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「サッカー人生最終日に一番の悔しさ」四年 石井 俊吾

はじめに

こんにちわ。
市立船橋高校出身の石井俊吾です。
私は3年時全国優勝した強い代の市船(現在プロ6人)の中で入学時背番号2番を貰い、日大に入学してすぐAチームと少なからず期待されていたと思います。
これだけの期待にも関わらず、7年間で一度もAチームで試合に出たことのない「情けない人間」です。
今まで多くの人の期待を裏切ってきました。更に特に大怪我もなかった私は、この結果に言い訳はできません。正直、何もなし得ていない自分が語れる立場ではありませんが、15年間のサッカー人生の最後の1日に、1番悔しい思いをしたことについて書かせていただきます。

私の大学サッカー

私はプロという夢を持ち大学でサッカーを続けると決め、その為に関東リーグで活躍するという目標を持ち日大サッカー部に入部しました。
しかしほとんどの期間をBチームで過ごし、プロを目指しているとは到底恥ずかしくて言えない立ち位置でした。
それでも毎日1番にウォームアップを行い入念な準備をし、どんなに悪い評価を受けても4年間一度も腐らずに練習に励んだと自信を持って言えます。その為サッカーに対する想いは強かったと思います。
しかし時々チャンスを貰うもそれを活かせず、この繰り返しであっという間に2年が経ちました。
4年になり、プロは現実的ではないと思い、
「1分でもいいから関東リーグに出る姿を父に見せる」という目標に変わりました。
私が活躍していた中学生の頃までは、父はどんなに遠くても応援に駆けつけ、その晩に試合の会話をすることが日常でした。
しかし高校、大学になるとその機会が全く、家で自分のサッカーについての会話がなくなっていました。それと引き換えに市船の同級生達が毎週のようにJリーグで活躍するのをテレビで見ては、
「今日は誰が決めた、移籍した、代表に選ばれた」
など同級生の話ばかりになっていました。

そしてその会話の最後に
「お前はどうなの?」
とたまに聞かれることがあり、その都度
「今はBチームだけど、4年では必ずAチームにいけるから」
と苦し紛れの答えでその場を凌ぎ、ついには親からその質問すらもなくなっていました。
やはり結果で示すしかないと思い、より一層「父に関東リーグに出る姿を見せる」という想いが強くなりました。
しかし4年になっても現状は変わらず、練習は上手く行っても、評価に大きく関わる週末の練習試合では気持ちだけが焦って空回りし、BどころかCチームまで落ちていました。
ただ目標は全くブレることなく、Cチームの練習であっても誰よりも声を出し必死にプレーし続けました。

最後の4週間

1月のインカレ出場を控え、コロナの危機管理の理由から.Aチーム以外の大半の選手が11月いっぱいで今年度の活動を終え、それに伴い該当する4年の大半も引退しました。
しかし4年は最後の年ということで、関東リーグ最終節(12/19)まで残り、追加登録メンバーを目指しても良いという選択肢がありました。
インカレメンバーには入れず、最長でも12/19に引退が決まった私は川津監督に
「現状はCチームなので追加登録の可能性は1%かもしれませんが、可能性がある限り最後まで頑張ります」と直接伝えました。
私は卒業後留学に行く為、それにより4週間の英語のオンライン授業で単位を取る必要があり、その授業の期間が丁度この最後の4週間と重なってしまいました。
その授業が時差の関係で深夜に行われた為、この期間は毎日3時間睡眠で朝練に行きました。11月で引退していれば、もっと余裕のある生活ができましたが、父に関東リーグでプレーする姿を見せたいという想いが全くぶれることはなかった為、この選択ができたと思います。

そしてついに最終節を残した週始めに、残った4年生数人の中で唯一私が関東リーグに追加登録され、4年間の最後の週で最大のチャンスが巡ってきました。
4年間分の想いをぶつけようと思い、メンバー選考のかかった練習に励みましたが思うようにプレーができず、最終節前日の練習後メンバーが発表されました。
正直この週のプレーに手応えはありませんでしたが、追加登録までされたのだから情けでもメンバー入りできるのではないかという若干の期待がありました。
しかし結局メンバー入りすることができず、最終節を目前に引退が決まりました。

私はその場で涙が堪えられませんでした。
自分の力不足が招いた不甲斐なさ、
目標まであと一歩届かなかった悔しさ、
もう本気でサッカーできない寂しさなど
様々な感情が込み上げてきました。

自分でも泣くとは思ってはいませんでしたが、その時それほど真剣にサッカーしてきたと感じました。
最終節の後小田島コーチが「10数年ぶりのインカレを控えた中、下級生中心の今のチームは急成長しており、今後の日大サッカー部を発展させる大事な時期。どこかの試合で出してあげたい思いもあり、最後まで決断を迷ったが、酷ではあるが最終的にチームの成長をとった」と仰っており、悔しいですが納得できました。
ここ数年のAチームの成長スピードに、下のカテゴリーで目の前のことに一杯一杯だった自分の成長が追いつけず、無情にも最後の1週間の練習でそれが結果に出たと思います。
見かけ上では目標まであと一歩でしたが、本質的には遠かったと最後の最後に気づきました。
振り返ると関東リーグ基準で、単純なパス一本の質や、守備でもう一歩寄せれたかなど、細かいことを突き詰めることができず、その差がやがて取り返しのつかない大きな差になっていました。
また今Aチームはどんな戦術でどんな選手、プレーを求めているか、自分はAチームにどんな利益をもたらすかなど、常に関東リーグをイメージして練習できていませんでした。
「情けで1分でも良いから出る」という弱気な目標ではなく、「戦力として堂々とスタメンで活躍する」、強気な目標を最後まで貫けていれば、これらの取り組みも変わり、最終節のメンバーに入っていたかもしれません。
途中で目標設定が逃げ腰になり、関東リーグで活躍することまで見据えて練習に取り組むことができていなかった。ここに最後の選考の全てが詰まっていると感じました。

我ながら「目標に向かって最後まで諦めずに頑張ること」に関しては大学4年間を通してでき、私の強みだと思います。
一方でただ頑張るだけではダメで、常に目標のその先を見据えて行動することが大切であると学びました。ありきたりな結論だと思います。
ただ自分はこれが欠けていると痛感しました。

11月で引退していれば、
「15年間のサッカー人生最後の試合のメンバーに、あと一歩入れず泣いて引退」
という苦い引退をしていなかった思います。
しかし最後まで続けたことで、自分の弱さを身をもって知ることができました。

最終節前日、父に
「最終節はメンバーに入ったから見に来て」
とサプライズを用意していたはずなのに、
実際は「追加登録されたけど、最終節メンバーに入れなかったから今日で引退が決まった」
と言ったことが今までの人生で一番自分を恥じ、悔しかった瞬間でした。

ただ目標に最後まで諦めずに取り組んだことは事実なので、この大学4年間の自分、15年間サッカー打ち込んできた自分にお疲れ様と言いたいです。

次の目標は偉大な市船の同級生達よりも 活躍している姿を親に見せることです。

おそらくより難しい目標かもしれませんが、今度こそ必ず目に見える形で達成し、この悔しい経験が無駄ではなかったと思えるようにしたいです。

・石井 俊吾(いしい しゅんご)
・東京都出身
<経歴>
上北沢SC→FCトッカーノ→市立船橋高校→日本大学

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