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私は、私の大事な人たちを決めつけない

こんにちは。にこままです。

他人から自分を決めつけられると、苦しい。

「あなたは、仕事ができない人だ。」
「あなたは、気配りができない人だ。」
「あなたは、しっかりしていないから、あまり信頼していない。」
などなど、
話をしていて、あ、私、決めつけられている、と思う場面があった。

面と向かって言われていないが、
「ちょっと~、だいじょうーぶー?!」
「〇〇さん、それはだめでしょうー!」
「心配だなあ。」
など、会話の節々に伝わってくる相手の否定感。
はじめは、気にしないようにと思っていたが、
いろいろなことを考えてとった行動を否定された、と思うと、
気分が次第に悪くなった。

私は、あなたが思っているような人間じゃない。

相手に自分の言葉、行動、表情を聞かれたり、見られたりすることが
苦しくなる。見られれば見られるほど、決めつけられると感じるから、
もうその場にいたくない。話もしたくない。気分が悪い。怒りさえ沸いてくる。

人は、どうして、決めつけた考えをしがちなのだろう。

「〇〇さんは、〇〇な人だ。」
多種多様な人がいるのに、
個人や集団をカテゴライズする。
振り返れば、私もよくやってきた。
決めつけてしまうと、楽になる。
それ以上の推測や想像をする必要がなくなるから。
カテゴライズすることで、何も考えなくてすむ。
それが誤った認識であることも気づかず、思考停止する。

これが、差別や偏見なのだろうが、
自分が決めつけられたまま、会話が進むことの苦しさ。
こちらの思いを伝えようとする気持ちも、会話の圧に負けてしまう。


これを、親と子どもの立場で置き換えてみた。

親が、子どもを決めつけて話をする。
例えば、こんな言葉…。
「また、同じことをやったの~。わかってないな~。」
「どうして〇〇したの~。考えればわかるでしょ~。」

おすすめできない言葉ばかり。
でも、よく言ってしまう言葉。
心がちくちくしてくる。

でも、子どもの立場で考えてみると、これらの言葉は、
見えない心の部分を、勝手に決めつけられてるってことだなあ、
と気づいた。
子どもは、言葉をつかって思いを表現できない。だから、行動をよく観察しないと、考えていることはなかなか分からない。子ども自身も、自分の思いもよく分かってないのだから、大人が、気持ちを代弁してあげることがよくある。その際も、行動を観察して、分析して、推測して、
「〇〇な気持ちだったのかなあ?」
と聞きながら、代わりに表現してあげる。

この会話が、思いやりなんだなあ。
子どもは、この会話を通して、自分は理解されていると感じるのかもしれない。行動を否定することなく、全肯定する中で、受けいれられていると感じるのでないか。
自分が、否定され、決めつけられた会話で委縮していたように、
子どもだって、同じような言葉を言われたら、
感情は萎え、柔らかな心のひだは、硬直していくのではないか。


私の夫のように、
上記のような会話を受けても、
「そういう人もいる。」と思い、あまり気にしない人もいる。
私は、いつまでも気にする。
気にして、心がもやっているから、noteに書いて思考を整理している。
こうやって書いてみて、思ったこと。
それは、
否定された言葉を発した人のことをずっと考えるより、
私が、大事な人たちを決めつけない
ということ。


ありふれた日常で、
私は、相手の行動を観察しようと思う。
瞬発的に判断するのではなく、時間をかけて。

私は、相手の行動を全肯定しようと思う。
自分が正しいのではなく、
正しさは多種多様なのだから。


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