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あくまで個人の感想です #2久し振りの長編にハマる「ゴールデンカムイ」

4年ほど前から始めたTwitterは私にたくさんの新しい情報と楽しみを運んでくれた。そのひとつがこれである。
噂に聞いていた野田サトル「ゴールデンカムイ」をいざ読んでみようと踏み切ったのも、きっかけはTwitterだ。

2021年6月18日、その日はゴールデンカムイ26巻の発売日だった。北海道札幌市内に、熊と全裸男と刃物男が出現したという呟きが流れてきた。えええ札幌市内カオスだなと驚いたが、これを評して「ゴールデンカムイじゃん」「発売日に北の大地試されている」などとツイートが流れてきた。
どういうこと? ゴールデンカムイってそんな感じなの?

結果大人買いする

とりあえず、と1巻から5冊まとめて購入。読み始めたが最後とにかく先が気になる! 結果、10冊単位でのまとめ買いをしてゆき、あっという間に最新刊に到達する。
Twitterきっかけで読み始めたので、事前に少しツイート検索をしていたが、どうも様子のおかしいタグが散見する。勝手にもっとシリアスでハードな作品だと思っていたのだ。
いや、シリアスでハードではない、わけでもない。読んでいて思わず声が出るようなスリルと臨場感、緊張と衝撃の連続のジェットコースターのような作品だ。闇鍋ウェスタンというコピーがついているが、その名に偽りなしのごった煮感、泥臭い和製ウェスタンだ。

読み始めたら止まらない

ページを捲ったが最後、とにかくやめられなくなる。パロディも豊富で、各話表紙に留まらず、あちこちに小ネタがあり遊び心満載だ。それがシリアスさを妨げることなく、どこか飄々とした空気となっている。
ギャグテイストが思った以上に盛り込まれているのに、登場人物の誰一人、不真面目である印象がない。誰もが大真面目である。
そして登場人物の多さ。奇をてらったような人物も中にはいるが、ストーリーの本筋の真剣さを一切妨げていないのがこの作品の凄さである。

主人公・杉元佐一は日露戦争帰還兵だ。鬼神の如き戦いぶりで「不死身の杉元」と呼ばれた言わば英雄である。それなのに故郷へも戻らず、北海道で砂金など掘っている。そこで聞いた巨大な隠し黄金の噂から、思いがけず黄金争奪戦に巻き込まれてゆく。
巻き込まれて、とは言ってもどうにもこの主人公がそう生易しいタマではない。

大昔に読んだミステリの大御所、赤川次郎氏のコラムでヒロインのタイプについてこう書かれていたのを思い出す。
(はるか昔の記憶の上に原典にもあたれずうろ覚えだが)
ヒロインのタイプには2種類あって「飛び込み型」と「巻き込まれ型」がある。自らの意思とは裏腹に事件に巻き込まれてゆく後者と、事件にむしろ前のめりに飛び込んでいく前者。赤川氏はどうもこの前者、飛び込み型のヒロインがお得意だったように思う。活発で気になることを放っておけない、そんなヒロイン。
杉元佐一も、この飛び込み型のキャラクターだろう。たまたま出会ってしまった埋蔵金とアイヌの少女。杉元本人にも黄金に対する欲はあり、それを必要とする理由もあるのだが、それとは別に、彼の本能が、男気が、退けないと感じていたのだろう。
そして杉元佐一は終始、誠実である。バディとなるアイヌの少女アシㇼパに対してが最たるものだが、己の信念に従い、決して後退することなく、誠実に荒野を歩んでゆく。こうでもないとあの激戦の203高地を生き抜くことはできなかったであろうが、生きることへの執着とそのためには躊躇しない精神力。
スーパーヒーローである。それなのに、現実味のないヒーローではない。人間味のある一人の男である。

ゴールデンカムイの、物語と登場人物がこんなにも魅力的なのはここである。すべての主要人物(多すぎてどこまでを主要と言っていいのか迷うが)ひとりひとりが、漫画のキャラクターらしく非現実的な部分がありながらも、一人の人間としての苦悩、葛藤、弱さをしっかり描かれている。
それぞれに過去があり、その人の人生の物語がある。

黄金争奪戦に関わる人々はどこまでも増え、探れば探るほどに因縁の過去が掘り起こされる。一度油断をすれば、争奪戦の敵以外にも生命を脅かす野生動物、北の大地の寒さ、自然。
小さく弱い人間が生き抜くのは過酷である。そのためにときに手を組み、また離れ、それぞれの思惑で黄金を狙う。
これが複雑で、わからなくなるのだ。一体誰が味方で敵とは何なのか。
結果、一体何度読み返したかわからない。それなのに読むたび新鮮な衝撃とスリルに振り回される。

家族というテーマ

英雄であろう杉元が復員後、故郷に戻らないのは理由がある。故郷にはもう迎えてくれる家族はないからだ。
アシㇼパは母を自らの出産で亡くし、父も幼い頃に亡くしている。
他にも家族を失った登場人物はたくさんいる。
戦争や病気など家族を亡くす要因が現代より多く、誰しもがその悲しみを抱えているような時代。家族が揃って家族であり続けることは容易ではない。人は皆、家族を続けてゆくための努力をしていたのではないか。それ故、家のために結婚し子を成して育てる。次の世代へと繋げてゆく。
昭和も後半の生れの私にとっての家族とは、なんというか、揺らがないものという感覚がある。両親ときょうだいがいて、それは永遠に変わらないという根拠のない自信のようなものがある。
いい歳になって両親も老人となり、自身も加齢による衰えをいくつも体感するようになった。人はいつしか、年を取りそしていつかはこの世を去る。その理解はあるが、それ以外に家族がいなくなるイメージがあまりない。呑気なことである。
家族であり続けるためには努力が必要だという意識が希薄だ。
それでいいのだろうけれど、努力というほどには大げさでなくとも、あり続けることへの意識というものが、もしかしたら現代は希薄になってきているのかもしれない。
そもそも家族であり続けることの意味も、変わり続けてゆくのだろう。

人とのかかわりについて、別のnoteにも書いた。なんとなく家族以外の人とのかかわりを対象にしたようなことを書いたが、家族も、いや家族だからこそのかかわってゆくことへの意識が大切なのではないか。
そして家族の形とはもっと自由であってよいのではないか。

ラストシーン、共に生きるとは、どういうことなんだろう。そんなことを考えた。
行動と生活を共にし、寄り添い生きてゆくことだけが共生ではないのかもしれない。
ほんの一時、共に生き同じ道を歩き、そして分かれてゆく。それぞれで生きてゆく。二度と会うこともないのかも知れない。
それでも生きるために共にした時間は、やはり人を家族にするのではないか。互いを必要とし、互いに守りあう。
そうして、人と人は家族になるのではないか。
杉元、アシㇼパ、白石が共に生きた日々の記録。これはまたひとつの、家族の日々の記録なのではないか。

そんなことを考えた、野田サトル「ゴールデンカムイ」だが、とにかく面白いので、こんなつべこべ長い感想など気にせず、ぜひ読んでみてください。
決して損はしないから!

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