイエンティストなのか、それとも先駆者なのか・・
というのも、彼の開発した脳深部刺激療法は二十一世紀に入って再び注目を浴びはじめたのだが、残念ながらヒースの名前は忘れ去られていた(脳深部刺激療法は1987年、フランスの神経外科医アリム=ルイ・ベナビッドにより考案されたことになっている)。なぜこれほどの発見をした科学者が闇に葬られたのか・・
著者は様々な文献と当時のヒースを知る人々へのインタビュー、ヒース自身が撮影した記録フィルム、またヒースの弟子が書いた小説などを苦労して入手し、ロバート・ヒースという先進的な医師の姿を浮き彫りにしていく。
1950年代には、ゲイだけではなく精神疾患の患者たちの扱いも酷く、精神病棟は恐ろしい場所だった。二十世紀初頭に登場したフロイトの精神分析では統合失調症は幼い頃のトラウマが原因とされていたし、また精神病は脳の器質疾患よにるもので、脳を切除せずに治療できるとヒースは確信しており、それを証明しようとして脳深部刺激療法を開発した。患者の脳の中隔野に電極を埋め込み微弱な電気刺激を与えるという治療法である。この療法はかなりの成果を挙げた。統合失調症や様々な精神疾患、また、きわめて暴力的な男の脳に電極を埋め込んで暴力を抑えることにも成功している。この暴力男がある日突然暴力の発作が再発し、医者につかみかかったのだが、調べてみると彼の脳に埋め込まれた電極の電池が切れていたという。
統合失調症に関してもヒースはいくつかの先進的な発見をしている。1940年代末に、彼は誰よりも先に統合失調症は遺伝的基礎を持つ脳の器質疾患だと考えていた。また、統合失調症はポジティブな感情の欠如であると考え「失快感症」と呼んだ(この本のタイトルであるThe Pleasure Shock はここから来る)。
快感と苦痛が紙一重であること、そのどちらも脳に埋め込んだ電極のスイッチ一つで生み出せることをヒースは証明しようとした。さらに、統合失調症の患者の脳から抽出された物質タラクセイン(ヒース自ら名付けた物質)が疾患を誘発しているのではないかと予測した。最近になって、これに酷似した物質が見つかったという。ヒースはそれを半世紀も前に発見していたのだ。
医学の進歩は目覚ましいが、こと精神疾患に関しては非常に遅れている。精神疾患の大半が脳の部位の変調によるものだと解明されたなら、脳深部刺激療法のような物理的な刺激を与えることで、あるいは新薬の登場で完治も可能になる日が来るだろうという。
だがその一方で、研究開発のためにはある程度の犠牲を払わざるをえない。数えきれないほどの猫やサルたちが実験台にされ、彼らの脳が犠牲になった。最初に脳の中隔野に電極を埋め込む実験をしたのはアカゲザルだった。また、ヒースが勤めていたチュレーン大学のそばには精神病院がありそこの患者はヒースのかっこうの実験台でもあった。
ヒースはこの脳深部刺激療法を開発したことにより、1960年代には一時マスコミの寵児となるが、1970年代に入ると折からの反戦運動、人権思想、映画「カッコーの巣の上で」の影響などにより、彼の治療法は人体実験でありロボトミー手術と変わらない野蛮な手法であるという批判を浴びることになる。また彼の配下に経歴詐称の人物が入りこんでいて実験に必要な技術を独占しようとしたりと様々な困難に見舞われ、彼の開発した技術は次第に闇に葬られていく。
ヒースはあまりに先進的だったため、当時の社会では受け入れられなかったと著者は見ている。同じ手法が現代では神経科学の最先端療法としてもてはやされているのは皮肉なことで、にもかかわらず医師たちの大半はヒースの名前すら知らないという。早すぎる発見や才能は埋もれる運命にあるのかもしれない。
興味深いのは、こうした脳深部刺激療法に目をつけたのが、DARPA(アメリカ国防高等研究計画局。米ソの対立の中でソ連に対抗するために生まれた組織)だったことだ。
脳深部刺激療法では理論上は電極を使って人間の行動領域を直接操作できる。また、電気刺激によって人間の感情や倫理観も変えられることが証明されつつある。
前回書いたTMS(経頭蓋磁気治療)(ジョン・エルダー・ロビソンの手記「ひとの気持ちが聴こえたら/私のアスペルガー治療記」(早川書房)) にもDARPAは目を付けており、兵士の脳を「改良」するために利用しようとしていたようだ(注)。
人間の脳に小型のコンピューター(電極)を埋め込み、暴力などの不穏な気配を感じたら即座に作動して正常にもどすという実験もその一つである。まるでSFのような話ではないか。
アマゾンプライムで見たドラマ「ホームカミング」(ジュリア・ロバーツ主演)がこれと酷似していて面白かった。アフガニスタンの帰還兵の中からPTSDを患っている兵士を集め、「普通の生活にもどすための訓練」と称して薬を投与し「苦痛や不安や後悔を払拭して(つまり記憶を消して)」再び戦場に送りこむ。それを目論んだ民間の機関の話である。ジュリア・ロバーツはそこのカウンセラーとなり熱心に兵士たちのPTSDを癒すために働いていたのだが、事実を知って愕然とし担当している兵士を逃がす、というストーリーだ。裏で操っているのがCIAだったりする。
これはフィクションだが、実際にTMSや脳深部刺激療法などを使って兵士の脳を変えることはすでに可能らしい。つまり兵士たちのPTSDを「治療」して再び戦場で戦わせることもできるのだ。事実は小説より奇なりというが、現実社会でも実際に進行していることはほとんど公表されない。私たちの知らないところで科学技術というのはこれほどまでに急進的に発展しているのかと驚くばかりで、しかしそこに関与している人たちが必ずしも善意の動機で動いているわけではない、というところに恐ろしさを感じる。テクノロジーというのは大概国家間の争いにより発展するようだが、脳の治療も例外ではないようだ。
こうして見てくると、人間とは一体何なのだろうと思えてくる。私たちの運命を左右する脳が、こうも簡単に操作されてしまうのなら、「自分」とは一体何なのだろう、どこに「自分」の本質が(言い換えれば魂が)あるのだろう・・。
同じ問いを著者は何度も問いかける。たえず「人間とは何か」「自己とは何か」を問いかけているのだ。
「精神という概念は、漠然としてつかみどころのないものから、脳の灰白質という実体を持った物質的なものへと変化した」「脳を操作することは、自我そのもの―何千億という細胞のネットワークからなるピンク色の塊のどこかに存在する「私」―を操作することだ」「脳深部刺激療法というテクノロジーは『私とは何者なのだろう』という疑問の中の疑問を喚起しているのだ」「自己とはその時々の脳の状態のことなのだ。脳の特定の箇所に少々電流を流すだけで、人は別の誰かになってしまう・・」
読み進める中で読者も同じ疑問を抱かざるをえない。
現代の脳深部刺激療法は精神病のみならず、パーキンソン病、アルコール依存症、ヘロイン依存症、過食症、拒食症などにも適用され、日本でもパーキンソン病に適用されている新しい技術であるという。
実際のロバート・ヒースは、マッドサイエンティストというイメージからは程遠く、カリスマ的でエレガントで貴族的な人物だったという。ヒースは1999年、84歳で他界した。
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