血の繋がりって何なんだろう ~AYA世代がガン宣告を受けた時~
2006年秋に子宮体がんと診断されました。特別養子縁組で女の子(現在11歳)の親となるまでの備忘録です。
マガジンでまとめています。よろしければどうぞ。https://note.com/nice_zebra534/m/m89a4dbedee8b
主治医の言葉が聞こえなくなった
主治医からガン宣告を受けたその時、わたしは馴染みの美容室で髪を切っていた。
電話越しの主治医は、摘出したポリープの病理診の結果、ガン細胞が認められた、今後の治療について説明するので病院へ来てもらいたい、との趣旨を話したと思う。
思うと書いたのは、途中で主治医の声が遠くに行ってしまったからだ。
まさに晴天の霹靂だった。
国立がん研究センターの統計によると、日本人の2人に1人が、生涯で1度はガンに罹るという。2分の1の高確率だ。
とはいえ、ガンと診断された患者のほとんどが「まさかわたしが」と思うだろう。
当時のわたしも、「なんでわたしが」を何度も繰り返した。
夫には大変申し分けないが、わたしが結婚したかった一番の理由は子どもが欲しかったからだ。
もし子どもを望まないのなら、事実婚でも良かった。
だから、子宮の摘出はある意味「死刑宣告」に近いものがあった。
セカンドオピニオンを求めて東へ西へ
ガンはステージ1だったが、すぐに広汎子宮全摘術を受けるように勧められた。
この病院での子宮体がん治療の定石だった。
当時わたしは30歳だったので、若年性のガンは進行が速いリスクがあるとも言われた。
子どもを産むことを望んでいたので、到底受け入れることはできなかった。
不思議とガンに対する恐怖心はなく、とにかく子宮を残す治療を希望したが、主治医を始め医師団から、子宮温存治療はできないと説得された。
はい、そうですかとなるはずもなく、
「子宮体がん」とネットで検索し、隣の県の大学付属病院で、子宮温存治療の実績があることが分かると直ぐに訪ねて行った。
一縷の望みにすがりたい。
だが先生は、地元の病院の診断は妥当であり、手術を受けることをやさしく勧めた。
その帰り、特急しなのから眺めた初冬の景色を忘れられない。
「お母さんになりたかったな」と思わず呟いた。
縁あって転院する
2006年の年末。
知人の紹介でK大付属病院産婦人科教授の診察を受けることになった。
後で分かったことだが、当時の教授は婦人科学会の重鎮で、不幸中(?)の幸いだった。
話は少しそれるが、わたしはあまり物怖じしない性格だ。
K大附属病院の教授様とやらはどんなものよ、と好奇心すらあった(この期に及んでも)。
諦め半分で診察を受け、重鎮教授と向かい合うと、その大物オーラは半端なかった。
重鎮教授は患者を「借りてきた猫」状態にするだけでなく、助手の若い女性の先生をも緊張させていた(とても丁寧な口調ではあったが)。
内診の見立てを尋ねられた女医さんの声はかすかに震え、手もすごく冷たくなっていた。
教授のくちぶりでは、わたしのガンはたちが悪いものではないらしい。
意外だった。それまでに掛かった病院では先生すら少し動揺していて、すぐに手術を受けて欲しいと言われていたからだ。
教授は詳しい検査をして今後の治療方針を決めましょう。よろしいですねと仰せられた。
2007年の正月が明けてすぐに、わたしは地元の病院でカルテとMRI映像をもらい、K大付属病院へ転院した。
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