頑張ることでしか存在価値は生まれなくて、結果を出せないなら、倒れるまで頑張ってはじめて頑張ったと認めてもらえる、という考えはきっともう手離してもいい。

「頑張る」ということを課されている家だったな。
大人になって、家庭の有り様はさまざまだと体感する中で、自分の育ってきた環境をなるべく客観的に振り返ったとき、そんな風に思った。

物心ついたときから、家で勉強する習慣があった。
義務付けられていた、の方が正確かもしれない。
私は大学受験に至るまで塾や予備校に通ったことはなく、親の管理のもとで勉強していた。

小学校の授業で教わる内容はすでに知っているもので、クラスで一番「頭が良い」と言われる回数が多いことは、単純に気分が良かった。
自分は勉強ができる頭が良い子なのだと、疑わなかった。

中学受験がちらつき始めた中学年、大手塾の全国模試を受けて、自分より頭が良い子は山ほどいるという現実を知った。
もっともっと頑張らなきゃいけない、と思った。

「頑張らなきゃいけない」という強迫的な思い込みが強いくせに、忍耐力がなく、私はたびたび勉強をサボった。
親が怖くて「やりたくない」という意思表示ができなくて、与えられたノルマを誤魔化し続けた。
稚拙な目論見は当然ばれて、叱られた。
親に怒鳴られる中で言われた、「やらないならこの家から出ていけ」という言葉が、大人になってもずっとずっと消えてくれなくて、どこにいっても、そこにいていい理由を探してしまう。

小学校高学年の記憶はおぼろげなところが多いけれど、いつのまにか第一志望が決まっていて、私がそこに行きたいから頑張っていて、親はそれを全力でサポートしてくれている、という状況のようだった。
覚えているのは、高熱が出て寝込んだとき、親に「最近頑張ってたから」と言われたこと。
きょうだいに「あんたは頑張る才能がある」と言われたこと。
自分にできること、自分がやりたいこと、周りに求められることの中で、変えられないのは周りに求められることだから、それに合わせて他を変えればいいんだと自分を納得させたこと。

どうにかいくつかの私立中学に合格して受験勉強が終わったとき、私が感じられたのは、合格した喜びでも、やり切った達成感でも、落ちた学校への未練でもなく、プレッシャーからの解放感だった。
これでようやく、頑張り続けないといけない毎日から解放されるんだ、と思うと、ほっとした。

頑張る、に終わりはなかった。
入学した私立の中高一貫校には、とてつもなく頭の良い子がごろごろいて、そういうものなんだな、と静かに絶望した。
身近なクラスメイトだから、その子たちが勉強ができるのは天性の才能に恵まれたからではなく、ずっと頑張り続けているからなのだと痛いほどわかった。

大学受験は、行きたい大学と取りたい資格があったから自分の意志で頑張った、と思っている。
身を削るような頑張り方しか知らなかったから、睡眠時間を削り、テレビは観なくなって、ひたすら自分を追い込んで頑張り続けた。
中学受験と違って、同級生と学校の先生がいてくれて、「頑張ろう」とか「頑張ってるよ」と言ってくれたのは大きかった。
結局センター試験で大失敗して第一志望にも落ちたのだけど、ずっと必死だった。
センターの自己採点の結果を親に伝えたら、「その程度の頑張りだったってことだ」と言われた。
それがすべてだった。

大学に入っても、社会人になっても、ずっと「頑張る」にとらわれている感覚があった。
不思議なのは、こんなに頑張ることに必死なのに、頑張った経験が自分の中に残らないということだった。
頑張った、と胸を張っていいのかわからない。
だって、まだ倒れてないのに。
これくらいで頑張ったって言うのか、と、誰かに笑われている気がした。

ハタチ前後だったか、時期を全然覚えていないのだけど、印象的だった瞬間がある。
私はときどき、ぱっと自分の中に浮かんだ言葉にびっくりしたりハッとしたりすることがあって、そのときは「ゆるされたい」だった。
はじめて自分自身のことがすごくよくわかった気がした。
それまで「認められたい」や「褒められたい」という言葉に、間違いじゃないけどどこかしっくりこないなぁという感覚があって、でも「ゆるされたい」は絶対的に自分の本当の願いだった。
「ゆるされたい」
私はずっとそれを抱えてきたんだな、それが私を「頑張る」に駆り立てていたんだな、と気づいて、たぶん誰とも分かち合えない涙を流した。

いい加減、自分を解放してあげたいな、と思う。
書きながら、「頑張る頑張る言ってるけど、実際は手抜きも多かったよな」とか「親にもらったものも感謝してる部分もあるくせに、こんな切り取り方はどうなのかな」とか「勉強させてもらえるだけ恵まれてるくせに」とか、頭の中に浮かんでくる言葉はたくさんあって躊躇うのだけど、でもそういうのもひっくるめて、もういいんじゃないかなぁ、と思っている。
「頑張る」は無敵でも絶対的でもない。
むしろ、大人になってからは「頑張る」でうまくいかないことも多かった。
いちばんしんどいな、と思うのは、頑張る頑張る頑張らないといけない、とキリキリ生きてきたせいで、私は頑張っていない(ように見える)ひとをゆるせなくなってしまった。
無理がない頑張りなんてない、しんどくないひとは頑張ってない、と、たぶん根っこの部分で強く思っていて、「頑張る」に固執しないひとに羨望と軽蔑が入り混じった気持ちを向けてしまう。
ずっとこのまま生きていくのは自分がかわいそうだなと思うようになった。

心身が壊れかけても勉強し続けた10代の自分にどういう感情を向けたらいいのか、よくわからない。
もしもあのとき、逃げていたら。反抗していたら。無視していたら。
でもたぶん、他の選択肢はなかった。
「頑張る」以外の方法がなかった自分を、全部私の一部だよ、って、まるっと抱えて生きていけたら、と思っている。

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