義務と権利
世界では、法によって人間の権利が保証されていることが多い。例えば日本国憲法第25条の一部を抜粋すれば以下のように記載がある。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
これは俗に「生存権」と呼ばれ、すべての国民は平等に生きながらえる権利を持つ、という思想を具体化している。フランス・イタリア・スペインでもこれに類するものがみられ、ドイツ・イギリスでは明文化された規定こそ有しないもののリスボン条約や欧州連合基本権憲章を批准している。
ヒト達は2度の世界大戦を経て、互いのもつ権利と自らが果たすべき義務とを再確認し、絶対的に不可侵である憲法という形で各々が生きる権利を約束した。言い方を変えれば「他者の命を奪う権利を剥奪した」とも言えるのだが、ヒトはコミュニティとしての繁栄を見据え、七里結界ではなく切磋琢磨する存在として共存することを狙った。
そして今、権利と義務の存在意義が薄れつつあり、次第に権利と義務が同一視されつつある。例えば教育を受ける"権利"を有しているはずの人々は、中卒・高卒の人間に対して冷ややかな視線を向けることがある。教育を受けていない人間に対して、憐みの情を抱くこともある。万人が総じて活用している権利を行使していないものに対して、あたかも権利の行使が義務であるかのように嘲笑するものがいる。反対に、背負う必要のないものを義務であるかのように囃し立て、中傷する心無い者もいる。
近年それが顕著に表れているのは、自死という概念であろう。最近芸能人の自死が多く報道されており、産後鬱だとか誹謗中傷だとか根も葉もないうわさがタイムラインを飛び交い、ツイッターランドのワイドショー化をひしひしと実感するこの頃である。先日の某ランチの女王様が逝去された際、ニュース速報のツイートにぶら下がったリプライはこんな調子であった。
「幼い子を残して自殺するとは無責任だ。残された旦那さんのことを思うと涙が出そう。」
このような声を見て皆さんはどう思うだろうか。私はこのお気持ち表明ツイートたちに言いやれぬもどかしさを覚えてしまうのだ。
冒頭でも触れたが、少なくとも日本国において我々には生存する権利を持つ。すなわち「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されているわけである。実態がどうとか、最低限度とはどの程度なのかとかそういった話は抜きにして、我々が持つのは "権利" であるということに注目したい。
我々が持つのは生存の "義務" ではない。可能性の話をするのならば、別に今すぐ手首を切って失血死してもいいし、灯油を撒いて火だるまになっても何ら問題はないはずだ。近日の報道にあったような、首を括るだとかそういった方法ではどうしても死体の処理等で第三者の介入が必須であり、そういう観点では自死という行為の迷惑性も見えてくる。理論的には、第三者の迷惑になることなく行えば自殺は必ずしも悪とは言えないのではないか。
こうした議論をする際に個人の感情のみを論拠とするのはよろしくないから、日本国における自殺にまつわる法周りを整理したい。過去の判例や法律を参照すれば、処罰の対象となるのは「自殺幇助・自殺教唆・嘱託殺人・同意殺人」の4点。それに加え、例えば自殺により物件の貸し出しに支障が出るとか、営業に支障が出るといった場合に損害賠償の責任が生じる可能性もある。つまり、日本には自殺行為自体を咎める法は存在しない。自らの命を絶つ"行為"自体には違法性はなく、それによる社会的法益の減少に違法性を見出す見解もあるが、どちらにせよ"条文上は"違法性は存在しない。
国民の背負う義務は教育・勤労・納税の3点のみのはずだ。「子を高校に行かせない親は何を考えているんだ」だとか「精神的向上心のないものはばかだ」とかいうのはお門違いで、考えがあるならば子を学校に行かせなくたっていいし、向上心のない堕落した人間だってかまわない。ヒトとはもっと自由な生き物ではなかったか。自身の試行を手軽に発信できるこの超情報化社会において、自分が権力を持つと勘違いしている人間が多いように感じる。周りから見たら自分勝手に思えても、絶対に個人による意思決定を尊重すべきなのだ。我々は他者の行動を制限する権利など持ち合わせていない。
秋になり、3大義務のうち2つを履行し始めて半年が経った。学生時代よりも法や政治に関して文献を読み漁ることが多くなり、世の中いろいろ難しいことを実感する。ステレオタイプに囚われず、法の中で自由に暴れられる人間になりたいものだ。
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