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言葉の力と不幸のアイデンティティ

 「言葉の限界が世界の限界である」「言葉を使って物事を考える以上、言葉にできないことは考えることができない」 これはウィトゲンシュタインの言葉だ。これを逆に考えると、語彙力を増やせば世界が広がるということになるだろう。優しい言葉を使えば、優しい人間になっていくのかもしれない。

 だからといって「明るいことばかり書きなさい」という話ではない。落ち込んでいる時に無理に元気に振る舞うのは、むしろ心を余計に苦しめる。別に何かを強制したいわけではない。ただ、最近自分が「言葉の力」を実感し始めていることを伝えたいのだ。

 「死にたい」という言葉を吐き出すことで死を免れるのであれば、言葉には魔力が宿っている。

 しかし、一番恐ろしいのは、自虐的な言葉が、「不幸な自分」のアイデンティティとなり、幸せになることを恐れてしまうことだ。僕も似たようなことを経験した。ネガティブな世界に浸かり過ぎたせいで、幸せになることに罪悪感を感じ、幸福な自分を表現することが他者を傷つけると思い込んでしまったのだ。自信が持てなくなり、悲しいことや苦しいことだけを書き続けるようになる。そうやって言語化された感情は、ネット上で反応されるたびにますます強固なものとなっていく。「SNSで嫌われないためには不幸でなければならない」と、まるで勘違いするようになってしまう。これは本当に不幸なことだ。

 僕にもわかるよ。幸せそうに学校や社会で生きる「普通」が嫌いな気持ちが。僕たちは「普通」になれないからこそ、こうしてドロドロとした人間関係の練習をしているのだろう。能力が劣っているから「普通」という土台で勝負すれば負けるのは目に見えている。だからこそ、「ただのダメな一般人」ではなく、「不幸に見舞われ続ける狂人」として、自分の存在を認めてもらいたくなるんだ。

 でも、自虐的な言葉を繰り返していると、その言葉がやがて真実になる。実際、以前Twitterで「構ってほしくて過剰に病んだ嘘のつぶやきをしていたら、本当に精神を病んでしまった」という相談を受けたことがある。これは現代では珍しくない悩みだろう。言葉を投稿して、他者から「いいね」されると、その瞬間にそれが事実のように自分の中で定着してしまう。少し嫌なことがあると、それを誇張して書き込み、一部の人間を完全な悪者に仕立て上げてしまう。こうして、ますます自分を追い詰めていくのだ。

 繰り返しになるが、僕が言いたいのは「悪いことを書くのをやめて、元気に生きろ」という陳腐なアドバイスではない。ただ、SNSで感じたこととして、言葉と感情、そしてパーソナリティは、思っている以上に密接で、自分でコントロールできないほどの影響を及ぼしているということだ。毎日「死にたい」と書き続けていると、いつの間にかその言葉が頭の中に膨らみ、逃れられないものになってしまう。

 幸せでいることが罪に感じ、それは本来の自分ではないと思い込んでしまう。敢えて酷い言い方をするなら、悲劇のヒロインを演じ、救われない人魚姫のような世界観に浸ることが心地よくなってしまうのだ。不幸である方がむしろ安心できるように感じることすらある。そうなれば、いっそのこともっと深く不幸に陥りたいと思うようになる。絶望が希望になる。そしてその先に待っているのは、さらに残酷な現実だ。

 実際、人間は他人のことを本質的にはどうでもいいと思っている。ネット上で誰かの発言に言及するのは、単なる暇つぶしに過ぎない。誰もが他者の著作や発言を真剣に調べ、その人の立場を理解して発言するわけではない。あなたが不幸そうにしていても、他人はただ面白半分に「いいね」をしているだけだ。もし急に「これから頑張ってまともな社会人になる」と宣言しても、最初は戸惑うかもしれないが、2ヶ月もすれば「頑張ってるんだね」としか思わなくなる。3ヶ月も経てば、さらにその印象は薄れるだろう。人間は3ヶ月あれば別人にもなれるのだ。

 この情報過多な時代に、一つのアカウントにそこまで執着することはない。たとえ悪口を書いても、それが誰かに見られなければ無意味だ。言葉もアカウントも簡単にミュートできるのだから。たとえ渾身の悪口でも、一瞬で遮断される現実があるのだ。

 他者の幸せに噛みつく人が多いのは確かだが、それも一時的な反応に過ぎない。結局、彼らも他人の幸せや不幸には本質的に興味がないのだ。不幸や自虐がアイデンティティになりがちな時期が誰にでもある。僕もそうだった。しかし、SNSの仕組みから抜け出すのは難しい。それに、抜け出してみれば他人の無関心さに驚くだけだ。

 もちろん、簡単にできることではないが、それでも人は素直に「幸福に生きる」べきだと思う。そのためには、優しい言葉をたくさん使っていこう。


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