ラララと歌うのは、きっとそれがいちばん伝わるから

「言葉にできない」って言うのは、逃げだと思ってた。
他人に対しても、自分に対しても。
「人見知りなんです」と言うことで、初対面の相手にコミュニケーションの責任を丸投げするのと同じような印象を受ける。
「言葉にできない」は「言葉にしない」だし、「言葉にできない」と口に出すのは、言葉を探す努力を放棄しながら自分の気持ちや考えを汲み取るよう相手に強いている気がして、端的に言えば「甘えんな」と思っていた。
これを書きながら、昔片想いの相手に「君って結構、苛烈だよね」と言われたのを思い出した。

とは言え私も言葉にするのがうまい訳ではなくて、「なんかうまく言えないんだけど」と前置きして話すことが多い。
これも、うまく表現できていないことを相手に理解してもらおうって甘えてるよな、うまく言えるようになってから出直せ、と思う。

「なんか」も口癖で、人前で話す機会が増えて、自信なさげで良くないから直さないとな、と思っていた時期、親に「あなたの『なんか』っていうのが、良いなぁって思うのよねぇ。ちゃんと伝えようって考えながら話してる感じがして。」と言われた。
親に対する感情はまだまだ整理がつかなくて、好き嫌い、感謝、恨み、入り混じっているのだけど、ときどき、思いもよらない形で救ってきたりする。

「言葉にできない」に対するのと同じ感覚で、音楽を聴いていて「ラララ」と歌われると、ちゃんと歌詞にしてくれよ、と思っていた。
「ラララ」で逃げないでくれよ、と。

歳を重ねて丸くなって、もしくは気に入らないものすべてに難癖つけるエネルギーがなくなって、「言葉にできない」にも「ラララ」にもさほど引っかからなくなっていった。
だから、KANさんの「よければ一緒に」というそこそこ「ラララ」な歌を初めて聴いたときもぷんすかすることはなく、むしろものすごく素敵な歌だと純粋に思った。
気に入って何度も何度も聴くうちに、これは「ラララ」しかないな、「ラララ」がいちばん良いな、と自然と思った。
「ラララ」でしか伝わらないものが、私にもようやく届いた。

思えば、「言葉にできない」と言われると、コミュニケーションを放棄されたような気がしていた。
多分、傷ついていた。
「私だって言葉にできないなりに、うまく言えないけど、言葉にしてるのに」
そんな不満や怒りもあった。
「言葉にできない」という言葉によって伝わるものがある、そこから始まるコミュニケーションがある、とは、思えなかったな。


ここまで書いて、改めて小田和正さんの「言葉にできない」を聴いてみたのだけど、めちゃくちゃ良い歌だし、なんか、全部を言葉にできるはずっていう勘違いが恥ずかしいな。
あと、大黒摩季さんの「ら・ら・ら」もめちゃくちゃ良い歌だと思います。

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