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過ぎたるは及ばざるが如し

最近、山奥で自給自足生活を営むご夫婦と
お話する機会があり、

色々話をしている中で
「私たち、別居することになったんです」
と、さらっと衝撃的な報告を受けた。


真っすぐな性格の旦那さんと、
それに寄り添うように支えてきた奥さん。
残念でならないが、
その話を聞いた時にタイトルの言葉が降りてきた。


都会から山奥に移住し、
自給自足の実現にひた走っていた旦那さんと出会い、
後に奥さんも移住して結婚されたのだが、

「自給自足を目指す以上は、
基本的に食べ物を買うことはないし、外食なんてもってのほか」
という考えを実践できるくらいストイックな旦那さんで、

日夜野良仕事に明け暮れていたのはすぐに想像できる。


奥さんは体調があまりよくないらしく、
一つは食生活の偏りからくる「カルシウム不足」だという。

数年間自給自足のために
毎日毎日膨大な作業があったはずで、
奥さんには疲労の様子と、
一つの大きな決断ができた安ど感の両方がうかがえた。


なんて皮肉な話だろうかと思う。

自給自足を夢見て、
それが自分たちの幸福だと考えて、
実際に行動に移して、
健康的で楽しい毎日を送っているはずが、

一般的に僕たちがお金で解決している、
衣食住から何から
あらゆる仕事を自分たちでやるわけで、
それは途方もない忙しさでもある。

結果、健康を崩す。

奥さんの一言が胸に刺さる。
「インフラの自給も大事だけど、健康の自給も大事」

”自給自足生活=スローライフ=ビジーライフ”

矛盾するようなこのワードの配列が、
実は正しい表現になるのかもしれない。


物事は、バランス

最近、物事は白黒どちらかに一転できるものではなく、
どちらも存在する”バランス”だと思うようになった。

前までの自分であれば、
「善い人でありたい」と願いつつ、

内面に悪人的な面を感じては、
「いけない、もっと善い人を目指さなくては」
と思っていた。
完璧主義だった。

何か一つのことをしようとするとき、
結果として達成できたとしても、
そのプロセスが自分の描いた通りでなければ、
その時点で達成とは言えない。
自分にも他人にもそういう物差しで見ていた。

所謂「0点か100点か」というやつだ。


でも、実際は
「善の自分」も、「悪の自分」も、
どちらも自分であって、
どちらかが欠ければ自分ではないし、
両方ある状態こそ、自分自身なのだ。


「過ぎたるは及ばざるが如し」は、
「何事もやり過ぎることは、やり足りないことと同じくらい良くない」
という意味だ。


その塩梅が難しいのであるが、
「やり過ぎていないか」を図るモノサシとして、

「自分を客観視できているか」があると思う。


度を越えたやり過ぎ、
すなわち「過ぎたる」の状態の時は、
周りの声は聞こえないどころか、
自分の事すら見えていない。

普段存在するブレーキがなくなり、
アクセルを踏むことしかできない状態になっている。

僕は高校野球時代にその状態になり、
走るトレーニングを「し過ぎた」結果、
疲労骨折で半年棒に振った経験がある。

その渦中にいる時は、
やっぱり自分を客観視できていないし、
「このままだとヤバイ」と薄々感じつつも、
止める恐怖心も手伝ってそのままいってしまう。



「何に頑張って良いかすら分からない」この世の中で、
今求められるのは、

「度を越えた頑張り」という一昔前の価値観ではなく、
「自分自身の感覚に根差した行動」なのだと思う。


やり過ぎないように、無理しないように、
でも目標は見定めながら。


善と悪、陰と陽、男と女、左と右、暖と冷、天と地…
相反するものが拮抗している状態こそが最良だと思う。


「マスクするのか、ノーマスクか」という
次元の低い議論には辟易する毎日ではあるけれど、

そもそもその両者が存在している時点で完結しているのかもしれない。










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