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そういえばレズだったわ。

そういえば私は世間的にLGBTと呼ばれる人間だ。

そういえば、と云う言い方はおかしいのかもしれないが現在の自分自身にとってはその程度のものだからだ。

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、他。

当事者でありながら上記のお仲間さん達に対してもこれまでそこまで理解も興味もなかった。

曖昧なものではなく、確かに私はレズなんだけれど、誰かにカミングアウトをした事もない。

だからって自分を偽って生きているわけではなく。

例えば、支援団体を立ち上げたり、メディアに出て活動をされたり、家族や職場にカミングアウトしたり、大切な人達を招待した上で恋人と結婚式を挙げたり。

そういった人達を知る度に純粋にすごいなぁと感じる。眩しいです。

それじゃオープンにできない自分はどうなんだろう。

自分のセクシャリティを自分で恥じているのか?

違うと思う。

カミングアウトをする勇気のない臆病者なのか?

違うと思う。

自分ではそう思ってます。(思いたいだけかも)

一般的にはクローゼットと呼ばれる人種なのかもしれない。

私はそれが幸せだと思ってのあえての仮クローゼットなんだけど、

それをクローゼットと呼ぶのならそれでいい。

ただ、クローゼットはクローゼットで居る限り、実は密かに戦い続けなければならない。

それはカミングアウトする事と同じ位に、もしかしたらそれと同様に覚悟が必要な事なのではないかとも思うんです。

所詮ノンケの両親にカミングアウトをしたところで100%の理解は得られない。

どう繰り返し伝えようとも混乱させるだけだ。より心配されるだけだ。

それは、私の中では解放とは言えない。

それだったら「ノンケだけれども結婚出来ない娘」を演じている方が余程楽な気がする。

それはそれで切ないんだけれども。

きっと大事なのは、そのカミングアウトが自分の為なのか親の為なのかであり。

自分が楽になりたい、自分を認めて欲しい、という思いからのカミングアウトで、それによって両親を傷付ける事になるなら私はカミングアウトを選択しない。


今は両親と離れて生活しているけれど実家へ帰ればまたピエロを演じる。

「ノンケだけれども結婚出来ない娘」としての滑稽なピエロ。

いいんだ。

自分の事は自分自身が寄り添って理解していればそれでいいんだ。




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