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脳のブラックを掃き出したくて。

何か書きたいのに書けない、と悩むのは決まって生活にゆとりがある平和で幸せな日々だ。

なんか書きたい、でこうして書き始めているのは私の頭の中が疲れている証拠だ。

無理して笑った日には文字を並べている。

どうして私は、幸せな日々を唄えないのだろうか。


今、すごく平和な日々の中で生きている。生かさせてもらっている。たくさんの人に支えられて、必要としてもらって、甘えさせてもらって暮らしが成り立っている。

それが心地よいのと同時に、罪悪感も感じている。

私ばかりが楽をしていて、周りの人に無理をさせてないだろうか。私が幸せということは、どこかで不幸せが発生しているのではないか。

何より、自分自身がこのままではダメだと分かっている。この優しいぬるま湯に浸かっていてはいけない。甘えればなんでも助けられてしまう世界。だからこそ甘える基準をしっかり自分の中に持たないといけない。人を苦しめたくはない。

1週間、東京に出ていた。
早く頭の中からあのスピード感が消えてくれないか、と思う。思い出しただけで胃液がせり上がってくる。目の奥が酷く疲れた。
少し、心を殺す感覚が思い出された。何事も我慢をしすぎるのはよくない。無理は祟る。でも、少しの負荷は生きるために必要だ、とも思う。これもまた自分本位な考え方だけれど、自分を主軸に生きないと、私ほどの微力さでは何事も人のせいにしかねない。自分で責任を持つために選択権を自分に与える。私が努力して得たわがままをすることの意義だ。


最近は、なんというか、私が苦しんだ日々の全て、大したことのないように思えてしまう。そう思ってしまうことが何より怖かったのに。
忘れてゆくのだろうか。忘れたいけれど、忘れたくなかった。苦しみ全て、映る世界の美しさに変えていたかった。

たくさんの人に守られて、弱いままが許されて、悲しみも苦しみも溶けてしまったのだろうか。人の痛みがまた分からなくなるのだろうか。それとも、自分の痛みが癒えて、人の痛みを包めるようになったのだろうか。そうだといいのだけれど、どうだろう。私はそんなにできた人間ではないからな。

この先一年、私はどんな暮らしをしたいのか。
どうやって生きていたいのか。自分の欲はどこにあってどう満たしていきたいのか。

もう少し向き合って考えていかなければいけない。
最近は、あまりにも自分との対話をしなさすぎている。頭が疲れることでの生活への支障を思ってのことではあるけれど、それすらも言い訳になりかねない。

もう少し胸を張っていられるようになりたいと思う。疲れること、負荷をかけることを避けすぎているのかもしれない。今の私はどこまで頑張れるのだろうか。臆病になってしまった。頑張ることに、頑張った先で身体を壊すことに。
何事も正解がわからない。どこをどう進めば何に辿り着くのかが何も見えない。

こんな何もかもの全てが逃げるための口実のようにも思えてしまう。この思考回路こそが壊れた先の代償だというのに。

人も自分も幸せに生きたい。
笑っていてほしい。幸せであってほしい。
全て、温もりに包まれていてほしい。

春が来てきっとまた景色が変わる。
変化はいつだって寂しい。寂しいけれど、寂しいと思えるだけ、愛したということだ。愛せた証だ。それだけで今は十分。
この先もただ、幸せに生きてほしいと願っている。

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