平松 航大
夜更けに零れたちいさな言葉を紡いだ場所
なんとなく、放置していたnoteを再開しようと思う。僕がそう思ったのだからそうするのだ。 大学に入ってから知り合った人は真面目な文章と投下しているところをほとんど見たことがないだろうから、「そんなの平松さんらしくない」と思う人が多数なのかもしれない。それどころか、この「平松さん」という呼び名自体が「クスノキさん」ないし「バリマツさん」らしくないのかもしれない。産まれた瞬間から22年間「平松さん」をやっている身としてはそのように思われることに対して違和感を覚えるのだが、T
高校教員から別の業界へ転職をしようと決意したのは、昨年の夏ころだった。 理由というのはシンプルで、自分のやりたいことを続けるなら教員でない方が良いと確信したからであった。誰が嫌だとか、どの仕事が気に入らないとか、そういったことはあまり(もちろんゼロではないが)なかった。生徒たちとかかわるのは楽しかったし、ほかの教員と協力して担任業務や企画を乗り越えていくのは、激務ながらも達成感があり、今思えばなんだかんだ楽しんで過ごしていたように思う。 昨年度、非常勤職員として授業の
「求めよ、さらば与えられん。探せ、さらば見つからん。扉を叩け、さらば開かれん。」(Matthew 7:7) 天の父なる神様に対しお願い事をすれば、わたしたちが自分の子に物を与えてやるのと同じように、求めたものが与えられるということを説いた、マタイによる福音書の一節だ。思ったことはなんでも思い通りになる!ということではなく、親による子への躾と同じように、私たち人の子が堕落してしまわぬように、時に試練のような形で、天のお父様は私たちが成長したり望みをかなえたりする機会をお与えにな
心と体が一致しないとき、私はしばしば言い表し難い苦痛を覚える。例えば、やる気に満ち溢れているのに身体がついてこない時だとか、反対に運動したいと思っているのにやる気が全く起きない時だとか。心の思うがままに行動できないというのはかなり不快なことだ。ゲームをしていたいのに明日は仕事だとか、寝なきゃいけないのに仕事が終わらないとか、色々なパターンがあるだろうがほぼ全ての場合、疲労感だとか罪悪感だとかそういうやつが、そら来たと言わんばかりに襲いかかってくる。 そんな時は適当に散歩に
3/14は円周率の日であった。ということで、たまには思考をぐるぐる回さずに知っていることをつらつら書き連ねるnoteを書いてみようと思う。じゃあ一昨日書きなさいという話なのだけれど、完全に失念して一日中Minecraftをやってしまった。そして3/15に書き終わった後も投稿するのを忘れてしまった。私が一番悔しさを噛みしめているので触れないでほしい。 「円周率とは何ですか」と聞かれたらあなたは何と答えるだろうか。「3.14のことです」と答える人は数学の本質をつかめていない
2011年、私は中学1年生だった。バスケットボールに夢中になり、泣きながら筋トレに励み、小さな恋愛に一喜一憂する、ごく普通の田舎の少年だった。朝学習は毎日15分遅れで、担任の目を盗んでコッソリ席に着くような何処にでもいる悪餓鬼のはずだった。 永遠に続くかのような長い揺れの後から、過去10年間で体験したことのない生活が始まった。外国のカブトムシのような自衛隊のいかつい車が街を駆け回り、大きなタイヤが砂埃を巻き上げる。通学路には迷彩服のお兄さんが立っていて、ラジオ片手に配給を
文字を書きたい。最近はPCよりも手書きの方が好きだ。手で文字を書いたら自動的にメモ帳に起こしてくれればいいのに。
人と話すのは苦手だ。相手を慮って機嫌を伺って話したいことをうまく話せないから。勝手に深く考えすぎて人間関係をうまく築けないことがままある。相手はそんなことを求めちゃいないのに勝手に相手の気持ちを考えて、それに疲れて自ら距離を置く。こんなことがちょこちょこある。 同性の友人は指折りで数える程度しかいない(といっても僕は指折りカウントに2進数を採用しているので31まで数えられてしまうわけだが)。これが異性と仲いいアピールとか自慢だとか、そういうことを言われることはある。こっち
なにか打ち込むものが欲しい。そう思って、漢字検定準一級の勉強を始めた。これがなかなか面白い。 初学者に数学を指導するという職業柄、知に対する刺激が薄れていた節があった。大学の数学は恐れ多くも理解したということはできず、高校数学を学ぶのも数周目であるため、目新しい事項というものにここ最近出会っていなかった。 幼い頃から雑学や四字熟語、故事成語などが好きで、児童向けの書籍や辞典などを読み漁っていた。知らないことを学ぶことも好きだったし、それ以上に得た知識が何かに結び付いた
最近チェスにハマった。ハマったといえども真剣に学んでいるわけではなく、しょせんお遊び程度にハマっているだけなのだが、非常に奥の深いゲームだと思う。 事の始まりは某家庭用ゲーム機にて、世界中のアソビが収録されたソフトをプレーしていた時だ。ランダムに選ばれたアソビをこなしていく中で、チェスとの出会いがあった。かなり有名なボードゲームだし、基本的なコマの動き位は知っていたものの、真剣にプレーしたことがなかった。 「ポーンお前正面の敵は倒せないんか!」 「なんで今引き分けになっ
世界では、法によって人間の権利が保証されていることが多い。例えば日本国憲法第25条の一部を抜粋すれば以下のように記載がある。 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 これは俗に「生存権」と呼ばれ、すべての国民は平等に生きながらえる権利を持つ、という思想を具体化している。フランス・イタリア・スペインでもこれに類するものがみられ、ドイツ・イギリスで
「自己肯定感が低い」という悩みを抱えている人は多くいる。ありのままの自分を尊重し受け入れる感覚は、生まれながらに備えているものではないのは確かだろう。巷ではこれをチャクラだとか風水だとかメンタルデトックスだとか胡散臭い手法で解決させようとする金の亡者が多く見られるし、それに騙されてしまう「自己肯定感の低い人」がいるのもまた事実である。今日は自己肯定感についてふわりと考えてみたい。今宵も何卒。 突然だが、僕は自分のことが好きだ。それなりに自分に自信を持っているし、あらゆる
はじめに インターネットを使う上で欠かせないのが「リテラシー」というやつである。何やら意味の分かりにくい横文字で、意味もよくわからずフワッと使いがちなワードだが、原義では「読解記述力」のことだそうだ。引用元がwikiだと根拠としては物足りないので大辞林を引っ張ってみれば、「読み書き能力。また、ある分野に関する知識やそれを活用する能力。」のことだそうで。いうなれば「空気を読む力」だと僕は思っている。最近身の回りでSNSに関する諸々が起こっているので、改めて僕の思考をまとめておき
下書きが溜まっていく一方でまとめる時間がない。いや、時間がないというのは言い訳なのだろうけど。
生きるとは何だろうか。呼吸をすること?やりがいを見出す?誰かの役に立つ?様々な回答を目にするが、僕の中ではもっとシンプルだ。生きるとは死なないこと、ただそれだけだ。生きている意味なんてものは「生きていれば死なない」、それだけのことだ。 よく、冗談交じりにだろうが「死は救済」という表現を目にする。なかなか面白い表現だと思うし、Twitterのアンケートなんかで「死とは」とあれば迷わず「救済」に投票しているが、本心では全くそんなことはないと思う。もちろん自らの手で自らを殺め
数学という学問は自然科学の中でも特殊だ。物理学は凡そ数学と似たところが多い学問といえるが、決定的に異なるのは「構造の構築」という点だ。数学では計算の体系を作り、数でないものに対して和や積を定義し未知の概念を探求する。一方物理は実験やデータを通して帰納的に公式を推測しそれを導いたり、既知の定理を改変・変形することで予測される新たな規則性を検証するような印象がある。私は物理には浅いので詳しいことはわからないが、これは理論物理とかそういう方面なのだろうか。知らんけど。 いま世