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たまには私の日記を貼り付けてみる

2023/11/22

なんだかんだちょっとしたことで救われてしまって、また前を向いてしまっている。

それに素直に喜べないのが少し悲しいけれど、複雑な心を抱えたまま前に進んでいる大人がいることを知って、ひとりじゃないんだと思えた。

大人ってそういう感情を外に出さなかったり、話せる身近な人にだけ話して解消してしまっていて、歳下に見せてくれることが本当に少ない。

だからこそ、そういう悩んでいる気持ちも外に出せる大人は格好良いなと思うし、生きるってどういうことなのか教えてもらっている気がする。

私みたいに、みんなこうやって生きていくの?とかどうやって生きてるの?とか、お手本というか先人の教科書みたいなものが必要な子どもは少なからずいると思う。

特に現代では、近所のおじさんから話を聞くとか、近所のおばちゃんにちょっと怒られるとか、そういう大人との関わりがないから余計に生き方が分からない子どもは多い気がする。

私も例に漏れず、居酒屋とかにも行かないし、自分のことを話すのが苦手だから、ずっとひとりのままな気がしてしまう。、
必ずどこかに大丈夫だと言ってくれる大人がいて、私のために怒ってくれる大人がいて、困ってたら無条件に助けてくれる大人がいる。
それに気付いて素直に助けを求められるようになるのにも時間がかかるのかもしれないけれど、なるべく若いうちに沢山失敗して、自分で立ち直れるようになりたい。

年齢を重ねた時に転び方も起き上がれることも知っていたいと思う。、
今はまだ転ぶことを恥ずかしがって、転んでこそ得られる学びの機会すら逃して、いざ転んだ時には起き上がり方を知らない。もう一度歩き始める方法を知らない。

だからふとした衝撃にも弱いし、ほんの少しの傷を長引かせてしまう。

絆創膏すら自分で貼れない。

傷の癒やし方を知らない。

ひとつずつ、ひとつずつ経験して、学んでいくしかないのだろうけれど、渦中はやっぱり苦しい。

「孤独を知ってやっと人生、孤独の楽しみ方を知ってやっと人生も楽しめる」
こんな文言を見て、あぁなるほどなと思った。私より先に生きている人間はやっぱり強い。
孤独にめげない強さが格好いい。
孤独を乗り越えている背中が広くて遠い。、

歌でもsnsでも、先を生きる大人が、私がまだ言語化できない孤独を言語化しているのを見るたびに、ひとりじゃないって思える。
ひとりじゃないってものすごく心強い。

はじめましての感情に苦しめられることばかりで、はじめましてだからこそ孤独に感じてしまう。だから、誰かが同じように生きた時間があるだけで、私も乗り越えられる、まだ生きられる、ちゃんと終わりがあるって思える。それだけを救いに前を向ける。前は向けないけど、ほんの10cmだけ歩みを進められる。しゃがみ込みそうな心をどうにか立たせることができる。

ひとりぼっちって真っ暗で寒くてほんとにただただもう生きる必要なんてないって気持ちになる。先に希望もヒカリも見出せなくなる。
そんな時にふとそれが終わりのある暗闇だって教えてもらえて、その先で笑えるんだって見せてもらえて、私はまた生きてしまうんだなと思った。

ひとりだけど、全く知らない誰かに救われる。掬い出される。

自分で自分を飼い慣らすこともできないけれど、甘えてたっていいんじゃないかな。
もちろん限度はあるかもしれないけど、
ひたすらに甘えたい時は甘えてもいいんじゃないかな。
ありがとうって伝えれば助けてくれるんじゃないかな。
私はまだ生きていられるんじゃないかな。
生きている先に何か意味が生まれるんじゃないかな。、
何も生まれないのは何も行動してないからかもしれないよ。
生み出そうとすれば何かは必ず生まれるのかもしれない。

耐えれば必ず明日が来るように、手を伸ばせば何かに触れることができるのかもしれない。抱きしめれば温かいのかもしれない。

私の目にはまだ何も映らないけれど、それは目を閉じてしまっているだけなのかもしれない。
前を見るのが怖くて、足元を見るのが怖くて。
目を開けば、見渡してみれば、思ったより世界は優しいかもしれない。
見るものは選べるから。優しいところだけ、温かいところだけ見つめてみて、安心してからでも一歩踏み出してみれば、心に触れる何かと出会うかもしれない。

こんな私でも生きた先にはきっと何かがあるのかもしれない。そんなことは思えないけれど、いつかそう思って信じて生きれるように、今も生き抜く必要があるのかもしれない。

息抜き生き抜く

明日は花火だ、
きっと大丈夫。明日も生きて明後日も生きて、春を迎えて、また忙しない夏を生き抜こう。

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