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音楽レッスンが、ものの見方を変えたなあという話(学校教育編)

【ジャズトランペッター 原朋直先生のレッスンを4年ほど受けてきて、変化した心境とかついて自分なりに書き出しています。】

前回書いた文章で、吹奏楽について少し書いた。
https://note.com/nickthewasabee/n/n155a658bc9ff

高校の頃は、先生の言う通り吹くのが正しいと思っていたし、その思想をずっともったまま生きていた。音楽もそうだが、例えば読書感想文なんかも同じだったと思う。

「嫌われる勇気」を書いた古賀史建氏は、学校での文章教育についてこんなふうに書いている。

自分の小中学校時代を振り返ってみても、”書く技術”らしきものを教わった記憶は皆無に等しい。作文の時間にはいつも「思ったとおりに書きなさい」「感じたままに書きなさい」と指導されてきた。

じゃあ、何も教わらない子どもたちは、どうやって文章を書いていくのか?
子どもたちが頼りにする基準は唯一つ、「先生の目」である

文章の書き方を指導するはずの作文が、いつの間にか”心の指導”にすりかわっている。(中略)そう、作文も読書感想文も、”書き方指導”ではなく、形を変えた”生活指導”になっていたのである。

-20歳の自分に受けさせたい文章講義  古賀史健 https://www.amazon.co.jp/dp/B08FR69RWM/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_xfu0FbB5CMWSS

振り返ってみれば高校にいた頃などは、「先生の言う通りやること」が正になっていたと思う。それそのものが悪いわけではない。最初は手本が必要だろう。指導する人がいなければ怠惰に流されることも多いと思う。

だが、現在受けている音楽レッスンは、これとは全く異なったスタイルが展開されている。

例えばこんな具合である。

■教えられることは基本「参考」だったり「こうするのがおすすめ」である。(命令ではない)
「こうしなければならない」「これをやっちゃダメ」ということは無い。
■何をやってもいい、しかし、基本がわかってから色々やってみたら良いと思う(おすすめ)。
■「先生」という立場は、一方的に教えるというよりも、先を走っている先輩のような立場。
「自分自身が」いいなと思うものを求めるのが大切。
■とにかく音楽は時間がかかかるので、ノンビリやってください。

この雰囲気でレッスンをしばらく受けていると、思考に様々な変化が訪れる。


1.他人の価値観に準拠して音楽やることを捉えていた自分に気づく。


レッスン受けたての頃は「うわー、私下手くそではずかしいなぁでもとにかく吹かなきゃ」と思って吹くわけである。実際スケールの音も外すし音楽になってなかったり、伴奏の音があるからなんとなく音楽の雰囲気が流れているみたいな感じになる。

しかし、それを否定されることがない。じっと聴いてくれる。
「あっ、下手だけど、下手だと吹いちゃダメってことじゃないんだな
って気分になれる。(もちろんレッスンだからだろうが)

とにかく初歩段階では、躊躇せずあるがままの音を出していくことが大事で、そこから課題や、こうなりたいってものを自分で見つけ出して、自分の生活の中で可能なペースで練習をしていくっていうのが理想なんだと思う。

特に、「うまく演奏する」のが目的なんじゃなく、「自分自身が良いなと思うものを作り出せるようになる」のが目的なのであれば、自分と向き合ったり思考したりする時間がとても大切なんだろう。

むしろ、自分に向き合う時間や体験そのものがアートだろうと、今は思っている。数年前では到底そんな思考には及ばなかった。

ここまで体験すると、「以前は人にこんなふうに(例えば演奏がうまいとか)思われたいという考えだけで、吹いていたナァ」という自分に気づくのである。


2.自分の感性とかペースを大事にしても良いんだな、と気づく。

これは第1番目とと似ているが、実生活の中で楽器演奏を取り入れる際には重要な思考なんじゃないかと思う。

例えば会社や学校では、常に締め切りがあったり定期テストがあって、時間通りに成果を発揮することを求められる。もちろんこれは音楽でもプロには絶対必要な要素だろう。

ただ、レッスンでは「ものすごく時間がかかるので、のんびりやりましょう」ということをよくお話される。これも当初は「ふーん」と思って聴いていたが、しばらくレッスンを受け続けていると、なんとなく理由がわかってくる。

作曲部分、つまりアドリブを行うにあたってスケール通り吹くとか、コードトーンを当てるということは技術的な要素が強いので、ある程度訓練すると「それなりに」できるようになると思う。

しかし、「自分がいいと思うものを作る」というのは、これとは全く別次元の話である。

自分が「いいな」と思うものをまずは見つければ良いのだが、反応するものを見つけた上で、どうして「いいな」と思うのか?どういう構造になっているのか?何回も聞き直したり、ちょろちょろと鍵盤に触ってみたりして、何が、どうして、「いい」のかを解析するだけでもマジで一苦労である。まして脳が和声とかスケールとかに慣れていない状態ではなおさらである。

ここで、時間を決めて成果を出さなければならないとなると、どうなるだろうか?おそらく時間切れが気になってしまうと思う。何が「いい」のかがおざなりになるだろう。

やっぱりプロはスゴイ。アーティスト本人や、作詞編曲家、プロデューサーの方々は、時間通りに成果も出しながら良いところも引き出している。

と思うと同時に、私の場合、食い扶持は別にあるんだから、仕事ではそれなりに締め切りを守ってちゃんとしつつも、音楽はノンビリやれることを幸運に思って好きな分だけ自分のペースでやればいいっていうのは恵まれてると思う。

疲れてパッと手放したいときにかんたんに手放せると思っているから、さっと気軽に練習できる。これが私のペースで、やり始めるまでのハードルをいかに低くするか?が自分にとって重要だと気づいて、その環境を構築した。そういうことも自分のペースでできるし、それで良いんだと思う。
(少なくとも今は。)

他人の目と自分の価値観のハザマで


親と一緒の時は親の目、学校にいれば教師の目、親から離れたあとでも、会社にいれば人事評価権限を持っている上司の目、それ以外のときでも、「他人の目」とか「他人の価値観」にはどうしても干渉を受けると思う。

ある程度は他人の目をきにしないといけないのは人間社会のメンドクサイところではあるが、おかげで会社で給与を与えられて平和に暮らせるというものだろう。

従ってこのメンドクササにうまく順応したほうが比較的少ない気苦労で生活に必要な糧を得ることができ、子孫を残すなど基本的生存には適しているのだろうと思う。中にはそんな壁をぶち破って様々な手段で稼いで生きてる人もいるが、少数派だろう。

学校にいた頃は、この「他人の目」がめんどくさくって仕方がなかった。

15-17歳位の青年にとってヘアスタイルというのは、他人からどういうふうに見られているか?という不安を結晶化して具現化したものだ。私は高校生の頃ストレートパーマをあてて2ブロックにしていた生意気なガキンチョだった。

そんな思春期の青年がどうトチ狂ったのか、ある日思い立って友人と一緒に坊主頭にしたことがある。なんだか鬱々とした気持ちがあったような覚えがあるが、詳しくは忘れた。

坊主頭は、本当に心地よかった。

何しろ他人からどう見られるかを気にして髪をいじらなくても良いのである。「俺は坊主だぜ。他にはなにもないぜ。」と裸の自分で開き直るのがこんなに良いものだと思わなかった。以後、心に迷いが生じると坊主にする癖がついた。お坊さんが坊主にする理由がよくわかった。髪の毛はまさに煩悩の塊なのだ。

話を戻すと、私が経験した高校までの学校は基本的には「先生の言うことを聞く人」「ちゃんと勉強して定期テストでいいスコアを残せる人」「志望大学へ向けた偏差値を叩き出せる人」が優れた人とみなされていたし、それを目指さなきゃと思っていた。

おそらくそうやって、与えられた指標へ自分をアジャストし行動できることが、社会で生存する上では「一般的には」適しているからだろう。教員たちも経験則的・世の中の空気的にそれが当たり前だと思っていたと思う。

それに従って学校生活を送り、吹奏楽をやって、特に部活では先生の言うことを聞きながら吹いてきた。

こうして結構他人の目を気にしていた私だし、音楽も同様に人の価値観をものすごく気にしていた。

レッスンを受けてしばらくしたら、音楽をやるときだけはあんまり他人を気にしないようにしようという思考に変化した。今は一人で黙々と吹いているから他人の存在が無いのもある。それが心地いい。

セッションとかに出かければ他人と混ざりつつ他人の目を気にする必要も出てくるだろう。そのときには、どんな気持ちの変化が起こるのかな。

などと思う今日この頃である。

おしまい

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