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②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(5)

日蓮宗の九字は、「妙一」の字を示しているものである。
この事はすでに今、祈祷関係の書籍が出版されているものを見ると、他の修法師の手によって書かれ知られている通りである。
この「妙一」の字は、「妙法蓮華経序品第一」の事であり、また「妙法蓮華経最尊第一」「妙法蓮華経最勝第一」等々、釈尊一代聖教の最第一の教えが法華経の教えであり、このことを示している意味なのだが、妙法蓮華経の全ての功徳、お題目の功徳を顕す所作であって、この一文字、一音、一念に込められた力は、法華経の加護力をそのままに顕しているものである。

「波頭題目」 池上秀畝 画伯 『日蓮大聖人画帳』より 

日蓮大聖人が、佐渡御流配とせられた折に、島へ渡る船が難破しそうになる。その時、日蓮大聖人がかいで波にお題目を書写したためられた事によって佛天のご加護を頂き波が鎮まって乗船していた者達の命が全員救われたと言う霊験が今に伝わっている。その時に書かれたお題目が、現存する大聖人の数々の光明点のお題目(俗に言われるひげ題目)であると伝えている。これがそもそもの日蓮大聖人の加持祈祷でもあった。
この光明点のお題目について軽く触れるが、佐渡へ渡られる前から、すでに光明点のお題目につながる書体の原型はあったと見える。これは伊豆伊東の地頭であった伊東八郎左衛門の病気平癒の祈祷の際に一遍首題御本尊を授与された際のお題目の「経」や「蓮」の文字にその特徴を確認することができる。
修法師が行っている木剣加持祈祷は、大聖人が起こされた行動と同じく釈尊衆生救済の大慈大悲の御心に通じるものであると言える。

釈尊の「施無畏印(右手)」と「与願印」(左手)

釈尊、久遠本佛の慈悲は大光普照にして九界、万八千土を照らし衆生を憐み、救いの御手を差し伸べて下さるものである。我々は迷界たる九界に住む衆生ゆえに悩苦から逃れ難い。日蓮大聖人もこの九界と仏界の関連性の中に釈尊の衆生救済の原理を追究されたのである。仏界をいかに具足するかによって成仏の有無が論じられた。

この事は、『観心本尊抄』の

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足ぐそくす。我等われらこの五字を受持すれば自然じねんに|彼《か》の因果の功徳をゆずり与へたまふ

【現代語意味】
釈尊の因行の法、果徳の法は、すべて妙法蓮華経に具足している〟ということであって、凡夫の我々がこの妙法蓮華経の五字を受持(信奉)するならば、おのずからその因行と果徳との功徳を譲り与えられて、釈尊と同体の仏となるのである

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』定本番号=118/祖寿=52/文永10(1273)/著作地=佐渡 一谷/真蹟=中山 法華経寺/写本=日高筆 京都本法寺藏/真蹟現存(完存)

と教示されている。

この御心は「妙」の一字の中に九字を示す印相に凝縮されており、木剣が響かせる九字の響音は大光普照の如く功徳を巡らす佛音なのである。

日蓮宗では100日の荒行を終えた修法師と呼ばれる僧にのみ木剣修法が許される。

印相については少し前述したが、このNote版では、原文から要所と思える部分を抜粋して再構成しているため、印に関することを大分省いたが、印とは法の心であり、その印の心は、小乗仏教にもあり、三法印や四法印で知られる。天台大師智顗の教示は法華玄義に見ることができるが、その見解は小乗仏教の印は不要であると説き、大乗仏教ではただ諸法実相印のみであるとされた。この法華経は実相印であるが、その中の譬喩品に我此法印と説かれている。

我此法印 為欲利益 世間故説
の法印は 世間の利益せんと欲するをもってのゆえに説く

『妙法蓮華経譬喩品第三』鳩摩羅什三蔵訳

法華経における法印とは、一仏乗の事であると、望月海淑師の『法華経における法の使用例』で説明している。法印とは梵語でdharma-mudrā の事であり世間の利益のために説かれたということが明白であると説明している。
この利益とは一仏乗によって衆生を救済に至らしめることである事を意味したものであるが、釈尊は方便を用いてこの一仏乗(法の心=法印)に衆生を導いてきた。
祈祷そのものも、この娑婆世界で苦しむ衆生をこの法華経信仰に仏縁を実らせ、一仏乗へ導くためのものであり、修法で行われる九字の所作は、法華経の経文にあわせ読経し、妙一の文字を示したものである。これら修法九字の全ては、衆生を救済し導くために厳粛に行われている法儀式である。故に「法を修める」、「修法」ということなのである。

また日蓮大聖人の『開目抄』には、

法華経のごとくに先後の諸大乗経と相違そうい出来しゆつらいして、舎利弗等のもろもろの声聞・大菩薩・人天等に「まさに魔の仏とるにあらずや」とをもはれさせたもう大事にはあらず。しかるを華厳・法相・三論・真言・念仏等の翳眼えいがんの輩、彼々かれがれの経々と法華経とは同じとうちをもへるは、つたなき眼なるべし。

【現代語意味】法華経はその後のさまざまな大乗経典と大きな教理の違いを持っているために、舎利弗らもろもろの声聞・大菩薩や人・天(人間界と天上界)らが、「この法華経は実は魔が釈尊の姿となって現われて説いているのではないか」と大疑問を起こしたが、今述べていることはそのような重大な事ではない。ところが、華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗・念仏宗らのかすみ眼の人たちは、彼らが信奉するそれぞれの経典と法華経とは同じ内容であると思い込んでいる。まことに愚かな認識というほかないのである。

『開目抄』定本番号=98/祖寿=51/文永9(1272)/著作地=佐渡 塚原/真蹟=身延山(曽)真蹟曽存 明治8年焼失

この日蓮大聖人のお言葉によると、むしろ日蓮宗の祈祷、修法を亡国と称する者がいたとすれば、その者は法華経への信心が弱い(足りない)ことを更に実証しているようなものであるし、なんら華厳・法相・三論・真言・念仏等の翳眼の輩のつたなき眼とも変わらず、それよりもはるかに、つたなき眼であるという事になる。
「日蓮宗の祈祷は真言亡国」と狂乱して、法華経お題目の信仰者を謗るは大謗法の大罪人と言えるので心しておかねばならない事である。

合掌礼拝

次回、③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】に、つづく。
木剣について


目次

①【日蓮宗のご祈祷の事】

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(1)

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(2)

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(3)

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(4)