見出し画像

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(2)

祈祷というのは、理に凝り固まることは宜しくない。なぜならば、その顕が現れることに大切なことは、「信」であるからである。この頁で引用した文章の他にも「されば法華経に来て信ぜしかば、永不成仏ようふじょうぶつの名を削って、華光如来けこうにょらいとなり。嬰児えいじに乳をふくむるに、の味をしらずといへども、自然にの身を生長す。医師が病者に薬を与うるに、病者、薬の根源をしらずといへども、服すれば任運にんうん病愈やまいいゆ」『聖愚問答鈔』とあるが、あれこれ理の理解よりも法華経功徳を授与いただくことに必要なことは、「信じること」が先に来なければならないのことを念頭におかれたい。合掌礼拝


🔸 元品の無明を切る大利剣

教主釈尊の最高真実たる妙法の教え法華経、この教えを信じて南無妙法蓮華経をお唱えし帰依をする事もまた大利剣となることは、日蓮宗の教義としているところでもある。これについては日蓮宗の教義の事や法華経についてXで投稿してあるので、『日蓮宗宗義大綱』や『法華経ポスト』をご覧いただけるととてもありがたい。(Noteにも今後、転載していきたい。)

さて、なぜ「剣」「利剣」でなければならないのか、楊枝や杖でも良いのでは無いかと言う考えもあるだろう。ここで少し日蓮宗法華が扱う「木剣」についてそのあり方の理念を考察したい。
次にあげる御遺文は、真筆の確認がないが、理が書かれている内容であるので、考察の参考としたい。真蹟が無いため要句だけでは考察が不十分になるため、引用が少し長いが、大切な事なので記載する。

聖愚しょうぐ問答鈔もんどうしょう』(下)

聖人しょうにんいわく、の理、つまびらかならん上は文をたずねるに及ばざるしかれどもこいしたがってこれしめさん、法華経第八陀羅尼だらにほんいわく、❶汝等なんだちただく法華の名を受持じゅじせん者を擁護おうごせん福、はかるべからず。此の文のこころは、仏、鬼子母神きしぼじん十羅刹女じゅうらせつにょの法華経の行者を守らんと誓いたもうをむるとして、汝等なんだち、法華の首題しゅだいを持つ人を守るべしと誓う。の功徳は三世さんぜ了達りょうだつの仏の智慧も尚、及びがたしと説かれたり。
仏智の及ばぬ事何かあるべき。
なれども法華の題名だいみょう受持じゅじ功徳くどくばかりはれを知らずとべたり。法華一部の功徳はただ妙法等の五字のうちこもれり。一部八巻文文もんもんごとに、二十八品にじゅうはっぽん旨趣ししゅかは変われども、首題の五字は同等也。譬えば日本の二字の中に六十余州よしゅう島二しまふたつ入らぬ国やあるべき、こもらぬぐんやあるべき。
飛鳥ひちょうべば、空をかける者と知り、走獣そうじゅういへ言えば地をはしる者と心る。一切名いっさいなの大切なる事けだってかくの如し。天台てんだい名詮自性句詮みょうせんじしょうくせん差別とも、名者大綱みょうしゃたいこうともはんずるいわれ也。❸また、名は物をめす徳あり、物は名に応ずるゆうあり。法華題名ほっけだいみょうの功徳もまたってかくの如し。

愚人云ぐにんいわく、聖人しょうにんことばごとくばまこと首題しゅだいこう莫大ばくだいなり。ただし知ると知らざるとの不同あり。われ弓箭きゅうせんたずさわり兵杖ひょうじょうむねとしていまだ仏法の真味意味や価値を知らず。しからば得る所の功徳、いかんれ深からんや。

聖人云しょうにんいわく、円頓えんどんの教理は初後しょご、全く不二ふじにして、初位しょい後位ごいの徳あり。一行いちぎょう一切行いっさいぎょうにして功徳の備わざるはこれ無し。なんじことばの如くば、功徳を知って植えずんば、かみ等覚とうがくよりしも名字みょうじいたるまで、得益とくやくさらにあるべからず。今の経は唯仏与仏ゆいぶつよぶつと談ずるゆえなり。

『聖愚問答鈔』定本番号=43/祖寿=44/文永2(1265)/真蹟=無し

❶汝等但能擁護受持法華名者福不可量
汝等なんだちただく法華の名を受持じゅじせん者を擁護おうごせん福、はかるべからず」

❶法華経には、「南無妙法蓮華経」の言葉は記載されていないが、「法華の名」と言うのは、妙法蓮華経である。この法華の名を唱え、その教えに帰依する「南無」の言葉を冠して「南無妙法蓮華経」となる。仏智にも理解のできないような事があっても、法華の名を唱えて帰依すれば、その功徳や、法華経に説かれた擁護や福の功徳が自ずと与えられ受けることができると言う教えがある。

飛鳥ひちょうべば、空をかける者と知り、走獣そうじゅういへ言えば地をはしる者と心る。一切名いっさいなの大切なる事けだってかくの如し。

❷鳥と聞けば、誰もが空を飛ぶ動物であることを理解できる。獣と聞けば、大地を懸ける動物であると理解ができる。いずれもこれらの言葉を聞いて、特に難しくあれこれ考える手間をとる事なく速やかに連想し理解ができるはずである。これも全てそのもの自体に名前があるという事の効果が現れている。

また、名は物をめす徳あり、物は名に応ずるゆうあり。法華題名ほっけだいみょうの功徳もまたってかくの如し。

❸ まさしく、この理は、物というものは、物は用途に応じ、またその名によって用途に応じる事を知ること(認識)ができるのである。


以上、3点をあげたが、これらの文章からもこうした理を学ぶことができる。
つまり、「杖」や「枝」ではなく、「剣」「利剣」の名からして、「切る」という事象を連想できると思うが、一方、「杖」や「枝」で切るということはなかなか思いつかないはずである。いわば、「元品の無明を切る」という「切る」ことに対して、この認識が弱いものを想像してしまうことで、不足が生じてしまう。
よって、「元品の無明を切る大利剣」というこの要句を信じ、誰もが強い想像を抱くことができる修法要具には「剣」がもっとも相応しいと言えるのである。

もの自体のあり方や名称によって、その用途的能力を作用させることができる

ここまで、何故、「剣」「利剣」でなければならないのかと言う考察を少しばかり簡単に行なってみたが、これらの事から木剣という名の法具を鑑みると、この木剣という名は、「切る」という理解を誰もが自然と認識できる物であり、「元品の無明を切る 大利剣 生死の長夜を照らす大燈明」というこの理の功徳を、実として自然に授与されるためとして、楊枝から利剣へと次第に変化していった事も明白なことではないであろうかと言える。

剣といえば、まず戦いの武器という連想もするだろう。

しかしながら、「木剣」には「木」という文字が入っており、木剣は殺生をするような物の剣ではなく、戒を破ることも無い、無垢清浄にして佛身、諸天、あらゆる善神の通力、善の精霊が宿るを念じ、心に観、感じられる法具にしてただの板ではない。ご本尊やお題目を認めたものは、その御真体そのものでもある。よってこの木剣は荒行を終えて聖体を体得した者でなければ、木剣修法を行うことが許されていない。このことが荒行を終えたものでなければ扱いを許されないとする最大の理由である。この事の詳細についての解説は、次の第④章で行うとする。

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(3)へつづく。
 次回、🔸木剣に何故、曼荼羅御本尊やお題目を書写するのか?


これまでの記事

①【日蓮宗のご祈祷の事】
🔸日蓮宗法華の修法意義とその起因

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(1)
🔸日蓮宗の木剣加持修法の正当性

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(2)
🔸 日蓮宗で広く使われているお札の形は木剣と同じ由来がある。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(3)
🔸 日蓮大聖人の祈り。仏教で行う祈りは、仏法の道理でもある。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(4)
🔸 普段から数珠を用いてご本尊、仏、法、僧の三宝の印相を僧侶に関わらなく檀信徒も示している。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(5)
🔸木剣修法の九字について

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(1)
🔸木剣とは何か?