あの夜の空はもう忘れたよ
長かった横浜での仕事が終わり、
やっと解放されたのは23時の中野駅だった。
そこから東西線に乗って高田馬場まで帰る。
早稲田通りを東に向かって歩いていくと、高校時代によく通っていた映画館や今はもう店が変わってしまった飲食店が見えてきて少し懐かしい気持ちになった。
あの500円でピザを売っていたピザ屋さんは、
高校卒業の前後には店を畳んでしまって、今は小洒落たイタリアンレストランになっていた。
高田馬場は飲食店の競争が激しくお店の入れ替わりが激しい地域だけれど、ふとここで店を開いてそれを畳んでいった人たちの今の人生を考えてしまった。
会社に雇われて店長をやっていたのかもしれないし、
一世一代の勝負でここに店を開いたのかもしれない。
とにかく今はもうここにいない人たちだ。
彼らにもまたそれぞれの物語があって、それが今は美しいものであることを願う。
連勤の疲れからか足はふらついて、
心はざわついていた。
あるいは今日がかつて特別な日だったからだろうか。
イヤホンからは
昔好きだったあの子が一番好きだと言っていた曲が流れてくる。
その5分12秒を僕は永遠に感じる。
あんな風にして手を繋げることも、
ただ誰かが携帯をいじるその横顔にこれほど心を惹かれることがあることもあの頃は知らなかった。
そしてそれらがすべて過去になっていくことも。
そういえば、今日ひとまわり程年上の人と帰り道に話していたことを思い出す。
今の自分の年齢になればもっとずっと大人になっていると昔は思っていたこと。20歳でも40歳でも同じことを思うらしい。
僕らは年齢を重ねることは、
文字通りなにかを積み重ねることだと信じている節がある。
でも本当はいまここしかない一瞬が
毎秒更新されながら続いているだけなんじゃないか。
今も昔もいまこの瞬間が目の前にあるだけで、
その瞬間を繰り返しているだけで、
体が老いていくだけで、
年齢は人の生み出した概念でしかない。
だから歳を重ねるごとになにかが積み上がったり、
成長したり、変わっていくこと自体が思い込みでしかなくて、
人生のある時に誰かと出会い、触れ合い、すれ違い、やがて別れていくように、その瞬間にあるいまここその人だけが意味のあるもので。
それすらも全て流れさって、過去になっていってしまう。
それでもいい、それだからこそ今目の前にいる人をこの瞬間を大事にしたいと強く思うのだろう。
人生には僕らが思っているほど連続性はないのだと思う。
昨日の自分と今日の自分が本当に同一人物なのかどうかさえ確かじゃない。
毎日少しずつなにかが変わっていっていて、
毎朝少しずつ体が削れていっていて、
毎秒心は少しずつ欠けていく。
早稲田の夜は濁ってみえる。
この街は自分がまだまだ先に行かないといけないことを痛烈に教えてくれる。
それでも目の前の空を愛するのは、これが今の自分が持つ最良のものだとわかっているからなんだ。