【纏め読み】マーダー・ライド・コンフリクト

【纏め読み】

マーダー・ライド・コンフリクト

【総集編】


[静かに。]


 また「13」だ。開店時間から間も無い焼肉屋の、「空いているお席にどうぞ」と言われて座った四人掛けのテーブル席に振られていた番号は「13」だ。朝に立ち寄ったコンビニの会計も釣りが「13」円だった。読みかけの小説は最後に栞を挟んだページが「13」章目だった。ふと腕時計を見たら秒針が「13」を指していた。
 リュックを下ろして着ていたトレンチコートを脱ぐ。くたくたになっているコートをクシャクシャにして席の隅に押しやった。頭が昼過ぎから痛いのに、「13」が周囲をチラついて酷くストレスを感じる。
 不吉な予兆だよ、ニック。
「バカ、単なる偶然だよ。何なら今日オレがテメーに『死ね』っつった回数も13回だぜ」
 そうかな、ニック。
「余計なことは考えるな、サト。あと、外でオレに話しかけるな。頭がおかしい奴だと思われるだろうが」
 ごめんよ、ニック。
「もう話しかけるなクソ野郎」
 テーブルの下からニックの舌打ちが聞こえた。ニックは僕にしか見えないらしい。これ以上不機嫌になられても困るので、卓に置かれているタッチパネルで注文する。
 正直、僕にも彼の姿は見えない。ニックは僕の死角にいつもいる。生前と同じで、僕はかくれんぼが上手な彼に手を焼いた。仕方なく最後はニックの妻と子供を人質にして彼を誘き出して狙撃した。彼のお陰で軟頭弾が好きになった。ダムダム弾。フラグメンテーション。血と骨と脳味噌をブチ撒ける。弾が余ったから奥さんと子供も。
[家族はどこまでも一緒にいるべきだ。]
 頼んだレモンサワーが来たので口を付ける。メチルアルコールみたいな味がする。安くて頭が痛くなる味。ハズレだと思った。肉も運ばれてきたから焼いていく。ロース、ハラミ、カルビ。肉は旨い。ナムルと野菜とつまみを頼んでも三千円しないのは良いことだ。
 マナーモードにしていたスマートフォンが鳴った。テーブルの上に置いていたから気付けた。リュックに入れっぱなしにしておけば良かった。見積依頼が来た。LINEで送られてきた概要を確認する。
「おいサト。肉が焦げてる」
 慌てて肉をトングで掴む。一足遅く炭になっていた。
 最悪だ。ニックは教えるのが遅いんだよ。
「話しかけんなって言ってんだろうが。テメーは病気なんだ」
 ひどいなニック。僕は病院に行ったけど医者には健康ですって言われたんだ。
「健康診断の話じゃねぇよバカ」
 見積依頼なんて、後でやろう。僕はあまり金を使うことが無い。服はGUばかりで買うし、高い服を買うにしても精々UNIQLOだ。今日も厚手のプルパーカーにジョガーパンツ。腕時計はAmazonのセールで買ったツェッペリン。トレンチコートは古着屋で買った。リュックは無印良品。日高屋で飲むのが好き。仕事を受ける時は使った弾代を発注者負担という条件を付けるようにしている。つまり、僕はあまり仕事をしなくても食うには困らない。
「じゃあ死ねよ。世のため人のためになるぜ。金も使わなくて良くなる」
 極端だね、ニック。
 火力が強くて熱いので、氷を乗せたら灰が舞った。失敗した。今日はとことんダメな日だ。灰が付いたトングで触ったのを忘れて、残りの氷をレモンサワーに入れてしまった。火の上で溶けるためだけの氷。恩知らず。
「お前のことだ、サト」
 今日はニックがやけに絡んでくる。本当に嫌な日だ。こういう日はもしかしたら殺し屋になってから初めてかも知れない。頭が痛い。
「寿命じゃねぇか? 摩ってやろうか?」
 優しいね、ニック。生きてた時みたいだ。
 ニックの声がするテーブルの下を覗こうとして頭を下げた。次の瞬間、店の扉を誰かが蹴り開けたのが聞こえた。行儀が悪い。誰だと思えば凄まじい柄のスーツを着たガタイの良いヤクザだった。
「トレンチコート着たガキを出せ。いるだろココに」
「お前のことじゃねぇか?」
 ニック、知らないヤクザ屋さんですねアレは。若頭の暗殺依頼が出てた組の人かな。
「知り合いじゃねぇか」
 店員が殴られた。嫌だな、逆恨みの逆恨みだ。不毛だ。ヤクザが怒鳴る。弾代はロハじゃないから抜きたくないな。
「『ニック・コンクリン』! さっさと出て来い!」
 ヤクザがニックの名前を呼ぶ。
「サト、テメー俺の名前を使ってやがんのか! ブッ殺すぞこのドブ野郎!」
 まさか。ちょっと背乗りしただけだよ、ニック。
「人の名義をパクるな戸籍を盗むな殺してやる」
 ニックがバグってきたところで僕は卓上のタブレット端末を、顔を伏せたまま取る。会計を確認する。三千円あればお釣りが出る。リュックを音が出ないようにそっと開けて財布を取り出す。ボーナスで買ったちょっと良い長財布。千円札が三枚と、五千円札が一枚。この年にしては貧弱な所持金額だけれど、僕は現金を沢山持ち歩くのがあまり好きじゃなかった。千円札を全部掴む。
「テメーが原因なんだから有り金全部置いてけよ。慰謝料だ慰謝料」
 ニック、このお金を置いていったら明日のご飯代はどうしたら良いんだよ。
「あのヤクザブッ殺して財布貰えば良いだろ」
 なるほど。頭良いねニック。採用。
 紙幣をテーブルの上に置き、空になった財布をリュックの中に入れる。そして代わりに仕事道具を探す。
 [今日はどんな気分? お腹いっぱいだから元気に遊びたい気分。]
 [運動するっきゃないね! 準備は? ウフフ、オッケー!]
 店員が僕のことを指で指し示す。ヤクザが気付くまでに僕は準備を終える。コートを羽織ってリュックを背負っている。そしてベンチタイプの座席に土足で上がり、身を屈めて、ヤクザがいる出入り口の方を向いている。
「テメーかこのヤ」
 近づいて来たヤクザがセリフを言い切るまでに跳躍する。僕は体重が軽いからガタイの良いヤクザには真正面からじゃ太刀打ち出来ない。だから大抵、重力や遠心力といったモノを頼る。
 天井に頭がぶつかりそうな高さの跳躍によってヤクザは僕を見上げる形になる。
 ポカンと空いた口を閉じてやろう。いつも複数持ち歩いている仕事道具の中から選んだ、今の気分にピッタリな道具はこのヤクザに丁度良い。
 指を通したナックルダスターの耳をしっかり握り込んで、大きな岩みたいな顔に右フックを入れた。鉄の拳がウィークポイントに綺麗に入る。クリーンヒット。顎の骨が折れた音がして、脳味噌が揺れたヤクザが白目を剥く。完全ノックアウト。巨体が倒れた。ニックが歓声を上げる。
 両足着地をして、倒れたヤクザを見下ろす。此処で殺したり財布を盗んだりしたらすぐに通報されそうだし、既に通報されているかも知れない。どうしようかな。
「この店、裏に細い路地があるだろ」
 そうだね、ニック。入る前に通ってきた路地がある。
 ヤクザのベルトを掴んで引き摺って行くことにした。怯える店員達を尻目に退店。帰路に着く人々が多い時間帯。沢山の人とすれ違うが、みんな関わり合いになりたくないと見て見ぬ振りをする。お陰でニックや僕みたいな殺し屋は仕事がしやすい。
 裏路地には誰もいない。暗くて見通しが悪い。都指定のゴミ袋がパンパンになっていくつも転がっている。集積が間に合っていないのだ。
 さあ、身包みを剥ぐ前にヤクザ屋さんを解体しよう。
「サト、後ろだ」
 ニック、さっきもそうだけど教えるのが遅い。
 僕が振り返る前に拳銃の遊底がスライドしたのが聞こえた。そしてニックではない、女の人の声がした。冷たくてキンキンしている声。嫌いだ。頭が痛くなる。今よりもっと。
「あなたが、カズラ? シリアルキラー・キラー?」
 その名前で呼ばれるの嫌いなんだよな。あと何その二つ名。
「変な名前で呼ばれてるモンだな」
 ニックうるさい。
 後ろにいる女の人がふっ、と笑った。
「やっぱりそうなのね。公安委員会の外注業者、教練済の人殺し」
 何なんだろ、なんかウザいな。殺そう。
「あなたに仕事を依頼しに来たの。ウチじゃ手こずる案件のね」
 何だか嫌な予感がしてきた。やっぱり今日はダメな日だ。だって、この路地の番地も「13」だ。
「話だけ聞いてやるか」
 ニック、やるのは僕なんだよ。
 僕はひとまず、女の人に銃を下ろしてもらうことから始めることにする。










[私は安寧を求む。そして同時に殺戮を好む。]


 遊底が引かれて、後頭部に銃口を突き付けられている。僕は手を挙げない。
 [挙げる必要はない。その気になればすぐに済む。殺してやる。一瞬で。]
 僕は早く女の人に銃を下ろして欲しい。女の人は喋り続けている。
「私は貴方に仕事を依頼しに来たの。貴方の有能ぶりは良く聞いているから。連続殺人犯ばかりを扱う殺し屋、『シリアルキラー・キラー』、『三つ首』、『パペット・マペット』、『メモリアル・イヤー』、『換骨なるカズラ』・・・・・・貴方は随分と渾名が多いのね」
 先輩達が教えてくれたの、と女の人は言う。少なくとも僕はその幾つかの渾名については何も知らない。センスの欠片も無いと思う。
「名声轟かんばかりだな。それで、オレに仕事だって? お嬢さん」
 ニックは女の人なら誰が相手でも同じような態度を取る。ニックは女の人なら誰でも好きになれるのだろう。背後に立っている女の人には自信しか無いようで、ゆっくりと喋った。
「ええ。貴方にしか頼めないような仕事よ。厄介で面倒で、誰にも頼めない、外に出せない仕事を。貴方の実力は折り紙付きだからテストは無し。公安みたいに単発ではなく、下請基本契約を結んで定期的な依頼をしたい」
「なるほど、悪い話じゃあないな」
 動かないまま立っているだけの、不満を募らせていく僕とは裏腹に、ニックはこの状況が満更でも無さそうだ。僕はあまり気乗りしない。仕事が増えるとリスクも増える。痛い思いをするのは誰だっていやだ。それが破格の待遇だとしても痛い思いはしたくない。
 ニック、やめようよ。
「話を聞いてやっても良いが、こんな路地じゃムードが無さ過ぎるぜ。良いところを知ってるからそこで話さないか?」
 ニック、行くならタクシーを呼ぼう。いつものタクシー。
「今、タクシーを呼ぶ」
 女の人が彼の言葉を遮った。
「私の車で行きましょう。一本向こうの大通りに駐めてきてある。貴方御用達タクシーなんて怖くて乗れないしね」
 僕のよく使うタクシー会社は仲間内では有名な会社だ。車内で「何が起きても」走り続けてくれるタクシー。発砲しても平気な防弾加工の内装なので重宝されている。スタンプを貯めると割引券が貰える。スタンプあと一つで貰えたのにな。
「そりゃ助かるよ」
 女の人が訊ねる。
「で、何処の店がお勧めなのかしら?」
「『du Anaye』」
「デュ・アナイエ? フレンチ?」
 ニック、財布の中身は空だよ。女の人に奢らせてよ、「du Anaye」は唯でさえ高いのに。
「オーナーシェフと顔見知りでな。内緒話をするのに丁度良い場所を貸してくれる」
 女の人は少し考えて了承した。「それじゃ、行きましょうか」と彼女が言うので僕はゆっくりと振り返る。撃たれないと良いな、と思いながら。彼女は疾うに拳銃を下ろしていた。小柄な僕よりも小柄。肩に掛かる程度の長さに切られた黒髪。二重の日本人形みたいな顔をしている。リクルートスーツを着ている。大学生くらいに見えた。
「貴方、案外普通の顔してるのね」
「昔はもっとハンサムだったんだぜ?」
 ニックの言葉に彼女は変な顔をして、気を取り直すように咳払いをしてから自己紹介した。
「『戸張ヒバリ』よ。ヒバリで良い。私のことは内調の代理人とでも思ってくれて構わない。正確には貴方と同じ雇われだけどね」
 名刺を渡されて受け取ると「出向 戸張戸破」と書かれていた。僕はてっきり鳥と同じ名前なのだと思っていたが違っていたらしい。僕は改めて彼女を観察する。ヒバリからは僕やニックのような気配がしない。きっと「真っ当な殺し屋」なのだろう。政府要人のような「真っ当な人々」を殺して回るような。僕やニックとは違う。僕やニックはもっと「酷い連中」を相手に殺したり殺されたりする。
 ヒバリは「ついてきて」と踵を返す。そういえば、このヤクザはどうしよう。
「そのままにしとくか」
 そうだね、ニック。仕方ないから行こうか。
 彼女が乗ってきたという車はベンツで運転手まで付いていた。これはもうシャトーブリアンとか奢って貰うしか無いな、と僕は思った。契約交渉が決裂したら追い剥ぎしてベンツも貰っていこう。何なら決裂させよう。自分が貧乏だとは思ったことが無いけれど、お金はあるに越したことは無い。ちょっと奮発してハードカバーの本とか沢山買っちゃおうかな。宅配ピザとか頼んじゃおうかな。夢が膨らむな。
「サト、気が早いんだよお前は」
 ニックは黙ってて。


 ベンツの後部座席に乗り込み、ニックが話し合いの場所として指定した「du Anaye」の住所を言うと、寡黙そうな厳つい運転手は無言で車を走らせた。15分ほどで目的地に到着した。
 地上三階、地下一階の小さなビル一棟が丸々レストランである「du Anaye」はミシュランには載っていないが、ドレスコードがある高級レストランだ。客は主に高所得者や政治家、それに僕やニックのような殺し屋。特殊な客層は主にオーナーシェフが原因だったりする。
 車から降りて僕はヒバリを先導する。運転手は車で待たせることにした。疑わしそうな視線が僕の背中に向けられている。
「ねえ、此処ってドレスコードとかあるんじゃないの?」
 他のお客様には厳しいが、僕達については煩く言われない。ドアのところに立っていたボーイが近付いてきた僕の格好を見て少し態度を硬くする。「お客様」と制止するように手を前に突き出した彼にニックは符丁代わりにオーナーの名前を出す。
「ヴァレリアンの客だ。地下のギャルソンに『コーヒーしか飲まない客が来た』と言えばオレが誰か伝わる」
 ボーイは僕のことを怪しみながらもすぐにインカムで連絡する。返答はすぐに来たらしく、ボーイは困惑した表情のまま僕とヒバリを案内した。客席のある地上階ではなく、入ってすぐの地下直通エレベーターに。ポーン、と音がして鉄の扉が開く。中に二十代のギャルソンが立っていた。ベストの胸ポケットに刺繍されてた名前は「Froid」。アジア系だけれどフランス語。「du Anaye」オーナーの部下。僕達と同業者。
「此処からは私がご案内致します」
 ニッコリと笑顔を貼り付けたギャルソンが手を示す。緊張しているヒバリを先に乗せて僕も乗り込む。扉が閉まり、赤の天鵞絨が内張された籠がゆっくりと降りていく。普通であれば十数秒で到着するはずのエレベーターは深く潜行していく。一分近く降りて、やっと到着を知らせる音が鳴った。エレベーターの扉が開く。マホガニーの廊下に赤い絨毯。壁紙は黒のオークニー・ブロッサム。此処を通る度に「シャイニング」の双子が出てくる廊下を思い出す。廊下は厚い両開きの扉へと真っ直ぐ伸びている。観音開きの扉を開けたのは案内役とはまた別のギャルソン二人だった。白人系の「La pauvreté」とヒスパニック系の「La faim」。いらっしゃいませ、と耳障りの良い声で僕とヒバリは迎えられる。
 広い室内に光を振りまいているのは高い天井から下がる豪勢なシャンデリア。最奥に設けられている厨房に至るまでに、広めの間隔を取ってテーブルが置かれている。テーブルは八卓。それとは別に六卓のソファ席が壁際にある。両側の壁にはフェルディナント・ホドラーの「Night」と「The Dream of the Shepherd」が巨大な壁画として複製されている。どの卓にも黒いテーブルクロスが敷かれ、端に季節の花が生けられている。花は鍔広帽ほどの大きさの、丸い平皿に載せられた小瓶に生けられていた。席は客殆ど満席だった。スーツ姿、イヴニングドレス姿、平服姿と客はバラエティ豊かだ。「Vieux」という名札を付けた日本人のギャルソンがリュックを背負う僕を見てソファ席に案内してくれた。それからメニューを渡された。
「アメリカン」
 ニックがメニューも見ずに注文するが、僕はメニューに書かれている「カフェラテ」を指さした。ヒバリが「同じものを」と言うとギャルソンは「アメリカンですか? それともカフェラテ?」と返す。
「えっあっアメリカンをお願いします」
 ニックが「サトはまだまだお子ちゃまだな」と笑っているが僕は無視した。ヒバリの方は睨んでくるのでこれも無視した。「少々お時間を頂きます」と言ったギャルソンは、僕とニックが始めてではないから特にリアクションも無く下がる。
「あの、此処って凄い値段が高かったりするの?」
「まあそうだな。なんせ出す料理が特殊だから。あと、悪いが俺の財布は空だ」
 ヒバリは「カード使えるかな・・・・・・」と心配そうに呟いている。この女の人がお金を持ってなかったら、僕達はオーナーに皮を剥がれてミートローフにされてしまうだろう。文字通り、この卓上に並ぶ羽目になる。
 僕がハラハラしていると、間の悪いところにオーナーその人がやって来た。
「Bienvenue! よく来たねヘンな人! またコーヒーしか飲まない!? お肉食べなさい!」
 声がデカけりゃタッパもデカい女、というのはニックの言葉だ。幾重にも編み込まれて冠のようになっている長い髪に光を反射させながら僕達の席に近付いてきたのは、このレストランのオーナーであり、このフロアのグラン・シェフであり、フランス被れの傭兵崩れであるヴァレリアンだった。金髪碧眼の東欧系で、身長が二メートル近くある大女。黒いコックコートと厚底の編み上げ軍靴という格好で、服の上から分かるほど筋肉が隆起している。彼女が渾身の力で人間を殴ると骨という骨が粉々になる程度の怪力で、大抵の相手は彼女を戦場で見掛けたら死ぬと思っている。
 [一度やり合ったことがあるがその時は流石に死にかけた。]
「よぉヴァレリアン、繁盛してるかい?」
「Ahー,はい! ボチボチデンナー!」
「何だそれ。アニメか何かか?」
「知らない!? ネズミのお話です!とーっても興味深い!」
 ヴァレリアンは豪快に笑って、今度はヒバリのほうに目を向けた。ライオンに似ている料理人の視線にヒバリは気圧されたのか「びくり」と肩を跳ね上げさせた。
「ど、どうも」
「あら、kawaii! kawaiiね! 今日仕入れ、ワタシ頼んでました?」
「仕入れ? 仕入れって何のこと?」
「あー違う違うヴァレリアン。このお嬢さんは俺の客なんだ」
 ニックの言葉にシェフは落胆の声を上げた。僕としてはこのまま買い上げてもらっても良かったな。ヒバリが睨んでくる。睨むことしか出来ないのかなこの人は。
「・・・・・・説明を求めるわ・・・・・・このレストランは、一体何なの?」
 ヴァレリアンと顔を見合わせる。僕を見下ろす大柄な料理長は警戒している。あと数秒したら激昂するだろう。「私の店に鼠を連れ込んだのか」と。そうしたらレストランが「血風呂」に早変わりしてしまう。僕は早々に両手を上げて降参した。
「悪かったよ、説明不足だった。心配しないでくれ。ちゃんと言って聞かせるから。駄目だったらアンタの好きにしてくれ、ヴァレリアン」
 ニックの哀れっぽい声でヴァレリアンの気分はほんの少し宥められたらしい。彼女は「お店出るまでにどうにかしてネ」と言い残して厨房に戻っていた。一難去ったところで次の一難。ヒバリへの説明だ。ハンズアップを続けたままにしておく。僕は何も言わない。ニックが説明してくれる。
「お嬢さん、ヘンな気は起こさないでそのまま聞いてくれよ。この店はレストランだ」
 ヒバリは持っていたビジネスバッグに右手を入れたまま睨んだまま「知ってるわ」と言う。ニック、物騒な状況を早くどうにかして欲しい。僕はさっさと手を下ろしたい。ニック、早くして。
「そう、レストランだ。『特別なレストラン』だ」
「・・・・・・何が特別なの?」
「地上のレストランはフレンチの店で、普通の店だ。三万のコース目当てにやって来る普通の客に、普通のコック。だがこのフロアは別だ」
「別?」
「このフロアでだけ『ジビエ』を出してる。ジビエ料理だけをな。俺達はこの店に肉を卸すことがある」
 さて、とニックが勿体振る。話が長いと僕が疲れるんだけど。嫌になるな本当に。そういえばこの席も「13番」テーブルだ。最悪だ。今日は本当に駄目な日だ。
「簡単な質問だ、お嬢さん。俺達は『猟師』に見えるか?」
 ヒバリは硬い表情で「いいえ」と答えた。正解だ。僕とニックは猟師じゃない。ニックはカウボーイだった。僕は大学院生。表向きは、と注釈が付くけど。ヒバリが焦れったそうにしている。分かるよ、ニックの話し方ってなんだか凄く諄いよね。
 ニックが役者みたいに言う。
「だが見方を変えれば、猟師とも言えなくはない。獲物さ、お嬢さん。俺達は獲物を追い、殺すことで生計を立てるハンターだ。そうだろ?」
 ニックが言わんとしていることを、ヒバリは理解したようだった。顔が強張る。「まさか」と信じられないように呟く。彼女の恐れを補強するように、素晴らしいタイミングでこのフロアの目玉であるショーが始まった。振り返らなくても、何が始まるのかは分かっている。僕が奥側の席に座ってしまったので、仕方なく出入り口側に座ったヒバリには、厨房の前に開けられたスペースで始まるショーが良く見える。
「このレストランじゃ、時間はまちまちだが、毎晩ショーがあるんだ。その為に俺達が肉を卸すこともある」
 今から始まる、とニックは言いながら溜息を吐く。ヴァレリアンが部下達を連れて厨房から出て来た。彼女と八人の男達で構成されたブリガード・キュイジーヌ。黒人系の副料理長「テルゲス」、スープを担当するスペイン系の「ビナイェ」、アメリカ人の肉料理担当「アハニ」、アジア人で冷菜担当の「ツァナハレ」、そして四人のギャルソン達。様々な人種で構成されたチーム。一見仲良くなれそうもない組み合わせなのに、趣味が一緒だと店まで構える仲になるらしい。
 ギャルソン達はテキパキとセッティングを始める。ヴァレリアンは本当に楽しそうに歌を歌っている。今日の獲物はなんだろう、と手を下ろして少し見物することにした。
「O Haupt voll Blut und Wunden, Voll Schmerz und voller Hohn, O Haupt, zu Spott gebunden Mit einer Dornenkron,」

「血と傷に満ちた頭、痛みと嘲笑に満ちた頭、いばらの冠で嘲笑に縛られた頭、」

 オーナーの部下達は三又を立てて滑車を下げる。ギャルソンの一人がストレッチャーを押してくる。ストレッチャーには何かが乗っているが、シートを掛けられているせいで中身は分からない。二人がセメントを混ぜる時に使うようなトロ舟を運んできて三又の真下に置く。三又の高さは三メートル程度。他のシェフ達がヴァレリアンの為に料理器具を準備している。観客の興奮が静かに広がっていく。ヒバリが身を硬くさせていた。
「O Haupt, sonst schön gezieret Mit höchster Ehr und Zier, Jetzt aber hoch schimpfieret,」

「頭よ、さもなければ、最高の栄誉と装飾で美しく飾られていたのに、今はひどく非難されている」

 シートが取り払われて、ストレッチャーの上に全裸の女の子が現れた。拍手が起こる。本日の「ジビエ」を、客達が待ち望んでいた。女の子は拘束されていないのにも関わらず台の上でじっとしている。目を醒ましているのに身動ぎもしない。獲物は絶望している。いつもそうだ。一度獲物が暴れたのに懲りて、ヴァレリアンは獲物の精神を徹底的に破壊することにしている。体に傷を付けなくても、彼女は頭が凄まじく良いから人の頭の中を粉々にできる。
「Gegrüßet seist du mir!」

「万歳!」

 ストレッチャーの上から女の子が下ろされ、足を鎖で括られる。滑車が鎖を巻き取り、女の子は逆さにぶら下がる。副料理長から大型のナイフを受け取って、ヴァレリアンは仕事を始める。自身の腰辺りの高さにある女の子の首を素早く掻き切る。ヒバリは顔を顰めていた。僕もニックも、特に不快感を感じない。そこまで興味が湧くものでもないから。
 女の子の首の骨が折られ、完全に首が切断された。
「今日、お客様の中でAnniversaryの方!? いらっしゃいますか!?」
 女の子の頭を掴んでいるヴァレリアンがフロアにいる客達に問い掛ける。近くのテーブルにいた女の人が手を上げた。「結婚記念日なんだ」と同じテーブルに座っていた男の人が言う。ヴァレリアンは歓声を上げて、ギャルソンが持つ銀盆に首を載せて運ばせる。夫婦のいる卓へとギャルソンは向かい、花が生けられた小瓶を回収する。その代わりに女の子の頭を皿へと載せた。血が綺麗に拭い取られ、髪を整えられて、正に「食卓の華」とでもいうように。
「Це смак життя! Це найкраще частування у світі!」

「"人生の味 "です。この上なく美しい!」

 オーナーシェフが歓喜を叫ぶ。ニックはそれを冷笑した。
「『人生の味』だとさ。ヴァレリアン達はこれが幸福な食事だと思ってる。そしてそれは理解者達と分かち合うべきモノだとな。アイツなら世界の食料問題と人口問題を一度に解決出来るぜ、クソッ」
 ヒバリはバッグから手を抜いてテーブルの上に揃えて置いた。眉間の皺が深い。それもそのはずだ。僕やニックのいる場所は異常だ。普通なら見ることもないし、まだ大人しい分類の人間が対象の彼女にはきっと縁など無い場所のはずだった。
「どうして、私をこの店に連れてきたの・・・・・・?」
 至極尤もな質問に、ニックはまた諄く答えた。
「この店は秘密を守らない客を客とは認めない。このフロアはヴァレリアンの生命線なんだ。此処でのことが外に漏れたら一巻の終わり。漏らした奴は勿論、少しでも情報に触れていると思えば地の果てまで追い掛けて全員殺して食っちまう。お陰で客は皆お上品で口が固い」
 ニック、勿体振るのは良くないよ。
「つまり、安全装置さ。もしアンタが持ち掛けてきた話が嘘なら俺達は確実に死ぬ。こういうところは独自のネットワークがあって、知り合いが死ねばすぐに分かる。そして彼処で楽しそうにガキを捌いてる女はこう考える。『アイツが死んだ理由はなんだ? 情報漏洩を防ぐ同伴者が死んだら、一緒に来ていたあの客はこの店を誰かにバラすだろうか?』ってな。そしてアンタは二日と掛からずジビエとして客に提供される。簡単だろ?」
 ヴァレリアンは女の子を切り分けてシェフ達の持つトレーに肉や内臓を恭しく入れていく。今から順番に料理されていく元人体。ギャルソン達はテーブルを回りながら調理法について客の注文を聞いている。ヒバリはどうにか頷いた。
「・・・・・・・・・・・・それに、始めて仕事を受ける相手は必ずこの店に連れてくるようにしてる。話が拗れたら、此処で殺して、アイツ等に買い取ってもらう。此処で死ねば、骨さえ残らない」
「Ach Golgatha, unselges Golgatha! Der Herr der Herrlichkeit muss schimpflich hier verderben Der Segen und das Heil der Welt Wird als ein Fluch ans Kreuz gestellt!」

「ああゴルゴダ、惨めなゴルゴダ!栄光の主はここで恥ずかしく滅びなければならない。世の中の祝福と救いは十字架の上で呪いとして置かれるのだ!」

「理解、出来たわ。ええ、貴方にとっては交渉に有利な場所なのね、この店は」
「それもある。あとコーヒーが美味い」
「Der Schöpfer Himmels und der Erden Soll Erd und Luft entzogen werden!」

「天地の創造主は、大地と空気を奪われるのだ!」

 ヒバリは深く深く息を吐いた。それから気を取り直して鞄から書類封筒を取り出した。中身を取り出して僕の目の前に広げた。
「円滑に物事を進める為にも、出来るだけ貴方とは仲良くなりたかったのだけれど・・・・・・その考えは捨てることにする」
「そりゃ残念だったな」
「仕事の話を始めましょう。貴方に委託したいのは都内の治安維持。こちらが指定した相手を見つけ出して処理してもらう」
 クリップ留めされている書類は三つ。手に取って捲ると個人情報や経歴が書かれていた。
「『処理』ねぇ。如何にもお役所さんって感じだな」
「役所よ。期限は依頼してから一ヶ月以内。やり方は任せる。報酬は現金で、一人につき幾らという計算で支払うわ。全員の金額は固定させてもらう」
「なるほどね。じゃ、俺達からの条件なんだが」
「先に行っておくけど、金額については譲歩出来ないしそれ以上の殺しは認められないわよ」
 ニック、三択でどうかな。A案「この女を殺す」、B案「この女を殺す」、C案「この女を殺す」。どれにしよっか。
「気が早いんだよ、全く」
 ニックは気を取り直すように咳払いして話し始めた。
「黄峻には二つだけ条件が条件がある。それさえ赦してくれるなら、話を受ける」
 戸惑ったヒバリが「オウシュン? 貴方の戸籍上の名前でしょ?」と聞き返す。ニックはそれに「臆病者の仕事仲間さ」と答えた。僕も同感だ。暗くて生きてるのか死んでるのか全然分からない。死んでれば良いのに。自分が傷つきたくないからって僕やニックを隠れ蓑にするところも身勝手過ぎて嫌だ。
 [静かに。]
「黄峻には逆らえないからな。それで条件についてだが、死体が多少バラけていても気にしないで欲しい。黄峻が気に入った相手は念入りにバラすから、時間の猶予も欲しいな。2,3ヶ月は痛めつけるし、場合によっては死体も上がらないかもな。その時に記念品を貰う。その辺りは見て見ぬ振りをしてくれ。条件はそれぐらいだ」
 ヒバリは少しだけ考えて「ええ、良いでしょう」と頷いた。
「気に入った相手を、その、拷問して殺したいっていうのは? どうしても必要なことなの?」
「黄峻の趣味だし、俺達にも必要な過程だ。やる場所はこっちで確保してるから心配しないでくれ」
 今のところお気に入り暫定一位はヴァレリアンだったりするけど、勝ち目が無いから妥協するしかないらしい。そして今のところ丁度良いのがいないから、ヒバリの持ち掛けてきた仕事は丁度良い。
 僕は資料を手に取って眺める。三人の男達。普通の連続殺人鬼に、頭が悪そうな半グレ集団のボスに、何処かの国のスパイ。どれもこれもパッとしない。
「なんだこのスパイって! 映画かよ!」
 ニックが笑っている。ヒバリは肩を竦める。
「こういう店で貴方が言うのもね」
「ま、ちゃっちゃと済ませていこうぜ。この中でどれを最初に始末するか。アンタだったらどの男にする?」
 顎に手を当ててヒバリは「そうね」と呟いた。
「その、連続殺人犯ね。半グレの頭やってる奴もスパイもデカい害虫だけれど、今すぐこの世から消えて欲しいのはその人殺しね」
 ギャルソンが漸くカフェオレとアメリカンコーヒーを持ってきた。ヒバリはコーヒーカップを取った。僕はカフェオレが冷めるのを待った。
「通り魔って、成功体験が続くと一体どうなると思う?」
 彼女の質問にニックは「どうなるんだ?」と返す。ヒバリはカップに唇を寄せて答えた。
「『家の中に入ってくる』のよ。現在進行形で実害があるから困る。直近の犯行では家の中に入ろうとしてドアノブにピッキングの痕を残していった」
 一口飲んで、店のコーヒーが気に入ったらしいヒバリは顔の険が消えた。このフロアで使っている食器は全て人骨を再利用してるボーンチャイナだって教えたら奢ってくれ無さそうだから黙っていることにする。
「じゃあコイツからだな」
「ええ。そうしてくれると助かる。ねぇ、少し聞いても良い?」
「なんだい?」
 ヒバリは僕の顔をジッと見詰めて、言った。
「貴方、話し方と表情が一致しないのは癖か何かなの?」









[さあやろう。お楽しみの時間だ。]




 昔から、彼は人を驚かすのが好きだった。かくれんぼをして最後には飛び出して鬼を驚かせたり、背後から飛びついて待ち合わせていた友人を驚かせたり。「わあ! おどろいた!」という反応が好きだった。誰でも良いからびっくりして欲しかった。
 人を刺したとき、相手がとても驚くから人を刺すのが好きだった。すれ違いざまに、ナイフを腹や胸に突き刺した時のあの顔といったら、どんな驚きの中でも一番の顔だ。彼はそれが好きだった。ネタばらしをするのは自分自身でなければならないのだから、刺した相手は確実に死ぬ必要があった。
 夜の住宅街は彼の良い狩り場だった。日が落ちて、夜の八時過ぎにでもなれば人の目など何処にも無い。薄暗く細い路地。車の通行を妨げるガード。カーテンを締め切った家々。誰もいない通り。街灯があまりにも少ない。犬を外に繋いでおくこともしない都会の住宅街。暗くて閑静で、ゾッとしてしまうほど不用心な住宅街。其処を歩く住民は、スマートフォンを歩きながら操作して、Bluetoothイヤフォンを両耳にしっかり嵌め込んでいる。これが「襲ってくれ!」という合図でなければ一体何なのか。彼は住宅地が好きだった。住宅地ばかりで人を刺した。人を刺した後は夜明けを迎えるまで散歩して帰宅するのが好きだった。
 その内、「通りで刺す」という行為に飽き始めた。あの一瞬の驚きに飽きは来ないが、自分のやり方に飽きが来た。ただ「通りすがりに刺す」だけなんて、手抜きなのではないかと思い始めた。
 もっと人を驚かせたい、と彼は思った。思い付いたのは「家の中に知らない人がいる」というシチュエーションだった。きっと今までに無い驚きがあるはずだ。彼はそう確信した。神は彼に創意工夫の精神を過度に与えていた。



 ピッキングは難しいと判断した彼は素直に街の鍵屋から鍵を買うことにした。世の中には悪い鍵屋がいるもので、女が合鍵を造りに来ると勝手にもう一本造り、顔写真と住所付きでそれを売るのだ。悪い奴だなぁ、と彼は思いながら買った鍵を使って独り暮らしの女のマンションへと忍び込んだ。住人が朝、会社へと向かっていく姿をしっかりと確認した彼は部屋の中へと入った。土足で上がるような失礼な真似はしまいと靴を持参したビニールカバーで覆い、物が散乱した狭い1Kの部屋に上がり込んだ。
 ベッド下に隙間があった。丁度良いやと彼は潜り込む。冷房が切られた部屋にはまだ冷気が残っている。恐らく彼女が帰る頃には室温が上がっているだろう。この時期にこのやり方はキツいが、彼には忍耐力と健康な体とカロリーメイトがあった。一日くらい平気で人の部屋に隠れられる。期待で胸が一杯だった。
 一時間、二時間、と時間がどんどん過ぎていき、恐らくもう昼過ぎといった頃。かちゃん、と部屋の鍵が開く音がした。この部屋に住んでいる女が会社から帰ってくるにはまだ早い時間だ。会社を早退でもしてきたのだろうか。訝しむ彼を余所に、静かな足音が近付いてきた。足が見えた。それと、コートの裾だ。彼女はコートを着ていなかった。そもそも、今は「8月」だ。真夏も良いところだ。どうしてこの時期にコートを着ているのか、彼には皆目見当が付かない。何が起きているのか、全く把握出来ない。
 その足はベッドに近付くと、向きを変えて彼のほうに踵を向けた。それからベッドが軋んだので、寝台に腰掛けたことが分かった。彼は考えた。この足は誰だろう。考えられるとすればこの部屋の鍵を持っている人間だ。誰だろう。住人の家族だろうか。恋人だろうか。それとも、自分と同じように鍵を買った人間だろうか。
 彼が考えていると、ぎしり、とベッドが軋んだ。
「・・・・・・ええ? なんだよ・・・・・・そんな今更な話を今すんのか? ・・・・・・女の腐ったような奴じゃあるまいし。サト、お前は・・・・・・」
 話し声が聞こえた。ボソボソと何か話している。誰かと電話をしているのだろうか。テレビは点いていない。
「ハハ、ええ? なんだそりゃ? あんなメスガキをオウシュンが気に入ると思うのか?」
 ボソボソと話し声は続く。彼には正体が分からない。どうしてコートなんか着ているのだろう。
「全く、ホント今日の仕事はくだらねぇよな。相手は救いようの無い馬鹿で、おめでたい野郎だぜ?」
 ボソボソとまだ喋っている。不思議なイントネーションだ。日本語の上手い、外国人のような。
「マジで興味が湧かねぇ。こんな美学も何も無いカス以下の奴なんかつまんねぇよ。殺す価値もねぇ。サト、お前もそう思うだろ?」
「[さっさとやれ]」
 ちがう声がした。それからまた、ベッドが軋んだ。ドクドクと自分の心臓が脈打っているのが聞こえた。何かがおかしくて、不安になってきた。彼は息を潜めて、瞬きを堪えた。ベッドと床の隙間が彼の視界で見える範囲の全てだった。足とコートが見えて、雑然としている室内が見える。靴を履いたままの足とコートが上へと消えた。またベッドが軋む。それから、逆さの顔が覗いた。顔の上半分が、ベッドの下を覗いていた。かちり、と左目だけが外側を向いて、また彼を見た。
「はろぉ」
 若い、高校生くらいに見える日本人だった。
「よぉ、ブロー。楽しそうだな、かくれんぼかい?」
 少年は「そんなところにいないで出てこいよ」と言った。日本語が上手い外国人のような喋り方で。
「俺と遊ぼうぜ。部屋を汚したくないんだ、面倒はゴメンだ」
 顔の上半分しか見えない。少年は逆さまになってベッドの下の彼を覗き込んでいる。少し長めの黒い髪が重力に従って垂れている。その中に埋もれた白い顔が彼を見ている。
 彼は生きてきた中で感じたことのない、震撼というものを覚えた。
「さっさと出てこい。清掃業者呼ぶのは面倒だが、これ以上手間取ると流石にな」
 少年の右目がかちり、と外側を向いてまた彼を見た。
「[つまんなーい、はぁーやぁーくぅー。退屈で死んじゃうよぉー]」
 少年の左目がかちり、と外側を向いてまた彼を見た。
「サト、寝てんじゃねぇこのクソ馬鹿。ちゃんと自分の仕事をしろ」
 部屋には彼と少年しかいないはずなのに、聞こえる声が多い。ベッドの上にもう一人いるのだろうか。そう思った彼は、一先ず降参することにした。この不利な「ベッド下」という場所から出るためだ。両手を見えるようにして、彼は少年に言った。
「わ、分かった、分かったから! 今から出て行くから、な、何もしないでくれ」
 少年は「OK」と返してベッドから降り、玄関から一番遠い部屋の隅に立った。彼はゆっくりとベッドから這い出す。一瞬、頭を出すのを躊躇った。慎重に頭を出す。何も起きなかった。
 ゆっくりと立つ。草臥れたトレンチコートを着ている少年はリュックを背負っていた。やはり高校生くらいに見える。日本人の少年だ。少年はゆっくりと彼を値踏みする。頭から爪先までじっくりと。無表情のままに。彼は手を挙げないでおいた。いつも使っているナイフをベルトの腰側に差し込んでいる。早く手を伸ばしたかった。
「なんだ、普通のガキじゃねぇか。マジでつまんねぇな。ケツの青いガキだよ、サト。お前と同じだ」
 少年は不思議な喋り方を続ける。少年は小柄だ。力で押し切れるのではないかと思った。彼は緩慢に動く。少年に躙り寄りながら自分のナイフへと手を伸ばす。少年は気付いていないのか、無表情のままだった。
「君は、なんでこんなとこに来たんだ? この部屋の人はお姉ちゃんか誰かかい?」
「ハッ! ハハハッ! 聞いたか!? この変態はシラ切るつもりだぜ!? ハハハ!」
 少年が表情を変えないまま笑い声を立てる。抱腹絶倒という笑い方を直立不動でしている。涙が出そうだ、と言いながら表情は一切変わらない。まるでストリーミングに失敗したような。異質な空気に気圧されそうになる彼はその感情が体に追いつく前に足を踏み出した。
 腰のナイフを抜いて床を踏み蹴る。二歩目を踏む前に少年の間合いに入る。刺突。少年の胸に突き刺す。もしくは腹。彼の頭の中で思い付いたのはそこまでだった。
 少年は半身僅かに反らして迫るナイフを避けた。そのままナイフが握られた手を掴んで後ろへと引く。余りに強い力で握られたせいで彼の口から呻きが漏れる。勢いが更に加速した彼の体は少年にぶつかろうとする。そのまま押し倒してやろうとした彼だが、少年は開いていたもう片方の手を握り、男の鳩尾に間髪無く拳を入れた。的確に胸骨を捉えて連打された彼は息が止まる。床に叩き付けられる。転がった体が戸棚にぶつかって飾られていたインテリアが床に落ちる。
「一応カウント取ってやろうか? ワーン、ツー、スリー、立てよ負け犬、フォー、ハハッ、ファーィブ」
 馬鹿にしたような少年に怒りが湧く。彼は立ち上がろうとした。しかし少年が彼の顔を蹴った。固い爪先がこめかみにめり込んだ。立てない。視界が明滅している。痛みが強くてろくに喋れない。少年がとんとん、と爪先を床に当てて靴を履き直す。
「雑魚以下だな。素人とヤるのは盛り下がるぜ、サト。あ? アー、そうだな」
 少年が誰かと話していた。
「高い場所から落とすとな、人間の骨って粉々になるんだぜ? 知らねぇのか? CSIってドラマ観たことねぇの? マイアミ編」
 誰もいないのに誰かがいるように話している。揺らされた脳味噌が落ち着いてきた彼はどうにか蹲る。ナイフは何処へ行ったのか分からない。
「折角だからやろうぜ。面白そうだし」
 鼻唄を歌いながら、少年が彼の体に手を伸ばす。振り払って掴みかかろうとした彼は顎に拳がクリーンヒットしてあっけなく気絶した。



「Oh,say you see・・・・・・What so proudly we hailed・・・・・・」
 アメリカの映画でよく見る、酔っ払いが歌うような国歌が聞こえた。気付けば彼は狭い何かに体を押し込められていた。単調な揺れ方をしている。何処かに運ばれているようだった。
「は、えっ、な、なん、は!?」
 驚いて体を揺らすと鼻唄が止まった。
「お目覚めだなぁ」
 あの少年の声が聞こえた。彼は暴れた。だがあまり意味が無かった。彼は何処かへ運ばれていく。
「おい! 俺をどうするつもりだ! 早く此処から出せ!」
「そう慌てなさんな。もう少ししたら出してやるから」
 馬の背にでも乗せられているような揺れ方だ。誰かが彼の入った、スーツケースだろうか、それを背負って歩いているようだった。
「おい! 出せ!」
「堪え性がねぇな。俺がお前くらいの歳でももうちょっと我慢が利いたぜ?」
 また鼻唄が始まる。もう質問に答える気はないようだった。彼がどれだけ騒いでも意味が無いようだった。何処へ連れて行かれるのか。何をされるのか。分からない。何も分からない。不安と恐れが波のように絶え間なく彼に押し寄せる。それを助長させるように軽快なメロディの鼻唄が聞こえる。
 どれだけそうしていたのか、どれだけ長く運ばれたのかは彼には分からない。暫くするとスーツケースの揺れは収まり、スーツケースが何処かに置かれた。
「結構距離あったな・・・・・・そう怒るなよ、サト。たまにキツい運動した方が健康に良いぜ?」
「だ、出して、出して下さい、お、お願いします、お願いします・・・・・・」
「んー、なんか随分と参っちまってるなぁ? あんなに威勢良かったのによ」
 少年の笑い声が聞こえた。彼はもう辛くて怖くて堪らなかった。早く外に出して欲しかった。「いいぜ、出してやるよ」と声がした時は涙が出そうだった。
 がちゃ、と音がして、光が見えた。それから青。浮遊感。
「え、」
 彼は放り出された。遙か下方にコンクリートの地面が見えた。ウミネコが鳴いている。タンカー船。潮騒。海。青い空。上方にクレーンのオレンジ色に塗装された端。トレンチコート。二枚貝のように開いたスーツケース。ガントリークレーンの上から放り出された。彼がそれを理解して、長い悲鳴を上げながら落ちる。それでも少年の鼻唄よりは短かった。地面に激突すれば彼は中身の詰まった麻袋に変わる。全身の骨が砕けてお手玉のようになる。
「オウシュン、アイツの耳はいらないのか?」
 晴天の下、海鳴りが哄笑のように響いている。
「[いらないよ]」
 少年の会話はもう彼には聞こえない。




 ヒバリは貧困層の生まれだった。名前さえろくに与えられない家に生まれた。不法移民や浮浪者、日雇い労働者の多い土地の生まれだった。子供の頃から大凡の常識から外れた場所で生きていた。
 彼女は十二で金欲しさにヤクザの事務所を荒らした。結局捕まった彼女はヤクザに嬲り殺しにされ掛けた。そして折角だからと金持ちの小児性愛者に売られた。彼女を買った豚のような小児性愛者は「えーやだ、顔が可愛くない。十歳過ぎとかババアじゃん。無理。ブスなババアは無理」と言い、退屈凌ぎで飼っていた土佐犬を嗾けようとした。それを止めたのがその小児性愛者の護衛をしていた男だった。「その歳で肝が座っているのは良い、泣かないのもな」と男はヒバリを引き取った。彼女は彼に払い下げられ、教練を受けることになった。適切な知識と礼節と技術を教え込まれた。名前を与えられた。
 以来、ヒバリは人を殺すことを仕事にしている。暗殺者としての矜持がある。分別がある。殺すべき相手、殺してはいけない相手。その区別が付いている。
 だが目の前の相手にはそれが無い、と彼女は思っている。
「アメリカン」
「私も、アメリカンを」
「はい。カフェオレとアメリカンですね」
 絢爛豪華な、異常なレストラン。そのソファ席で真夏にも関わらずトレンチコートを来た少年と対面している。半月前の自分なら「なにそれ。ライトノベル?」と笑っていただろう。今は頭痛しか無い。
「今日はどうしたの?」
 呼び出されて行ってみれば二度と足を踏み入れたくなかったレストラン「du Anaye」にヒバリは来ている。目の前の少年は無表情に彼女を見ている。少年はカチリ、と左目を動かして、口を開くと変な喋り方をする。
「仕事を一つ片付けた。仕事の完了報告って、どうすりゃ良いのか決めて無かったからな」
 コーヒーはすぐに来た。今日は「ショー」がもう終了しているか、まだ暫く先らしい。一先ず安堵してカップを持ち上げる。滑らかな磁器の肌触りに「高級なメーカーの食器なのだろう」と感想を抱く。
「そういえばそうね。考えておく」
 内調で使っている、特殊なサーバーを経由する回線を使わせてやろうかとヒバリは考える。上長に申請すれば許可はすぐに降りるはずだ。上長は目の前でカフェオレが冷めるのを待っている少年を贔屓にしている。例え彼が真夏にトレンチコートを着込んだ、頭が壊れかけている殺人鬼でも、彼の能力を買っている。
「始末した後はどうしたの? まさか死体をそのままにしたわけじゃないでしょう?」
 ヒバリが訊ねると少年は面白がるような口調で答えた。
「まさか。ちゃんと持ってきた」
 コン、と爪先で少年がテーブル脇に置いたスーツケースを蹴った。
「なにそれ?」
「噂の通り魔やってたガキ。綺麗に畳んだら上手いこと収まった」
 持ち込まれた死体にヒバリは溜息を吐く。
「なんで持ってくるのよ・・・・・・」
「掃除屋も最近は割高でな。部屋の清掃だけ頼んだから、発注者負担で引き取ってもらおうかと」
「嫌よ」
 ヒバリがきっぱりと言うと告げると少年はテーブルを指で叩いてギャルソンを呼ぶ。にこやかな表情のスペイン系がすぐにやって来た。穏やかで流暢な日本語を使うギャルソンが「どうかなさいましたか?」と少年に訊ねる。
「なあ、此処で引き取ってくんねぇか?」
 爪先で小突かれたスーツケースにギャルソンは一度だけ視線を向けて、ニコリと微笑んだ。
「お客様、大変申し訳ございません。当店では産廃の引き取りをしておりません」
 少年が舌打ちをする。ヒバリは慌てて口を挟んだ。
「あの、ウチで引き取ります。すみません」
 ギャルソンは彼女の言葉にただ微笑みを浮かべてからテーブルを離れた。死体の扱いが決まったところで、ヒバリは額を擦った。狂人との遣り取りは酷く疲弊する。
「まず一件、片付いたわね。それで? 次はどれにするの?」
 彼女の質問に少年は宙を見る。考え事をしているのか、誰かと話しているのか。
「そうだな・・・・・・さっさと片付きそうなのにするか。スパイとか逃げ回るのが仕事の奴じゃ、探すのが面倒だ」
「いいわ。では、さっさと半グレの頭を潰してきて」
 ヒバリの言葉に少年は「イエス、マム」と返答する。ヒバリはとにかく、この目の前の異常者に一刻も早く消えて欲しかった。









[私の頭の中には地獄があって、そこはとても心地が良い。]


 僕達は負荷が許容量を越えると壊れ始める。人を殺す、という行為はどうしたってストレスが掛かる。壊れ始めると、徐々に他の奴等と混じっていく。モザイクのように。知らない誰かの記録が入り交じって「自分」を見失いそうになる。自分の輪郭がぼやけていき、最後は体の奥へと溶けていく。そうなると、どうなるのだろう? 僕が消えるわけではないだろうけれど、今みたいな自由は無くなるんだろうな。嫌だな。上野でやってる展覧会に行きたかったんだけどな。負荷が掛かり続けて壊れ始めると、意識が途切れやすくなる。意識が途切れると、情報の洪水がやって来る。他の連中がしてきたことや、黄峻が持っている記憶の海が襲ってくる。僕を溶かしていく海が。
 くだらない夢を見ないでよ、黄峻。思い出に浸るな。センチメンタルに浸るなんて気持ち悪い。そんな資格、お前には無いだろ。

「黄峻は昆虫採集が好きなのか?」
 [八歳離れた兄が黄峻の部屋に入ってきて、標本で埋め尽くされた壁を眺めて言った。黄峻はアサギマダラの展翅をしながら首を横に振った。標本を作るための道具は全てこの兄が彼に買い与えたものだった。黄峻は自分のことを何一つ誰にも知られたくなかった。誰にも。家族にでさえも。]
「黄峻。兄さんは今日お前の学校に行って担任の先生と話をしてきた。お前は問題を起こしやすいと言われた」
 [背の高い兄は立ったままそんなことを言うので、黄峻は威圧感を強く感じた。だがそれを噯にも出さない。黄峻は黙々と学習机の上で蝶の羽を整えている。兄は構わず続けた。]
「小学校は社会の基礎的要素を学ぶ場所だが、お前が行きたくなければ行かなくても構わない。好きにしなさい」
[兄はいつもそうだった。家族の選択に文句を言うことはない。それが自分の不利益にならなければ。十二歳年上の、もう一人の兄のほうはあまり顔を覚えていない。彼はさっさと家を捨てて出て行ってしまった。]
「黄峻、担任の先生はお前のことを『嘘つきで気味が悪い』と言っていた。『毎日話すことに一貫性が無い。まるで別人みたいに振る舞う』とも」
 [黄峻は誰にも「自分」を知られたくなかった。だから毎日振る舞いを変えた。好物も、嫌いな給食のメニューも、授業の成績も。誰にも「自分」を認識されたくなかった。他の誰かに「自分」がどんな人間なのかを判定されたくなかった。それを許すことが出来なかった。]
「黄峻、お前は誰にも『自分』を知られたくないのか?」
 [兄は人の頭の中を推測して、まるで覗いたように言い当ててくる。それはとても嫌な特技だと黄峻は思う。黄峻は兄の問いに答えない。その答えさえ知られたくない。返事をしない黄峻に、兄は声を荒げることなどしない。ただ肯定する。]
「黄峻、人間は元々相手によって人格を切り換える生き物だ。だからお前もそれで良い。余りにも辛ければ、切り離してしまっても良い。他の誰かに肩代わりさせてしまっても良い。『自分』を見せたくないのなら、その内側に隠れてしまっても良い。お前のしたいようにしなさい」
 [兄は、「そうすべきだろう」と思って行動する。その時に最大限の最善を尽くす。誰にも分かち合えない黄峻の望みを理解しないまま肯定する。黄峻が母親のようにならないようにするために。自壊してしまわないように。「そうすべきだ」と思ったからだ。黄峻の目の前に難易度の低い道を指し示して、「好きなようにしなさい」とだけ言うのだ。]
「うん、兄ちゃん」
 [黄峻は兄に与えられた言葉をお呪いだと思った。黄峻が死ななくても良いようになるお呪いだ。兄に家族を愛する気持ちなど欠片も無いが、最善を与えようとする。「家族」という共同体を保全するために。]
「黄峻、蝶ばかりを標本にしているな。こんなに沢山、よく熱心に集めている」
 [兄の独り言のような言葉に、黄峻は漸く返答した。]
「標本はもう作ったらだめ? お父さんが怒るからやめなきゃいけない?」
 [父は無闇な殺生だと黄峻のコレクションにいい顔をしていなかった。直接注意することはしないが、遠回しに指摘することがある。黄峻はいつもそれを無視していた。兄は父とは真逆だった。]
「いや。他に好きなことが見付からなければ続けなさい。虫でも、獣でも、それより大きな生き物でも」
 [兄は黄峻の奥深くにある本当の望みを察しているようだった。黄峻はコレクションを蝶ではない別のものにしたかった。蝶の羽で代用して、自分を抑えていた。本当は、「人間」でやりたかったのだ。黄峻はずっと、人間を殺したかったのだ。自分でも理由など分からない、底の無い飢餓に似たその欲求を、ずっと抑えていた。ずっと抑えていたんだ、黄峻は、「俺」は。]


 ビクン、と体が突然落下するような揺れに襲われて僕は目を醒ました。いつの間にか眠っていたらしい。ここは何処だろう、と周囲を見回す。レーンに、電子掲示板とモニターには既視感があった。ボウリング場だと分かった。ボウリング場にいる。どうしてだろう?
 僕はレーンにあるベンチに座って寝ていたらしい。何かを抱えていて、なんだろうと見ると知らない男の生首だった。
 なにこれ。酔っ払って一升瓶抱えるみたいな奴じゃないんだけど、僕。ニック、ちょっと説明してよ。ニック、ねぇってば。
「うるせぇな。携帯見てみろよ」
 素っ気ないニックの言う通り、僕はスマートフォンを取り出す。画面に『ヒバリ:二度とやるな』という表示が出ていたのでタップしてみる。見慣れないアイコンのアプリが開いた。メッセージアプリらしい。チャット画面にはヒバリの名前が表示されていて『ふざけるな』という一文がある。その前はこちらから送信している。一枚の写真だった。
 死体と肩を組んで自撮りをしている笑顔の黄峻だった。死体の顔は見たことがある。ヒバリに紹介された標的の一人だ。半グレのボスとかいうチンピラ。見事に死んでる。滅茶苦茶に殴られた後に銃で額を撃ち抜かれている。僕は慌てて自分の服を見た。返り血がべったりとついていた。最悪な気分だった。よく見ればこのレーンは「13レーン」だった。
 ニック、今日はずっと運が悪いんだよ。嫌になるね。
「そりゃテメェが寝てるからだろうが、サト。自分の仕事も出来なくなったのか?」
 ニック、優しいね。心配してくれるんだ。
「死んじまえ馬鹿野郎」
 ゴメンね、ニック。
 僕はスマートフォンを仕舞って長い溜息を吐き、半グレの頭を遠くへ放り投げた。床に落ちて転がる音が響いた。死体は他にも沢山あった。半グレの仲間達だ。お気に入りのコートが汚れてしまったので僕は本当に気が滅入ってしまった。それに古着は高い。買うのは結構勇気がいるのだ。
 脱いだコートを手に持って、リュックを背負い、僕はボウリング場を出た。地元で愛される、というよりは経営不振な雰囲気のボウリング場。受付カウンターの向こうではみすぼらしい中年が死んでいた。黄峻が殺した。銃で眉間を一発。
 僕が寝ている間に「誰が何をやったのか」なんて分からないけれど、結論はいつも同じだ。「黄峻がやった」。外の人達はそう思う。僕らは思わない。僕らのうちの誰かがやったのだろうと分かっているから。黄峻は臆病だからこんなことしない。馬鹿みたいな話だけれど。
 僕はさっさと外に出る。快晴だった。時計を見れば昼過ぎだった。僕の体は傷だらけだったから、あんまり服を脱ぎたくない。でも黄峻は傷跡や刺青のような「特定される痕跡」を嫌うので、あんまり気にしなくて良い。でもやっぱり嫌だな。早く家に帰りたい。
「タクシーでも呼ぶか」
 ニックがそう言い、僕は賛成した。スマートフォンで登録している番号に発信する。すぐにオペレーターらしい女の人の声がした。
『お電話ありがとうございます。黒タクの配車を手配致します。電話は切らずこのままお待ちください』
 住所を聞かれたので、近くの電柱に書いてあった住所をニックが読み上げる。それから数分の内にタクシーが来た。ビートルのような丸っこい形の黒いタクシー。静かな運転と密閉性と「車内で何が起きても目的地まで走り続ける」というポリシーが人気の理由だ。僕も好きだ。たまに仕事する時にも使う。車の中で相手を絞め殺したり撃ち殺したりしても運転手がそのまま走り続けてくれるから。
 黒いタクシーは静かに停車して、後部座席のドアを開ける。
『配車が完了しました。ご利用ありがとうございます』
 通話を終えて僕はタクシーに乗り込んだ。運転手は何も喋らない。
「よぉ、ドライバー。AFNにチャンネル替えてくれよ」
 ニックが行き先を告げる。黄峻が寝床にしてる家だ。車は静かに発進する。僕は体を座席に預けて、リュックの中身を確認する。財布に、スマートフォンに、拳銃に、替えの弾倉に、ナイフに、注射器に、筋弛緩剤に、ロープに、ペットボトルに入れたガソリンに、ライターに、千枚通しに、針金に、結束バンドに、と色々な仕事の道具。
 弾倉が減ってるから後で補充しないといけない。ボウリング場の後片付けはヒバリにお願いしよう。クリーニングは経費で落ちるだろうし。ヒバリにボウリング場の清掃をメールで頼んで、用が済んだ携帯はマナーモードにした。なんだかとても疲れている。窓の外に流れていく景色をぼんやりと眺める。
 昼下がりの街並みが窓の外を流れていく。集合団地の寄せ集め。商店街。幹線道路。沢山の人達。駐輪場で立ち話をしている若い主婦達。
 あ、見てよニック。最近の井戸端会議は電子煙草吸いながらやるのが流行なのかな。
「知らねーよ。母親なんか何時だってストレス溜まってんだ、煙草ぐらい吸うぜ」
 でも電子なら火が出ないから子供は押し付けられても火傷しなくて済むね。根性焼きって熱いし痛いし。
「その代わりママの口がドブみてーな臭いになるけどな」
 ニックも禁煙すれば良いよ。服が臭い。
「死ねカス」
 僕は目を閉じる。眠りたい。家に帰ったら寝よう。そのまま目が醒めなくても良い気がする。瞼の裏に死体が浮かぶ。ボウリング場の死体。通り魔の死体。ヤクザの死体。その前の仕事の死体、もっと前の仕事の死体、ニックの死体、僕の死体。僕が死んだのは寒い時だったけど、すぐに虫が湧いた。指は全部折られて、顎も砕けて、鼻は削がれて焼かれた。太股に打たれた釘は二十本を越えた辺りから数えていない。僕を拷問したのは黄峻だ。僕が死んでいく様子を観察しているのは黄峻だ。死んだ僕を眺めているのは黄峻だ。僕はもうすぐ死ぬ。二度目の死だ。嫌だな、あんなの一回で十分なのに。頭が痛い。
[限界だ。そろそろ新調しなくては。]
 煩いんだよ、黄峻。黙っててよ。まだ僕は起きてる。
「寝るのか? サト。仕事しろって」
 煩い煩い。僕は頭が痛いんだ。ニック静かにしててよ。
 マナーモードにしたスマートフォンが震えている。ヒバリからだろう。無視する。どうせ文句だ。

 目を瞑ったままラジオに耳を傾け続けて一時間以上が経った。車が停車した。
「サト、着いたぞ」
 結局眠れなかったよ、ニック。
 料金を払ってタクシーを降りたら雑木林の中だった。黄峻はこの仕事を始めて少しした頃に山の中に家を買った。その家に向かって獣道を進む。十五分ほど歩いて、家が見えた。大きくて古い家。日本家屋じゃなくて、昭和に建てられた、小さな洋館のように見える。もしかしたら前はモーテルだったのかも知れない。三階建てで、客間が四室あって、吹き抜けのリビングも地下室もある。駐車スペースもある。この家まで車で来れるのかと言えば無理だけど。
「明るく楽しく、地獄のような我が家」
 ニックのどうでも良い軽口を聞きながら、玄関のところまで来た僕は家の鍵を取り出す。大きな両開きの扉の周りをついでに確認する。侵入の形跡は無い。安心して家の中へ入ることが出来る。中に入ったらすぐに鍵を締める。靴を脱ぎ捨てる。主寝室にしている三階の部屋に向かいながら、駄目になってしまったコートはランドリールームに投げ込んだ。風呂は後で入ろう。
 ベッドのある部屋で一番大きな部屋が主寝室、ということにしている。シャワールームとトイレもあるし。部屋に入って、リュックを置いて、今度はクローゼットへ向かう。ウォークインクローゼットだ。黄峻は沢山の服を持っている。僕の買った服も入っている。替えの服を持って出る。服はベッドに放り投げた。
「サト、寝る前のお祈りは?」
 今からするよ、ニック。
 黄峻から課されている日課。この部屋で寝る時は毎回やらなくてはいけない。
 壁際に引き出しが大きな三段のチェストがある。幅は大人が両手を広げたくらいの幅がある。僕は一番上の引き出しを開けた。そのチェストは標本ケースのようにガラスで内側と外側が仕切られている。中に飾られているモノが空気に触れないようにするために。並んでいるラベルには人の名前が書いてある。
 二人の名前が書かれたラベルの上に並んでいるモノは、数十人分の人間の耳だ。右耳と左耳。行儀良く並んでいる。別々の人間の耳をそれぞれペア同士にして並べている。その中に、ペアの欠けた左耳がある。右耳があるべき場所には何もない。ラベルには一人分の名前しかない。もう一人、名前を書けるスペースがある。
 ラベルには「佐藤浩史」。僕の名前だ。
 僕達は自分の耳を眺めて、死んだ時のことを思い出す。自分の最期の瞬間を。そうして、僕達は黄峻を恐れる。隷属と自己同一性を保つための行為。黄峻への祈り。馬鹿みたいだ。
 僕は引き出しを乱暴に締めてベッドに歩いていく。布団へと潜り込む。何日も使っていないようなにおいがする。変だな、そんなに使ってないはずじゃないんだけど。まあいいや。
 目を閉じる。すぐに眠りに落ちる。此処でなら僕は眠ることが出来る。
 この家なら僕が寝ている間、「誰」が起きても良いから。

 マナーモードにしたスマートフォンの振動音が聞こえる。起きたら折り返そう。今はもう眠りたい。








[もう潰れたヤツの話なんかどうでも良いだろ。]



 今回、彼女は便宜上「ナタリア」と呼ばれることになった。彼女は国に仕える情報工作員だ。若いがその才覚を認められて分隊を与えられ、工作任務に従事している。その都度に名前は変わるが、今回与えられた日本国内での任務では「ナタリア」という名前になった。七人の部下もそれぞれ新しい名前を与えられている。彼女の目下の任務は護衛だった。だから自身も部下もSPのようなスーツを着て、外交官の身分で日本に入国したスパイの護衛をしている。そのスパイは文官であるため、ナタリア達が手足となって働くことも必要だった。国が「そうせよ」と言うのだから特に文句は無かった。
 ナタリア達は身辺警護と情報収集の二班に別れていた。多少日本語が分かる人間で構成された、情報収集を行う班はスパイが目星を付けた要人を追跡し徹底的に調べ上げるのという外回りが主な仕事だ。その日も、彼女の部下三名が外回りに出ていた。

 「ボリス」というのが今の彼に与えられた名前だった。名前は任務の度に変わる。彼は情報収集を行う外回りの任務に当たっていた。同じ任務に当たる同僚と別れて、公安の職員と思しき男の尾行をしていた。駅の改札を出て、スーツ姿の中年を追っている。普通のサラリーマンに見えるが歩き方に変な癖がある。手を揺らさず歩いているその男は鞄を持っていない。この平日に、違和感がある。
 中年は駅から5分ほど歩いたところにあるモノレールに向かっている。乗り換えるのだろう。ボリスも自然な距離を保ちながら歩く。中年が携帯電話をポケットから取り出して何処かに電話を掛けてすぐに切った。1分にも満たない通話だった。中年は歩き続ける。追うボリスの上着のポケットで携帯が震えた。時計を見ると上司であるナタリアに定時連絡を行う時間だった。彼は歩みを止めること無く応答する。
『報告して』
 出ると間髪入れずに女上司の声が聞こえた。
「尾行中。不審な動き無し」
『了解。お前一人?』
「はい」
 ボリスが答えたところで中年が道を逸れた。そのまま歩いて行けばモノレールの改札へと向かうエレベーターがあるのに、その下の陸橋部分へと進んでいく。その先には高級デパートや複合型のショッピングセンターがある。ボリスは彼を追う。平日の午前中ということもあるせいか、陸橋の通路は人通りが殆ど無い。ビルの影にもなっているので見通しが悪い。デパートに向かうにしても、中年が手ぶらで向かうには不自然な気がする。何をしに行くつもりなのだろう。
「対象が手ぶらで不審な動きを」
『なに?』
「人通りのある所へ行こうとしています。それか見通しの悪い通路へ」
 ボリスは通話を続けたまま男についていく。薄暗い通路へと入っていく。上部にモノレールの駅と線路が有り、両脇にはビルがある。やはり人通りはない。見通しが悪い通路を通ることにボリスは躊躇った。返り討ちの可能性を恐れていた。中年はどんどん先を行く。ボリスは可能な限り距離を開けて追うことにした。
 通路の向こうから誰かが歩いてきた。背丈が低い。スーツを着ているのかと思ったが左胸に大きなエンブレムが付いている。ブレザーを着た少年だった。恐らく高校生だろう。大きなリュックを背負っている。リュックは重量があるのか片方の手でショルダーハーネスを掴んで、もう片手にクレープを持っている。ニコニコしながらクレープを食べていた。
 平日だろうに、学校へ行かなくて良いのだろうか。ボリスはそんなことを思った。
 中年は高校生と擦れ違っても特にリアクションが無い。少年も擦れ違ったサラリーマンに目もくれない。単なる通行人のようだ。
『ボリス、どうかしたの?』
「いや、異常ありません。ナタリア」
 ボリスは歩き続ける。少年との距離が縮まっていく。そして擦れ違おうとした瞬間、少年がよろめいてボリスのほうへと倒れてきた。少年の持っていたクレープがボリスの背広にぐちゃりと付いた。彼と少年の口から「あっ」という声が同時に出た。
「[あっわっ、ごっごめんなさい!]」
 少年が慌てた顔で謝ってくる。リュックを下ろしてごそごそと中を探っている。ハンカチでも探しているのだろう。ボリスは構わず歩きだそうとする。
「[あっ、まっ待って、待ってください!]」
『ボリス?』
「変なガキが、いえ何でもありません」
 ターゲットである中年の後ろ姿が遠退いていく。見失うわけにはいかない。「待ってくださいよ」と少年の声がする。ボリスは無視して先に進もうとした。再度少年の声が聞こえて、思わず足が止まった。
「[おじさんスパイなんですか?]」
 振り返ろうとしたボリスの首に何かが巻き付く。工事現場などで使用されるワイヤーロープだ。それが彼の太い首に幾重にも巻き付いた。瞬く間にワイヤーが左右に引かれる。頸動脈が絞まるのと同時に背中に衝撃を受けて体が浮く。そのまま、ボリスは腹を上にするように空中で制止する。踵が浮いた。ボリスはかなりの巨躯で体重が100㎏を越えている。その体が仰向けに浮いている。ボリスは信じられなかったが、少年が自分の背に彼の体を担ぎ、ワイヤーで彼の首を締め上げている。ぎりぎりと、凄まじい力で。
 ボリスが持っていた携帯は通路に敷かれたタイルの上を滑っていった。通話はまだ続いている。
『ボリス? ボリス、応答して』
「[返事をしたくても彼は声が出せない]」
 別の声がナタリアの声に答えた。老人のような声だったが、間違いなく少年から発せられたものだった。ナタリアとボリスは母国語で話していた。彼等と同じ言葉で返事が返ってきた。得体の知れない何かがボリスを襲っていることしか、彼女には分からない。
 ボリスは手足を振り回し首に巻き付いたワイヤーを掻く。だがどれだけ悶えようと少年が体勢を崩すことはない。
「[白い光のなーかにー、山並みは萌えてー]」
 歌が聞こえてくる。ボリスが聞いたことの無い声だった。
「[遙かな空の果てまーでもー、君はとびーたつー]」
『ボリス、応答しなさい!』
「[限りなく青いー、空にこーころふるーわせー]」
 ボリスは喉を絞め潰されてくぐもった声しか出せない。彼は緩慢に首を絞められ続け、やがて死んだ。其処に足音が近付いてくる。ボリスが尾行していた中年だった。
「よぉ、オウシュン。悪かったね、ゴミ掃除なんて頼んで」
 中年は少年を「オウシュン」と呼んだ。
「[ぼくは黄峻じゃないよ。ぼくはハンガー君だよ。オウシュンは寝てるよ]」
「初めて会うな」
「[ハード担当のサトをオウシュンがクビにしたから、今は統制が取れてない状態なんだよ]」
「そうかい。じゃ、次の算段を付けよう」
 電話の向こうでナタリアは会話を聞いている。
「[オウシュンはこの釣り方を、いつまでやるのかって気にしてるよ。今、ぼく達は頭の具合が凄く悪いからあんまり働きたくないんだよ]」
 少年の言葉にナタリアは息を呑む。意味不明な話の中で唯一分かった言葉の通りならば自分達は罠に掛かったことになる。
「あと二人ばかし始末して欲しい。うろちょろ出歩いてるみてぇでさ」
 中年がそう言ったのを聞いて彼女は即座に外回りをしている部下達に緊急コールを掛ける。
「[うーん・・・・・・分かったって。ところで、まだスパイおじさんのケータイ通話中になってるよ]」
「あっ! このクソガキ!」
 中年はボリスの携帯電話を拾い上げた。すぐに通話は切れる。彼は溜息を吐いて少年を睨んだ。
「ペナルティだ気違い野郎。内調を馬鹿にしやがって」
 怒りを露わにする中年に少年は無邪気な笑い声を立てた。


 部下の一人であるボリスが死んだのを皮切りに、ナタリアの部下で外回りを担当していた者は3名全員死亡した。彼等が「公安」もしくは「外務省」の人間だと思って尾行していた相手は全員が内調の人間だった。ボリスは「オウシュン」という名の刺客に襲われて死亡した。もう一人は別れた二人の仲間を任務終了後にピックアップするために、車で待機していたところを制服警官を装った内調に職務質問を受け、射殺された。最後の一人は追っていた相手に襲われ、格闘の末に殴り殺された。彼等と通話を繋いだままにしていたナタリアはそれを始まりから終わりまで聞いていた。

 一日で部下の半数を失ったナタリアは護衛対象である文官に進言した。
「我々の動きは気付かれています。即刻この国から脱出すべきです」
 大使館内に割り当てられた文官の部屋は、職員の部屋としては豪奢な調度品に囲まれている。ナタリアはこの護衛対象を嫌っている。現場の自分達を軽視する典型的な役所の人間で、仕事よりも私服を肥やすことを優先する。軽蔑しか無い。
 文官は椅子に身を預けて横柄に指示する。
「処理部隊が出てきたということは私を公的に退去させる手段を持ち合わせていないということだろう? その犬共を葬れば良いではないか」
「工作員は疑われた時点で終わりです。即刻退去を」
「人にとやかく言う前に自分の職務を全うしろ! お前達は護衛だろうが!」
 でっぷりと太った拳でデスクを殴り付けて文官は鼻を鳴らす。話にならない。ナタリアはそう思った。彼女は「失礼します」と硬い声で部屋を辞した。部下達は廊下で待っていた。
「ナタリア」
 部下の一人、熊のような体格の「フェリペ」が彼女の傍へ来る。彼は殺されたボリスの友人だった。怒りに満ちている部下にナタリアは言う。
「我らがプリンシパルは敵の排除をお望みのようよ。情報を集めなさい」
「最初にボリスを殺したガキからでも良いですか?」
 部下の問いにナタリアは「好きになさい」と返す。
「恐らく雇いの殺し屋よ。見つけ出して雇い主を吐かせて。始末はお前に任せるわ」
 ナタリアの命令にフェリペは喜びを噛み殺して頷く。彼女は他の部下にも指示を飛ばして大使館から都内にあるセーフハウスに移動する。ナタリアは自分の中に期限を設けた。半月以内にこの件が片付かなければ本国に帰還許可を仰ぐつもりだった。楽な子守のはずが、とんだ任務になってしまった。



 ナタリアの部下が減ってから一週間後の夕暮れ。雇われの殺し屋は所詮雇われということなのか、「オウシュン」と呼ばれていた殺し屋はすぐに確保出来た。その殺し屋は二十代の日本人であり、現在は政府の下請けをしているらしい。提出された報告書にナタリアはセーフハウスのデスクで目を通す。ここ数年で殺し屋の仕業とされる殺しはある種の一貫性があった。
「半年から一年は同じ偽名で同じ手口、それから数ヶ月のインターバルを置いて別の偽名、手口に変える・・・・・・なんなの、コイツ」
 そんな感想が彼女の口から出た。殺し屋の顔写真は無いが、渾名は一覧表が作られるほどあった。「シリアルキラー・キラー」、「三つ首」、「パペット・マペット」、「換骨なるカズラ」等々。ナタリアは渾名のセンスの無さに怖気が走る。
「渾名の多い奴ね。この『メモリアル・イヤー』というのは?」
「死体を残す場合、死体の耳を切り取るんです。全員ではありませんが」
「ああ、なるほど。雇い主については吐いた?」
「いえ」
 パラパラと書類を捲るナタリアを前にフェリペはそわそわしている。上官の命令を待っている。彼女は部下の望んでいる命令を下してやる。
「フェリペ、吐かせなさい。手段は問わないわ」
 部下は挨拶もそこそこに勇んで部屋を出て行く。「殴り殺すなよ」と念押しするのを忘れたが、どうせ死ぬのだから構わないかとナタリアは嘆息する。

 彼等が使っているセーフハウスは都心に程近い郊外の一軒家で、ナタリアと生き残っている四人の部下が滞在している。家の中で靴を脱がずに暮らしている。
 この家の二階には尋問室代わりに使っている小部屋がある。小部屋の前にいる大柄な見張り役に会釈してフェリペは中に入った。狭い部屋の中で、もう一人の同僚に見張られている殺し屋は椅子に手錠で繋がれていた。
 これがボリス達を殺した奴なのだろうか、というのがフェリペ以下同僚達の見解だった。椅子に繋がれている彼は精々高校生ぐらいにしか見えない。白のマオカラーシャツに黒のトラウザー。確保時には学生が使うような、大きなリュックを背負っていた。中には大量の凶器が入っていた。
 殺し屋が口を開いた。中年の男のような声だった。
「[仕事の依頼という電話を受けたのに、なんで拘束されないといけないんだ]」
 日本語が分かる格闘家のような体格の見張り役、オストが殺し屋の言葉をフェリペに通訳する。殺し屋は間抜けらしく、「仕事を頼みたい」と電話をすればノコノコ指定の場所にやって来た。
「ホントにコイツがあの殺し屋なのか?」
 フェリペがオストに言えば肩を竦められる。名前を訊ねると「[サカモト]」と殺し屋は答えた。フェリペはオストに「オウシュン」という名前ではないのかと確認させる。
「内調の男はお前を『オウシュン』と呼んでいたぞ」
「[黄峻は寝てるし、お前等に会う気も無い]」
 オストに通訳された殺し屋の解答に気に入らずフェリペは彼を殴った。鈍い音がした。顎の殴られた殺し屋の目がぐるんと回り、瞬きする。
「[痛ぇぞ馬鹿野郎]」
 殺し屋は突然英語で話し出した。先程までより若い声で。フェリペとオストは顔を見合わせる。ボリスが質問する。
「お前、英語が話せるのか?」
「[話せるってなんだよ。俺は南部生まれの貧しい白人だぜ? お前等コルホーズ耕してる連中と変わんねぇよ]」
 殺し屋は小馬鹿にしたように笑うので、フェリペはまた二度、三度と殴る。鼻血が出た。殺し屋は「[いってぇなクソ]」と鼻血を床に吹き捨てる。
「[いきなり拷問から入るってよぉ、日本の映画にあるよな。『処刑遊戯』だっけ? アンタ等観たことある? 松田優作の映画なんだけど]」
 フェリペがまた拳を奮う。殺し屋は「[あーアンタ等んトコはドライブインシアターもねぇんだっけな]」と減らず口を叩く。
「[何してぇのかサッパリだぜクソイワン共。早くトレーラーハウスに帰れよ]」
「お前はオウシュンか?」
「[俺はスティーブ・ジョブズだよ。アンタ等、黄峻に会いたいのか? あのガキはビビリだからな、出て来ないしそもそも寝てるよ]」
 フェリペはまた彼を殴る。本当にこの少年が殺し屋なのか分からなくなってきていた。「[ちょっとは加減しろよ]」と彼は軽口を叩く。殺し屋の口から血が滴っている。歯に血が滲んでいる笑顔を彼はフェリペ達に見せた。
「[幾ら殴ってもらっても構わねぇんだけどさ、一つ頼んで良いか?]」
「なんだ?」
「[頼むから俺を気絶させないでくれ]」
 フェリペはまた拳を彼の顔に叩き込む。殴られた殺し屋の目がぐるんと回り、瞬きする。先程もしていた。恐らく短い気絶をしている。それから殺し屋が笑い声を漏らし始めた。高い笑い声だった。
「何がおかしい?」
「[そんなに殴らないでよ]」
 子供の声で甘えるように殺し屋は笑う。再び日本語で話し始めたのでフェリペはまた殴る。殺し屋はまた笑い声を立てる。
「[ねぇ、何を待ってるの?]」
 甲高い声が耳障りだし、日本語なのでフェリペは後をオストに任せることにした。
「オスト、コイツがマトモに喋るようになったら教えてくれ」
「了解です」
 フェリペが出て行くとオストは拳を鳴らす。殺し屋は笑っている。
「[ねぇ、何を待ってるのか聞いてよ]」
 同じ質問をする彼に、オストは殴る前に聞いてやった。
「何を待ってるんだ? オウシュン?」
 オストの問いに洞穴から響くような声が答えた。
「[当たりが出るのを待ってる]」
 次の瞬間、殺し屋は手錠を力任せに引き千切った。炭素鋼で出来た純正の手錠がバラバラに弾け、驚くオストは咄嗟の判断が遅れた。殺し屋は自身より二回りは大きい男に掴み掛かると床へ引き倒した。強かに顔を打ち付けて呻く男の背に馬乗りになった彼は自分より大きな頭を両手で掴む。そして殺し屋は素早くオストの頭を捻り、首の骨をへし折った。
 殺し屋は立ち上がり、草臥れたように肩や首を回す。彼が顔の血をシャツの袖で拭っていると、部屋の扉が外からノックされた。見張り役の男だ。
「おいオスト、平気か? 物音がしたが」
 殺し屋は見張り役の男に分かるように英語で言い返した。暗い穴から響くような声で。
「[馬鹿が転んで床に伸びている。助けてやったらどうだ?]」
 洞窟から響くようなその声に驚いた見張りが部屋に飛び込んでくる。床で死んでいるオストに驚く見張りは死角に潜んでいた殺し屋に気付かなかった。同僚の状態を確認しようと屈んだ見張りの背後から殺し屋は飛び掛かる。太い首を裸絞めにする。凄まじい力で男の首を締め上げる。気道と頸動脈、頸椎をまとめて圧搾された見張りは瞬く間に昏倒した。彼が床に倒れ伏しても殺し屋は一分間力を緩め無かった。
 きちんと息の根を止めてから、殺し屋は彼から離れた。
「[ちょっといたずらして、それからリュック探しに行こうよ。黄峻]」
 彼の口から少女の声が出る。黄峻と呼ばれた殺し屋は従う。

 オストから声を掛けられるのを斜向かいの部屋で待っていたフェリペは、小部屋から聞こえてくる物音に気付いた。同僚が派手にやっているのだろうとその時は思ったが、少しすると何も聞こえなくなったので違和感を覚えた。部屋を出ると小部屋の前に立っているはずの見張りが消えていて、部屋の扉が開いている。緊急を知らせるメッセージを支給されているスマートフォンから発信し、フェリペは銃を構えた。小部屋の中を覗く。同僚が二人、死体になっていた。
 怒りに震える彼の耳に銃声が聞こえてきた。階下で誰かが発砲した。恐らく休憩中だった同僚だ。それから笑い声。あの殺し屋だとすぐに分かった。
「何事なの」
 二階の奥にある私室からナタリアが出てきた。フェリペは端的に答える。
「あのガキです。逃げられました。オストとヨナスは死亡」
 猛禽のようなナタリアの顔に皺が寄る。怒気に気圧される前にフェリペは続ける。
「一階で休憩中だったセブと交戦していると見られます」
「真っ昼間にこの国で銃声はマズいわ。さっさと始末して此処は放棄するわよ」
 フェリペは加勢のために懐から拳銃を抜いて階下へ向かう。ナタリアも追おうとして、ポケットの中でスマートフォンが振動するのに気付いた。取り出して表示を見ると護衛対象の文官からだった。舌打ちしてから電話に出た。
「すみません今取り込んでいます」
 即座に切ろうとする彼女に文官は苛立たしげに返す。
『人を呼び付けて置いてなんだその言い方は』
「は? 何のことです?」
『だから、お前の部下が私を呼び付けたんじゃないか! 緊急だか何だかでお前が呼んでると言ってな!』
 「丁度近くを走っていたから、もうすぐそっちに到着する」という文官の言葉に、ナタリアは戦慄した。あの殺し屋は最初から文官が目的だった、という可能性が閃いた。
 文官が嫌がるのと目立つのを避けるために彼が公的機関の建物内にいる間、護衛は離れている。大使館の中で暗殺しようとすればナタリア達は察知する。この国はスパイ天国だ。余程のことが無ければ手出しはしてこない。付け足せば、文官は敵対組織にとって「殺すほどの価値も無い」と思われていたはずだった。文官はその手の偽装に長けていた。
 ナタリアは部下の死体を確認しに行く。そして、オストの死体から携帯電話が死体から不自然に離れた位置に落ちていることに気付いた。拾って通話履歴を確認する。文官への発信履歴が残っていた。床に、引き千切られた手錠の残骸が散らばっている。「我々は敵に何を嗾けられたのだろうか」と彼女は思う。
 ナタリアはまだ通話状態にしている文官に指示する。
「此方へは来ないでください。敵の罠です。危険ですので三番のセーフハウスに移動を」
『なんだ、どういうことだ? 説明しろ!』
「説明してる暇は無いんですよ! 早く待避してください!」
 また銃声が聞こえてきた。喚く文官を無視してナタリアは通話を切り、銃を抜いて階下へと降りた。
「フェリペ!」
 ナタリアが名前を呼べば「キッチンです!」と彼の返事が返ってくる。
「セブ!」
 もう一人の部下の名前を呼べば「リビング!」と返答がある。今のところ二人の部下が生き残っている。一階はリビングダイニングが大きな割合を占めている。リビングにセブ、キッチンにフェリペ、階段の前にナタリアがいる。残るは風呂場、トイレ、二つの和室。その何処かに殺し屋が潜んでいる。
「殺し屋がオストの携帯を使ってプリンシパルを呼び出した! さっさと始末するわよ!」
 ナタリアはひとまず合流することを目指した。銃を構えたまま階段前から移動して廊下を進んでいく。薄暗い廊下に人影は無い。壁に弾痕があった。穴は一発分。銃声は二回した。殺し屋はセブに出会して発砲され、廊下を通って逃げたのだろうか。そんな想像をしながらも警戒を保ったまま彼女は進んでいく。開け放たれているリビングのドアは見えているのに、酷く遠く感じた。
 無事にリビングまで辿り着いたナタリアは「私よ、撃つな」と言って足を踏み入れる。手を先に伸ばしながらゆっくりと部屋の中へ入る。死角に立っていた、筋肉が発達し過ぎて小山のような体格のセブも、キッチンのカウンターから覗くようにドアを見ていたフェリペも、酷く強張った顔で拳銃を向けていた。部屋に入ってきたのがナタリアだと分かると安堵の表情を見せる。殺し屋よりも体格で勝っている大男達がこうも怯えているのを見ると、ナタリアも恐怖を煽られた。
 ナタリアはすぐに背をリビングの壁に付ける。それからハンドサインで指示を出した。
<即座に退去。外へ。プリンシパル到着間近。敵は家の中へ押し込む状態。撤退第一。>
 彼女の指示に部下二人は頷く。殺し屋を深追いするにしても最初から罠だったことを考えると放置したほうが安全のように思えた。それに玄関が開く音がしない。これがナタリアにとって一番の不安材料だった。
 殺し屋は今ならこの家から逃げていけるはずだ。だがそうしない。二階の窓は全て塞いでいる。出口は玄関と台所の勝手口、それと一階の窓のみ。何も物音がしない。殺し屋が外へ出ないのは、此処でナタリア達を全員殺して文官を拉致するか、もしくは殺害するかするためだと考えるのが妥当だ。殺し屋がそう考えているのであれば、こちらも闘う気があることを示せば家の何処かに潜んで機会を伺っているはずだ。そのためにナタリアは先程大きな声で「殺し屋を始末する」と叫んだのだ。相手にも聞こえるように。
 三人はそろそろと移動する。広いリビングダイニングは階段から近い廊下側、そして玄関側に出入り口が設けられている。玄関へ向かってナタリア達は進んだ。キッチンの勝手口やリビングの庭へと続くガラス戸は施錠されている。此処から出ると玄関先の駐車スペースに行くのは時間が掛かる。もし文官の乗った車が到着した場合、殺し屋に先んじられる可能性がある。
 玄関へと続く扉は何事も無く開いた。左手に広い玄関の三和土が見えた。真向かいにある和室の襖は僅かな隙間が開いていた。右手には廊下が続いていて、奥に階段ともう一つの和室などがある。フェリペが先導し、廊下を見張る。セブは和室とリビングを交互に注視し、ナタリアは玄関の三和土へと降りた。音を立てぬように鍵を開ける。
 その時、向かいの和室から声が聞こえた。同僚の、ボリスの声だった。
「[ナタリア]」
 死人の声が聞こえて、その和室を見ていたセブは硬直しフェリペも唖然とする。ナタリアは玄関の鍵を開けるのと同時に部下達に命令する。
「撃て!」
 脊髄反射のように二人は発砲した。襖に穴が開く。玄関の扉を大きく開けたナタリアは「外へ!」とフェリペ達に促す。また声が聞こえた。今度は暗い廊下からだった。
「[ナタリア]」
 死んだボリスの声で彼女を呼んでいる。
「何なんだアイツは!」
 セブが廊下へ向かって発砲する。マズルフラッシュは何も照らさない。殺し屋の笑い声がする。
「やめろ! さっさと行くぞ! フェリペ、援護しろ!」
 三人は夜闇が迫る外へ出た。フェリペは振り返って玄関に銃を向ける。車が走ってくる音が聞こえる。文官が到着したのだ。外交ナンバーのベンツが敷地から入ってくる。セブが「入ってくるな」と手を振るが、車は庭に乗り入れてきた。
「降りるな!」
 ナタリアは車に駆け寄り後部座席から降りてこようとする文官を止める。ドアを抑えて「危険です!」と警告する。混乱している文官ががなり立てる。文官を無視して彼女は運転手に車を出すよう指示しようとした。銃声がして、ベンツのフロントガラスが割れて運転手の眉間に穴が開いた。玄関の扉が少し開いて小銃の銃身が覗いていた。フェリペが文官に気を取られたせいで扉が開いたことに気付けなかった。
 玄関に向かってフェリペは撃った。すぐに玄関は閉じる。ナタリアは運転席から死体を引き摺り出し、セブとフェリペに乗り込むよう叫ぶ。制圧射撃を続けつつ、男達は車に駆け寄って乗り込んだ。運転席のナタリアはドアが絞まる前に車をバックさせる。急加速したせいで文官が助手席のヘッドレストに頭をぶつけた。ナタリアの乱暴な運転にも、隣に大柄なフェリペが座るせいで圧迫されていることにも文官は文句を付ける。彼女は「煩い!」と切り捨て取り合わない。
 隣家から住民達が出て来ている。セーフハウスは住宅街の奥にある。あまり幅のない道路を猛スピードで進むベンツに住民達は飛び退いていく。後部座席で警戒していたフェリペが声を張り上げる。
「追い掛けて来ました!」
 バックミラーとサイドミラーで助手席のセブが確認する。ナタリア達が使っていたカローラが迫ってきていた。車庫に置いていたのを殺し屋は見付けたのだろう。既にあの家のことは隣人達によって通報されているはずだ。緊急配備をされる前に待避したい。このカーチェイスのことも通報されているかも知れない。発砲のリスクが大き過ぎる。それは相手も同じのはずだ。
「このまま大使館に向かいます」
 ナタリアの言葉に文官は怒鳴り返す。
「そんなことをしたらこの国での活動が全て終わるではないか! お前達の体たらくで私の任務を、」
「フェリペ」
 ナタリアの言わんとすることを理解してフェリペは文官の顔に拳を叩き込む。文官は一撃で気絶した。車内が静かになったところで車は幹線道路へ出た。殺し屋のカローラはまだついてくる。道路は不自然なほど空いていた。車を飛ばしながらナタリアは不審に思う。その次の瞬間に銃弾が飛んできた。断続的な銃声と共に飛んできた銃弾はベンツのサイドミラーに掠っただけだった。
 非常識な殺し屋にナタリアは部下に応戦を許可した。喜んで大男二人は拳銃の遊底を引いた。フェリペは気絶している文官の頭を下げさせて一応の安全を確保する。パパッ、パパッ、と短い発砲音はまだ続いている。腕が悪いのか、殺し屋は外してばかりだった。
「下手クソめ、手本を見せてやる」
 セブは助手席の窓を開け、腕だけ出して発砲する。バックミラーだけで位置を確認したセブが撃った銃弾はカローラの車体に穴を空けた。一瞬、カローラの追撃が緩まったがやはりまたアクセルを踏んで迫ってくる。再度短い銃声がしてベンツのバックフロントが割れる。フェリペは咄嗟に頭を下げたので割れたガラスを被る程度で済んだ。彼も頭を下げたまま追ってくる殺し屋に向かって撃つ。ナタリアはアクセルを踏む足を緩めない。
 セブは再度照準を定める。今度は助手席から身を乗り出して。フェリペが撃ち続けて殺し屋に銃を撃たせない。セブは照星を殺し屋が運転するカローラの前輪に合わせた。そして三発の銃声の後、追跡車の左前輪が破裂した。バーストしたタイヤにハンドルを取られたのか、殺し屋の車は大きく左右に振れてそのまま対向車線へと向かっていって中央分離帯に激突する。猛スピードで走っていた車の勢いは止まらず、縦に回転して虫の死骸のようにひっくり返った。カローラはけたたましい音と共に路上に叩き付けられた。
「相変わらず良い腕ね」
 ナタリアが部下を褒める。フェリペとセブは体勢を変えずに後方の警戒を続けた。徐々に遠く小さくなっていくカローラが見える。その助手席側のドアが拉げて、外れた。中から殺し屋がのそのそと這い出てくる。立ち上がった殺し屋はずっとベンツを見ている。そして彼の姿は見えなくなる。
「アイツ、まだ生きてます」
 フェリペの報告にナタリアは舌打ちした。今すぐ引き返して轢き殺してやりたいところだが、文官を守るのが優先事項だ。彼女は仕方なく大使館へと進み続ける。
 程無くして進行方向に赤色灯の光が見えた。パトカーだ。緊急配備されたのかとナタリアはアクセルを漸く緩める。夜の幹線道路。追っ手を振り払うのに必死で意識が逸れていたが、不自然な程に車の往来が無い。この時間帯に走っている車が自分達一台だけというのは変だ。
「ナタリア?」
 セブが不審そうに彼女を呼ぶ。ナタリアは左折して脇道に入った。脇道の歩道も誰一人歩いていない。無人だった。
「何かがおかしい」
 そう呟く上官にセブとフェリペは緊張する。
「セブ、一番近いメトロの駅を調べて。フェリペは大使を起こしなさい。車は捨てていくわ」
「何か危険でも?」
「まさかとは思うけれど・・・・・・この道路を走ることが敵に想定されていたのかも知れないと思って」
 「敵に追い込まれたのかも知れないわ」とナタリアは言う。部下達はその言葉を信じた。セブはスマートフォンで見付けた数百メートル先の地下鉄を彼女に教える。フェリペも文官を揺さぶって目覚めさせた。
 地下鉄駅の案内が見えたところでナタリアは車を路肩に駐める。痛みによって気絶して、覚醒後も混乱している文官を引き摺るようにして彼等は地下鉄の改札へと続く階段を降りていった。プラットフォームまで来ると疎らにも人の姿があり、アナウンスも流れていた。民間人の姿を見て漸くナタリアの不安が和らいだ。人があまり並んでいない辺りまで行く。幸い、大使館の最寄り駅まで一本で行けるようだった。
<間もなく、二番線に・・・・・・>
「電車が来ます。これに乗りましょう」
 アナウンスを聞いてナタリアは文官を促す。ホームに電車が入ってくる。周囲を警戒しながら彼等は乗り込んだ。乗客は少ない。文官が座ろうとするもナタリアに止められる。人の少ない車両に移ろうと彼女は進言する。仕方なく文官は彼女に従った。電車が走り出した。
 彼等は車両を移る。より乗客が少ない方へ。先頭車両へと進んでいく。大柄なフェリペ達を盾にするようにして文官は進む。ナタリアは彼の後ろを歩いていた。無人の3号車へと移ろうとしたところで背後を警戒していた彼女は、車両の奥にあの殺し屋が立っているのを見付けた。まだ少年のようにも見える彼はナタリアに向かって笑みを浮かべてひらひらと手を振った。
「奴が来たわよ!」
 ナタリアは前にいる部下達に叫ぶ。数人の乗客達は聞き慣れない異国の声に驚いて顔を上げているが構わない。フェリペとセブは文官を自分の背後に隠して車両の中を進んでいく。ナタリアは拳銃を抜いて彼に向けたまま後退りする。殺し屋はのんびりとした足取りで彼女達を追ってくる。
「何をしてる!? さっさと撃たんか!」
 文官が喚く。「気楽に言ってくれる」と彼女は内心悪態を吐く。3号車に移り、扉が閉まる。殺し屋は車両の中程に立っている。大使館までの最寄り駅に停まるのはまだずっと先だ。あと数分もすれば次の停車駅に停まる。その時に襲ってくるのか、それとも今なのか。ナタリアは扉の向こうにいる殺し屋の顔を睨み続ける。殺し屋も彼女を見ている。
 永遠に二人の視線が交わされるようにも思えたが、突然の暗闇によってそれは中断された。驚く彼等の耳にガラスの割れる音がする。乗客の短い悲鳴。それから誰かが倒れた音。気付いた時には既に手遅れで、短い停電から室内の灯りが灯った時にはセブが死体になって床に転がっていた。連結部と車両の間にある扉の窓に丸い穴が二つ開いていた。セブの頭部には弾痕があった。
 ナタリアは部下の死に気を取られていた。迫る殺し屋に気付いたのはフェリペだった。殺し屋が火の輪潜りのように扉の小さな窓を破って3号車に飛び込んでくる。殺し屋は着地しその足で飛ぶように彼等と距離を詰めてくる。大きな牛刀に似たナイフの刃が閃くのを、ナタリアは視界の端で見ていた。
 冷たい光を反射する刃が空気を裂く音と共に回る。刃渡り20㎝以上あるナイフの刃と柄の境には輪があった。其処に指を通して殺し屋がナイフを回す。フィンガーループナイフ。刃の比重が重い。遠心力を利用すれば見た目以上の威力が出る。ナタリアにとってそれを避けることは容易い。だが自分の背後にいる文官は違う。瞬時に判断して彼女は銃を構え直す。だが振り下ろされるナイフが彼女の利き腕に振り下ろされるほうが、引き金を引くよりも早いところにある。殺し屋の異様な強さの腕力をナタリアは既に見ている。銃を握っている自分の腕はあとコンマ数秒で切り飛ばされるだろう。フェリペの射線に自分と文官と殺し屋が並んでいるはずなので文官に体当たりするように飛び退いて彼に始末させる。腕が切り落とされるのは仕方が無いことだ。
 刹那の間に思考を済ませたナタリアは文官ごと飛び退こうとする。殺し屋は彼女の顔をじっと見詰めている。一秒たりとも変化していく獲物の表情を見逃さないように。
「[ナタリア]」
 殺し屋がボリスの声で彼女の名を呼ぶ。鸚鵡のようだ、と彼女は頭の片隅で思った。
「ナタリア!」
 フェリペが既の所で彼女の前に飛び出し、銃身でナイフの刃を弾いた。ナタリアが間髪入れずに発砲する。殺し屋は自身に向かってくる銃弾をナイフで弾いた。
「化け物かよ!」
 フェリペが驚きながら撃つ。文官を連れてナタリアは先頭車両を目指す。背後の銃撃と、その弾を弾く音が響いている。次の停車駅にはまだ着かない。2号車へと移り、扉を閉めたところで赤い奔流が窓の向こうに見えた。フェリペが首を切られて、頸動脈から血を噴き出していた。彼は膝から崩れ落ち、床に倒れる。返り血で顔を汚した殺し屋がナタリアを見ている。腰に差していたらしい、消音器を着けた拳銃を抜いて、ゆっくりと近付いてくる。
<まもなく・・・・・・>
 車内アナウンスが聞こえる。もうすぐ電車が停まる。ナタリアは銃を構え続けている。殺し屋が駆ける。彼女は発砲する。窓のガラスが割れたものの、銃弾は躱された。タイミング悪く、弾が切れた。素早く弾倉を交換するが、既に殺し屋はナタリアと文官しかいない車両に入って来た。何の表情も浮かんでいない殺し屋は、ナタリアだけを見ている。電車のブレーキ音が響く。ナタリアは引き金を引いた。殺し屋はそれを容易く、低く横に飛んで避けた。
 持っていたナイフを放り、殺し屋が銃を向ける。ナタリアではなく、彼女の背後にいた文官に。気の抜けた発砲音がして文官の両膝が撃ち抜かれた。濁った悲鳴が上がる。ナタリアは怒りに叫びながら銃口を殺し屋へと向ける。だが既に殺し屋は間合いを詰めていた。
 ナタリアが持っていた銃を殺し屋は銃把で弾き飛ばす。そして空いている手を握り、彼女の鳩尾に鋭く打ち込んだ。ナタリアの呼吸が一瞬停まる。歯を食い縛って意識を保とうとしたが、殺し屋が彼女の顎を殴った。脳が揺れて意識がブラックアウトする。床に倒れたところで、電車が停まった。彼女は電車を降りることが出来なかった。
「[Come on, come on,come on, come on.Now touch me baby・・・・・・]」
 殺し屋が古い歌を口遊んでいるのが聞こえる。







「[・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そしたら父親はこう言ったんだ。『いいから黙って穴を掘りなさい』ってな!]」
「[ギャーハハハハハハハハハハッ! 傑作だなそりゃ!]」
「[ウケる。お前が言わなきゃもっと面白かった]」
「[良いお話ね。もっと他にある? ジョークって興味深いわ]」
「[ワハハハハハッ! ハハ、ヒーッ! ヒヒ、し、死ぬ、笑い過ぎて死ぬ・・・・・・]」
「[ごめんちょっとよく分かんない。なに? なんでママが寝坊すると穴を掘るの?]」
「[ネタにマジレスすんなカス]」
「[ジョークより漫談のほうが好き。なんか無い?]」
「[サンドウィッチマンのDVD観ようよ]」
「[は? 東京03が最強なんだが?]」
「[モンティ・パイソン! モンティ・パイソン!]」
「[ねぇなんでも良いからさっさと始めない?]」
「[黄峻! おはようは?]」
「[コーヒー飲みたい]」
「[女の趣味マジで悪いよね~~! なんで小学生じゃないの?]」
「[死ねロリコン]」
「[大体みんな死んでるから安心しる]」
「[あまりにも草。大草原不可避]」
「[はーキモキモキモキモ! マジでクソオタクキモいんだけど!]」
「[ジョークがすごい勢いで消えていきましたね]」
「[飽きた~~~~! 飽き飽き飽き飽き飽きた~~~~!]」
「[早く始めよう]」
「[なーんでなんで。なんでなんで]」
「[幼児番組を始めるな]」
「[だって寂しいもの]」
「[ペルソナを作り上げる。自分の中に他人のペルソナを]」
「[黄峻、お前は兄貴に担がれてるんだよ。あのおまじないに意味は無い]」
「[自分以外の人間になりたい。自分じゃなければ誰でも良い]」
「[今から女を写し取る]」
「[彼は鸚鵡]」
「[女の子も男の人も良いよね。それぞれ壊せる場所が違うからどっちも好き]」
「[あれ好き。口にホース突っ込んで水飲ませるの]」
「[やっきごて! やっきごて!]」
「[歯ァ全部抜いたら今よりもっと可愛くなるよ]」
「[仲間は必要だ。この頭の中は檻なのだから]」
「[死ねよ黄峻、早く死ねよ]」
「[黄峻は誰にも知られたくない。誰にも理解されたくない]」
「[人の後ろに隠れるのはやめなさい]」
「[皆でお歌を歌いましょう]」
「[私は我が家を絞首台にした]」
「[人を殺すことだけが娯楽]」
「[静かに]」
 徐々に覚醒していく意識の内で、余りにも多くの声が聞こえたので、沢山の人がいるのだとナタリアは思った。瞼を開けると一人しかいなかった。その人影はただじっと、こちらを見ていた。
 あの小柄な日本人だ。自分の頭上に下がるペンダントライトが揺れていて、不安定な明かりが壁を照らしては暗くする。狭い部屋だった。壁の一面はポラロイドで撮られた写真で埋め尽くされている。もう一面には「3月」のA3サイズのカレンダー。文庫本が積み上げられて山のようになっている。自分の周囲に様々な工具が置かれたワゴンが幾つもあって、姿見もあった。自分の状況がよく見えた。肘掛けのある古い椅子に縛り付けられている。
 ナタリアには、自分の結末が分かった。あの並んだ工具は恐らく本来の使用目的以外で使われる。それは自身に使われる。彼女自身も見聞きし、実際にやったことがある。即ち、拷問だ。
 この道に生きる人間として、ナタリアは覚悟を決めた。腹を括った。
「・・・・・・私を拷問したところで、何も得られはしない。私は何も喋らない。絶対に」
 彼女の台詞を聞いて、日本人の少年は首を傾げた。そしてキツい南部訛りで話した。
「[わっかんねぇ~な~。よぉ、姉ちゃん。何言ってんだよ? 今から始まるのは単なる『お楽しみ』だぜ?]」
「お前、日本人のくせに変な英語を話すのね」
「[俺はテキサスのカウボーイなんだよ、ホントはな。マグナムがスゲーデカいカウボーイ]」
 目の前の日本人が何を話しているのか、ナタリアは意味が分からなかった。無表情で、低知能な台詞を吐いている。「何なのだ、この男は」と彼女は思った。
「[なんだよその顔は。面白くないぜ、笑えよ。今からお楽しみが始まるんだから]」
 日本人がネイルハンマーを手に取る。口笛のメロディは「星条旗」。ナタリアの困惑は深まっていく。彼女は問うた。
「お前は、一体何がしたい? 何処の誰なの?」
 口笛が止まった。低い位置に下がるペンダントライトを掴んで、日本人は自身の顔を照らした。印象の薄い造りの顔が白熱の光によって現れる。先程とは打って変わって、機械的な英語で日本人は話した。彼の右目が、かちり、と外側を向いてまたナタリアへと向けられた。
「[誰が、良い? 誰にでも、なれる。誰が、良い?]」
「は?」
 自分の目の前に立っている少年が何なのか、ナタリアには理解出来なかった。先程の軽口を叩いていたものは全く違う。まるで別人のようだった。
 かちり、とまた右目が動いた。彼女の母国の言葉が聞こえた。
「[お前は今から死ぬ。黄峻に拷問されて死ぬ。きっと凄く痛い]」
「ほざけ。私は祖国に誓って、何も喋らないわ」
 かちり、と右目が動いた。スコットランド訛りがある英語を話した。
「[違う。違う違う違う違う。黄峻はお前に情報など求めてはいない。馬鹿な女め]」
 かちり、と右目が動いた。今度は美しいクイーン・イングリッシュで話した。
「[可哀想に。無意味に死ぬんだよ]」
 かちり、かちり、と右目が動く。日本語が虚ろな響きを伴って聞こえる。
「[静かに]」
 日本人は電灯を離す。振り子のように電灯は慣性に従って揺れる。ナタリアの心は恐怖によって震える。得体の知れない何かに殺されるのは恐ろしかった。
「・・・・・・・・・・・・私を、殺して、どうするつもり?」
 ナタリアの問いにまた彼の右目がかちりと動いた。
「[殺すのは、一ヶ月後。死ぬまで俺とお喋りするんだ]」
 こっそりと遊びの計画を打ち明けるように彼は言った。
「[人生を凝縮した一ヶ月にしよう。俺はお前になりたい。お前が気に入った]」
 日本人がナタリアの顔を見詰めながら、スマートフォンで何処かに電話を掛け始めた。電話の相手は若い日本人の女らしい。唐突に彼は話を切り出した。
「[今からハネムーンなんだ、気を遣ってくれよ。お嬢ちゃん]」
 電話の相手が溜息を吐いているようだった。
「[じゃあまた連絡する]」
 それだけ告げて、彼は通話を切った。スマートフォンをポケットに入れると壁際の物書き机に近付いた。「さて」と日本人が真新しい文庫本を手にして戻ってきた。開かれた中は白紙だった。記録を付けるためのものなのだと、ナタリアには分かった。
「[お前がどんな風に命乞いをするのか、とても楽しみだよ]」










 晴天の真昼。爽やかな秋の風が吹いている。飲食店やカフェが立ち並ぶ通り。小さなトラットリア。ランチタイムのせいでほぼ満席だった。出入り口の横にテラス席が設けられている。その端の席でヒバリがコーヒーを飲みながらスマートフォンを見ていた。彼女は俺と待ち合わせをしていた。
 俺は急いだ。出来る限り。なにしろ口に銜えた煙草をまだ吸い切っていないし、スカジャンのポケットから手を出す気にならない。今日が初めての「運転」なのだ。走って転んだらダサいだろ。
「どうでも良いわ、ニック。急いで」
 おっ、アンタが「ナタリア」か。元気そうで何より。変な感じだな、耳のすぐ後ろでお前の声がする。サトも同じことを考えてたのかもな。そりゃ潰れるワケだぜ。気持ち悪いもんな、こんな「天の声」。
 この体を動かすのは俺だが、喋るのはナタリア。ナタリアはこの体の指一本でさえ動かせないし、俺は声を一言も発することが出来ない。やろうと思えば出来るのだろうが、恐らく黄峻は許さないだろう。
「何故、彼はこんなやり方をするのかしら? 理解に苦しむわ」
 アイツは他人に理解されたくないんだ。言動や思考が不一致の人間を誰が理解出来る? 「俺自身」にも分からない。今こうして思考している俺は「俺自身」なのか? それとも「ナタリア」なのか? もしかしたらどちらでもないのか? そもそも、異常者を理解しようとするなよ、ナタリア。理解すると「単なる形態模写」から「黄峻の一人格」になっちまうぜ。自分が死んだ人間だったってことを忘れて好き勝手にやりたくなる。もう一度、人生ってヤツをやってみたくなる。俺やサトや、他の連中みたいにな。
「こんなやり方じゃ手間が多過ぎる」
 なら黄峻にそう進言しろ。それと一つ忠告するが、誰かと話す時は口調に気を付けたほうが良いぜ。このナリでそんな話し方したらギョッとされちまう。驚いた相手は次にこう言うんだ。「ニューハーフの芸人を呼んだのは誰だ?」ってな。
「ニック、思うのだけれど。貴方は少し喋り過ぎよ。煩くて敵わない」
 そりゃ失礼しました、ナタリアお嬢ちゃん。
 俺は煙草を吸い終え、路上に吐き捨ててからヒバリのいるテラス席へと近付いた。ヒバリは俺達に気付いて顔を上げた。
「今日はコートを着ていないのね」
 俺の格好を見て彼女は言う。俺の服のセンスは気に入らないのだろうか。丁度死ぬ時に着ていた格好だから少し時代遅れかも知れないが、ヤンキースのキャップにパーカー、ジーンズ。スカジャンという組み合わせはそこら辺にいる日本人のガキっぽいと思うのだが。
 向かいの席を勧められたので大人しく座る。ギャルソンがやって来て俺にメニューを渡してきた。アメリカンコーヒーを頼もうと思ったのに、ナタリアが先に頼んだ。
「ソーダ。氷無しで」
 ギャルソンは一礼して引っ込む。あんな注文で分かんのか? スゲーな、俺だったら痰を入れた水を出すぜ。
「このお店、ランチプレートが有名なの。頼む?」
 ヒバリはコーヒーを一口飲んで言う。それをナタリアは「結構だ」と断った。軍人みたいな話し方だ。俺より日本語上手いな、ナタリア。
「それより、この前の仕事についてだが」
「ああ、それについては謝罪します。発案は私の上司だけれど」
 ヒバリは「貴方に対するペナルティとしてね」と言った。ペナルティね。俺の嫌いな言葉だ。俺は好き勝手に生きていたい。
「ペナルティ?」
 ナタリアが訊ね返すとヒバリは嘆息する。
「貴方は獲物で遊ぶところがある。好きにすれば良い。でもこの前のは相手が悪かった。一歩間違えば全員取り逃がしていたかも知れない」
 ナタリアは黙る。
 そうだったな、ナタリア。その時に死んだのは「お前」だった。愉快な小人達と共に。
 俺を無視してナタリアは言う。
「作戦の難易度が上がったことへのペナルティか」
「別に、全員を始末するのは貴方抜きでも出来た。でも情報漏洩の危険性を高める行為は容認出来ないから、二度としないように」
 ヒバリは上司の考えた作戦を俺達に話した。
「上長の作戦では一人ずつ釣っていくものだった。まずは外回り、次に内勤と指揮官、最後に本命。上長曰く『大人しく床に落ちたパン屑をつついているだけで満足していれば良かったのに、テーブルに乗ってこようとする行儀の悪さが良くない』。大した被害が無いからスパイ活動を放置しているだけなのに。この国の防諜って、基本放し飼いなのよね。当たり障りのない餌を食わせて満足させておく。面倒だものね」
 ナタリアが溜息を吐いた。そりゃそうだ。自分達は単に野放しされてたなんて分かったら誰だってやるせない気分になる。彼女の注文したソーダが運ばれて来た。ナタリアのために俺は口をつけた。
 ヒバリは呆れた視線を俺に向ける。黄峻の頭がゴチャゴチャになってる時に仕事するの、今度から止めたほうが良いんじゃないかこれは。
「貴方は上長の計画を滅茶苦茶にしてしまった。だから貴方のことを囮にすることにした。それから超特急で周囲一帯の封鎖をして、適当なところに追い込んで始末する。すごい労力。ホント、二度目は無いからね」
「それは、すまないことをした」
 ナタリアの謝罪が面白くてついニヤニヤしてしまう。自分が殺される算段を聞かされてるってのに、なんだそりゃ。
 ヒバリが「報酬よ」と言って分厚い茶封筒を渡してきた。受け取って中身を確認する。なんだ、額が足りないんじゃないのか?
「命令違反をしたとは言え、報酬が少ないのではないか?」
 ナタリアが言うとヒバリは片眉を持ち上げる。
「後始末に使った分を天引きしてある。それくらい当然じゃない?」
 俺は舌打ちする。ケチ臭いな。それくらいそっちで持ってくれたら良いだろうが。
 どうやら俺の態度はヒバリに気に入られていないらしい。彼女の視線が俺の顔に突き刺さっている。そう熱い視線を向けないでくれ。俺はハリウッドスターじゃないんだぜ?
 ナタリアは俺を無視してヒバリに話し掛けた。
「何か、言いたげだな?」
 コーヒーカップを撫でるヒバリは、まるで余命宣告を受けた知り合いのことでも話すような口調で話し出した。
「・・・・・・上長に、貴方のことを訊ねた。そしたら映画を勧められたの。『カメレオンマン』という随分昔の映画。観たことある?」
「いや」
 ウディ・アレンの映画だよな、確か。俺も観たことは無い。俺達の誰かに映画好きがいたから、ソイツは多分観たことがある。
 ヒバリはカップの縁をなぞりながら続けた。
「上長は主人公のゼリグが貴方の本質だ、と。ゼリグが周囲に過剰に適応するように、貴方は他人に成り切って生きている。貴方の場合はかなり利己的だけど。他人の尊厳と人格を奪うのが愉しい、というのが正しいのかも知れない。服でも着替えるみたいに、貴方は人格を切り換える。服みたいにね。着ている服に飽きたのか、服が擦り切れたから捨てるのか、どちらかなのかは分からない」
 ヒバリはコーヒーを一口飲んで「全部上長の受け売りだけど」と注釈を付ける。
 この女の上司に黄峻は随分買い被られているらしい。だが黄峻はプロファイルされることが大嫌いだということは分からなかったらしい。他人にあれこれ詮索されて、こうして「輪郭」を浮かび上がらせられることを、黄峻は大いに嫌う。
「プロファイルされるのは嫌いだ」
 ナタリアはそう答えて、ウェイターの運んできたソーダを飲む。黄峻のための解答だ。俺やサト、それに他の連中達にはもう出来ない解答。俺達は、もう俺達のことしか考えられない。自分を「自分」としか認識出来ない。俺達は最初、単なる「猿真似」のはずだったのに。俺達と黄峻の境界が曖昧になって、最後は溶けていくんだ。それが凄く怖いんだ。笑っちまうほどに。
 俺の自我は? 俺の人格は? それは俺のものなのか? 俺は此処に存在しているか? 俺が「俺」だということを、誰が証明する? アンタは答えられるか、ナタリア?
「貴方は誰?」
 ニック・コンクリンだよ、お嬢さん。
「国定黄峻。寺の三男坊に生まれると変な名前を付けられる」
 ナタリアはきちんと言うべき台詞を口にする。ヒバリは質問を変える。
「私が今、話している貴方は誰?」
 だから、ニックさ。皆の人気者、世間の爪弾き者、アウトローを殺すカウボーイ。
「ナタリア」
 ナタリアは自分の名前を告げた。
 [国定黄峻。]
 黄峻が答える。寝てろよ臆病者。お前は俺達の後ろに隠れてるのがお似合いだ。
 ヒバリは肩を竦める。
「なんだか貴方と話していると、表情と話し方が合致しないせいで他にも誰かいるんじゃないかって気分になるわ」
 そうとも、俺達はいつだって三者三様。基本の形。一つの体に三つの頭。気味が悪くて良いだろう?















終幕



登場人物紹介


国定 黄峻(くにさだ おうしゅん)
・「お前はこういうヤツだろ」と言われるのがイヤなタイプ。分析されるのも決めつけられるのもイヤ。通信簿ってクソだよね。
・肉体年齢で言えば二十代前半
・寺の三男坊。一番上の兄のことは「セキショウ」って呼び捨てにするし二番目の兄のことは「兄ちゃん」と呼ぶ。妹だか姉だか分からない姉妹のことは「ろーちゃん」と呼ぶ。
・元々の性格がマトモなのかと言われたら「猫ちゃんとかワンちゃんを虐待するなんて酷いヤツだ!」と言って相手を殺せば理解を得られると思ってる辺り駄目な馬鹿。
・ちなみに二番目の兄に「『自分』を見せたくないならその内側に隠れなさい」というお呪いを教わったが、兄は「精神異常者になれば有罪にはならないから」ということしか考えていなかった。


・一番上の兄について


・二番目の兄について



佐藤 浩史(サト)
・頑張って体を運転してたけど耐久値がゼロになったのでリストラされた。これ以上余計なことされたらたまんねぇもんな!
・生前は主に子持ちの主婦をナイフで刺殺するのが趣味だった。
・最期の言葉は「ごめんなさい」。

ニック・コンクリン(ニック)
・元気なアメ公。すっげーお喋りなので大体皆に嫌われている。妻子がいた(黄峻が始末済)。
・生前はヒッチハイカーを轢き殺すのが趣味だった。あと射殺。相手は誰でも良い。
・最期の言葉は「絶対に殺してやる」。

某国の現場工作員指揮官(ナタリア)
・苦労性のOL、というより施工管理職。上司にあまり恵まれない。日本はしゃぶしゃぶが美味しい国。週2で部下としゃぶしゃぶやってた。
・生前は現場管理をしていた。銃もナイフも毒物も使えるし人に指示を出すのも出来る。黄峻はナタリアのそういうところが好きになった。
・最期の言葉は「おかあさん」。

戸張 戸破(とばり ひばり)
・上長から連絡係を仰せつかったもののこの様である。
・ヒバリも暗殺者ではあるものの、黄峻達のような深海魚に近い異質な異常者とは違うのでギャップに戸惑ってる。
・上長に別の手当を出してもらいたい。

Valérian Richard Bérenger Loïc Lacoste(ヴァレリアン)
・俺が考えた最強の萌えキャラ。タッパと声のデカい美人。名前は偽名。人間をフルパワーで殴ると殴られた人間はガラケーみたいに二つ折りになる。
・芸術、特に料理が大好き。人間も大好き。人間もジビエにカウントしてる。
・「du Anaye」はレストランであり傭兵部隊。八人の愉快な部下達と毎日楽しく働いている。

次回(書くとしたら)
黄峻とヴァレリアン率いる傭兵部隊「du Anaye」との初邂逅回。



BGM


Coast to Coast(feat.漢,般若)/DJ BAKU
Feel Good Inc/ゴリラズ
Out of control/MAN WITH A MISSION×Zebrahead
シンクロニシカ/ポルカドットスティングレイ
DIE meets HARD/凛として時雨
神様、仏様/椎名林檎
ぬえの鳴く夜は/Creepy Nuts
Doctor/Chanmina
TOXIC BOY/米津玄師
ゴーゴー幽霊船/米津玄師
オルターエゴ/初音ミク
夢見る隣人は眠らない/初音ミク
復讐/東京事変
Touch Me/The Doors
Welcome To The Horror Show/Hibria

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