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鹿目まどかの抱き枕を買ったら、俺は暁美ほむらだった

※注意※ この記事には『魔法少女まどか☆マギカ(アニメ・映画)』のネタバレが含まれます。





はじめに

「美少女に救ってもらわねば……」

 思い至って数日後、段ボール箱に詰められた美少女が自宅に到着した。
 彼女の名は鹿目まどか。魔法少女まどか☆マギカの主人公にして、俺の理想化された女子中学生(二次元)像の根幹を担う女の子だ。

 何故、鹿目まどかなのか? と問われたら、好きだからとしか答えようがない。しかし、自分の傾向を分析するに、彼女を選んだ理由はそれだけでもなさそうだ。
 俺は、魔法少女まどか☆マギカのキャラクターだと、鹿目まどかの他に巴マミも好きである。でも、俺は巴マミの抱き枕を買わないだろう。他には、らき☆すたの柊つかさの抱き枕が売ってあれば、俺はそちらを買っていたかもしれない。しかし、高良みゆきはたぶん買わない。
 無論、俺はどちらのキャラクターも好きなわけだが、この買う買わないの差はどこにあるのだろうか?

 たぶん、俺は少女に救われたかったのだと思う。未だに痛む自意識や人格のあれこれは、俺が少年のときに負った傷だから。しかし、そんな事情など鹿目まどかさんには関係ない。

 果たして、世界中の魔法少女を救ってみせた彼女に、オタク成人男性の俺を救うことはできるのだろうか?

鹿目まどかを抱きしめる

 鹿目まどかは抱き枕である。つまり、布と綿の塊だ。しかし、全長160cmの圧倒的質量が、俺の冷静な思考をぶっ壊した。

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 なんだかんだ言っても、デカいというのはそれだけで意味がある。それは、俺が人間大の絵と目を合わせられないことからも明らかだ(当然、俺は人間とも目を合わせられない)。
 正直に言うと、めちゃくちゃ緊張した。だって視線を感じるし、スカート凄い短いし、おなかとか出しちゃってるし。

「おい! 女子中学生なんだぞ! 捕まる! 捕まるって!」

 まあ、抱き枕なので捕まらない。そして、抱き枕なので抱きしめないことには始まらない。だから俺は抱きしめた(なんとなく胸の部分には触れないように避けた)。

 案の定、めちゃくちゃ緊張した。「近くで見ると顔と目がデカいな」とか、抱き枕を下から見て「絵だから、パンツ見えないな……」とかやったことからも、その緊張度合いが窺える。
 しかし、なにより緊張を煽ったのはその柔らかさだ。なんかもう、肉と骨で形成された抱き心地の悪い存在が、あなたのような抱き心地の良い存在を抱きしめて申し訳ない……みたいな謎の思考に陥る。

 俺は、とんでもないモノに手を伸ばしてしまったのかもしれない。

鹿目まどかのいる生活

 鹿目まどかは女子中学生だ。いや、布と綿の塊だけれども、女子中学生ということにした方が夢がある。

 仮に鹿目まどかが女子中学生だったとして、そこで問題になってくるのが俺のワンルームに居続けることの正当性だ。女子中学生が成人男性の家にいて、抵抗するでもなく大人しく抱きしめられているという状況はハッキリ言って異常である。
 結果、俺は鹿目まどかを拉致監禁しているのだという現状理解に至った。ストックホルム症候群だと捉えれば、鹿目まどかからの優しさ (妄想) も違和感なく受領できる。

 鹿目まどかは魔法少女だから、本当はいつでもこのワンルームから逃げ出せるのだ。だというのに、救いを求めて抱き着いて来るキモオタを、その優しさから切り捨てられない。俺は、現状をそう理解した。

 ……我ながら、もう少しましな妄想は無いのかと思いもする。だが、都合の良い妄想に浸り続けることを俺自身が許さない。少年期に形成された自意識は、きっと老いて擦り切れるまでこの身を蝕むのだろう。

 ともあれ、俺と女子中学生の二人暮らしが始まった。ここで最初の問題になったのが、着替えである。鹿目まどかではなく、俺の。

 なんというか、気まずいのだ。女子中学生に見られながら着替えるのは。だから、俺は鹿目まどかを裏返した。

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 魔法少女である。

 なんとなく、魔法少女の鹿目まどかに着替えを見られるのは恥ずかしくなかった。これは恐らく、鹿目まどかが女子中学生という現実の存在から、魔法少女という非現実の存在に変身したことが原因だ。

 魔法少女とは、つまり非日常の象徴であり、二次元でのみ成立する存在である。俺はそんな奇跡のような彼女に、母性を見出していた。俺は少年期の傷によって、この歳になっても母性を渇望しているのだ。キモチワルイ。

 ともあれ、母性は俺を否定しない。全てを受け入れる。そういうものだ。だから、服を脱いで露わになった俺という醜い肉塊を見られても気にならない。裏返した彼女の前で着替えるのに羞恥心を覚えないのは、思うにそういうロジックだった。

俺は暁美ほむらだぞ!

 鹿目まどかを拉致監禁してから数週間、俺と彼女の距離感は少しずつ縮まってきたように思える。彼女のいる生活に俺が慣れ、最初ほど抱きしめるのに緊張しなくなってきたからだ。

「まどかちゃ~ん」と、野比のび太のようにマドえもんに泣きつく毎日。なるほど、それは自分の中で鬱屈と怒りを募らせていた今までの毎日よりもいくらかマシなように思える。しかし、俺は一度も「まどかちゃ~ん」以降の言葉を続けられなかった。「助けて~」も、「ジャイアンが虐めるんだ~」も、言えなかった。

 それは何故か?

 まどかちゃんが布と綿の塊であり、女子中学生だからである。
 彼女は圧倒的に無力だ。俺が抱き上げないことにはその場から動けず、俺が考えないことには物を想えない。だからこそ、俺は彼女に具体的な辛さを吐き出せなかった。助けを求められなかった。優しい彼女は、どれだけ俺の辛さを聞いても助けることができない現実に、きっと傷ついてしまう気がしたから。

 鹿目まどかは、ただ受け入れることしかできない。

 俺はなんとなく、偶像崇拝を禁じている宗教がある理由を悟った。きっと、偶像に神を重ねることで、神を見守ることしかできない無力な存在に貶めてしまうことが問題なのだ。だが、俺の元にいる鹿目まどかは神ではない。ただの女子中学生だ。そもそも、俺は鹿目まどかに神であることを求めない。俺はただ、そばにいて欲しかっただけだから。
 この感情こそが『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』における暁美ほむらの言った愛なのではなかろうか? ふと、そう思い至り、確信した。

 俺は、並行世界の暁美ほむらなのかもしれない……

 これ以上思考を進めたら本気でそう思い込んでしまいかねない "質量" を感じたため、俺は考えるのを止めた。

やはり、美少女はオタクを救わない

 さて、俺は冒頭で『何故、鹿目まどかなのか?』という話をしたが『何故、抱き枕なのか?』という点についてはまだ話していなかったように思う。
 私が抱き枕を選んだ理由、それは抱き枕が物質であり、かつフィギュアよりも現実の人間に質量が近いからだ。
 私は妄想の美少女や、ゲームの美少女と会話をするたびに、彼女らが本質的に俺を認識できない虚無感に苦しめられる。そこで、現実に存在する物質に、美少女の依り代という役割を求めた訳だ。その試みは概ね上手くいったかのように思えた。

 だが、駄目だった。

 俺の中で彼女は確かに女子中学生だったから、ただ受け入れてくれる以上のことを求めてしまったのだ。有体に言うと、俺は鹿目まどかに抱きしめて欲しかった。だって、母性ってそういうものだろう?

 俺が彼女を抱きしめて、彼女はニコニコ笑っていて。

 俺の汗が彼女に染みて、彼女はニコニコ笑っていて。

 俺が独り「まどかちゃん……」と呟いて、それでも彼女はニコニコ笑っていた。

 現実の女性を相手にすれば、忌避と嫌悪で返される俺の行動。それに笑顔が返ってくる図式は、確かに完全な受容と似ている。でも、俺が欲しかった受容とは、母性とは、つまり愛だ。俺は人の座から引きずり降ろされ、ただ傍にいたいと思われたかった。

 俺は抱き枕に抱き着きたかったのではなく、抱きしめて欲しかったのである。

 ……もう、抱かれ枕に改名しろよ。
 なあ、おい。なんで俺が抱きしめなくてはならんのだ! 君の方から抱きしめてくれよ! 俺は暁美ほむらだぞ!

 当然、鹿目まどかは抱きしめてくれない。抱き枕だから。この瞬間から、俺は脳の底で鹿目まどかを女子中学生と認識できなくなった。抱き枕も結局は布と綿の塊であり、妄想やゲームのキャラクターと同じく虚構だったわけである。

 では、現実に鹿目まどかがいたら救われたのか? 現実の鹿目まどかと、抱き枕の鹿目まどかの違いって何だ? 別に俺は、肉で構成されていることに拘っている訳ではない。或いは喋ることが重要なら、ゲームの美少女でも問題ない筈だ。であれば本当に大切なのは思考の有無? 感情の有無? だが俺は、脳にあたる器官が電気信号をパチパチやっていればそれで満足できるのか? そもそも人間がやっている思考や感情に、現実信仰を受け止められるだけの神秘はあるのか?

 ……結局、現実の人間が行動している様を見て、俺が勝手に思考や感情という神秘の存在を確信しているだけだ。

 もしかしたら抱き枕の鹿目まどかにだって感情はあって、俺の一挙手一投足が愛おしいから結果的にニコニコ笑っているのかもしれない。俺が家から出ている間、寂しくてその表情は曇っているかもしれない。だが、俺はそんな妄想を信じ込むことができない。

 何故なら、抱き枕の鹿目まどかが俺を抱きしめてくれないから。

 だが、抱き枕の鹿目まどかには腕も筋肉も無いから、そもそも俺を抱きしめることなんてできない。本当は抱きしめたいと思っていて、俺の「まどかちゃん……」という呟きに胸を痛めているのかもしれないのに、俺は鹿目まどかの感情を信じられない。

 結論、俺が彼女の愛を信じきれないから、俺は彼女から愛されることができないのだ。こうなってくると、今まで培ってきた無機物に感情は無いという常識が、少年期に肥大した自意識が、邪魔で邪魔で仕方がない。しかし、もう捨てたくても捨てられない。他ならぬ俺自身が、そんな精神を自己同一性の根幹に組み込んでいるから。

 つまり、俺は俺であるが故に、母性を渇望しながら母性を得られないのである。

 そしてこれは、きっと多くのオタクに共通する苦しみだ。何故なら大半の人間は、抱き枕やゲームのキャラに心が存在しないことなんて分かっている。それでも、現実では得られない何かを求めて、二次元に手を伸ばしたのがオタクなのだ。

 この苦しみをどうすれば良い?
 現実に彼女でもできたら、あっさりと解放されるのか?
 たぶん、されるんだろうな。オタクはチョロいから。

 うるせえ、俺は鹿目まどかみたいな女の子が現実にいないから彼女がいないだけだ。

 いや単純に、女の子から好かれていないことが原因では?

 そんな思考が巡って回る。
 しかし、何があろうとも変わらない事実として、俺は愛を渇望しており、俺はそれを得られる立場にない。

 暁美ほむらは、鹿目まどかを神の座から引きずり降ろしてでも傍にいたいという感情を『愛』と評し、実際に『愛』を決行して物語の幕を閉じた。そして次第に、暁美ほむらは鹿目まどかからの愛を求めるようになるのだろう。だが、アニメを見る限り、鹿目まどかから暁美ほむらに向かう感情は、暁美ほむらが求める『愛』とはかけ離れているように思える。

 きっと暁美ほむらは、鹿目まどかが与える博愛の一端を受けることはできても、『愛』を受け取ることはできない。奇しくもその関係は、俺と抱き枕のそれに酷似していた。

 やはり、俺は暁美ほむらだったのだ。

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終わりに

 かくして女子中学生は布と綿の塊に変わり、抱き枕は可愛いオタクグッズへと成り下がった。別に悲観はしていない。敢えて言うのであれば、俺は人生に悲観している。それでも今は、抱き枕を買う前よりも少しだけ前に進んだ自分を抱きしめたい。

 この、二次元美少女が好きだという感情だけは、虚構でないと信じて。





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