血の繋がりって何なんだろう ~転院が転機 2年間のがん患者生活~
2006年秋に子宮体がんと診断されました。特別養子縁組で女の子(現在11歳)の親となるまでの備忘録です。
マガジンでまとめています。
病院によって外来の雰囲気は全く異なる
2007年の冬、
K大附属病院に転院して、気持ちが晴れやかになった。
先ず婦人科の外来からして雰囲気が違う。穏やかでなんだか明るいのだ。
広範囲から患者が診察や治療に訪れるK大附属病院。病状は決して軽くないであろうが、外来で待つ患者は身だしなみを小綺麗にしている人がほとんどだった。
診察室からは時折笑い声が漏れてきた。悲壮感が漂っていない。
人気の先生の外来は予約していても、待ち時間が長い。午前9時からの診察開始で、終了が午後3時を過ぎるのには、先生はいつ昼食を食べるのだろうと心配になった(患者なのに)。
転院してすぐに、検査入院をした。
婦人科と産科の病棟が別フロアなのが、とてもありがたかった。
子どもが欲しいのに子宮を取らなければならない可能性大のわたしにとって、おなかに赤ちゃんを宿している女性の姿はうらやましく、色んな感情を自分で制御できなくて辛かったのだ。
婦人科と産科の外来と病棟が分かれている病院に配慮を感じて、みじめな気持が癒された。
子宮体ガンの治療 わたしの場合
抗がん剤のヒスロンを毎日服薬し、2ケ月に1度の掻爬(そうは)術で子宮内膜にできるポリーブを摘出。病理診の結果、がん細胞が子宮内膜に出来ない期間が認められたら、妊孕(にんよう)治療へ移る。
これが提案された治療の概要だった。
子宮温存治療をしてもらえることがうれしくて、気持ちは俄然前向きになった。がんが進むことは全く考えなかったのだから、怖いもの知らずの真骨頂だ。
ヒスロン剤の副作用の説明には少々引いたが、わたしは大丈夫、これはラムネ!と暗示をかけた。2年以上も服用したが、副作用が出なかったのには、己の単純さに感心した。
明るい患者生活
2年間って、まあまあ長い時間だ。
その間にメンタルもやられず、パッと見は元気で、がん患者には見えないと言われていたのには、振り返って考えると理由があるように思う。
☆保険給付金が下りた☆
お金がすべてだとは思わないが、あると解決できることもある。いやらしい話だが、一時金の他に2ケ月に一度の掻爬術のたびに手術給付金が下りたので、それを原資に治療を兼ねた温泉旅行や好きな海外旅行に出掛けていた。
☆漢方治療(健康保険適用外)☆
京都東山の麓に2代続く漢方診療所にも通っていた。主治医の漢方医はK大医学部出身で、決して西洋医学を否定せず、穏やかな口調で漢方の処方と鍼灸を施してくれた。婦人科疾患には漢方のアプローチも有効と言われているし、何よりメンタルヘルスの維持にも役立ったと思う。
この治療の原資も給付金。
☆仕事を辞めなかった☆
当時は家の近所の大学で研究室事務をしていた。治療優先で心身共に負担が掛からないアルバイトで、先生や仕事仲間にもがん治療中であることを話していた。仕事があることで、病気のことばかりを考える物理的な時間がなかったことは、良い作用に働いたと思う。
☆思考が悪い方に傾けば手をたたこう☆
治療中、少しでもガンが進行すればその時点で子宮摘出になることを、始めからK大付属病院でも言われていた。
悪い未来を考えてしまう時には、手をパチンと叩いた。「はい、おしまい。ダメになってから考える。いま考えない。」
これは今でもやっている、悪い思考停止方法だ。
☆家族の支え☆
敢えて書くまでもないが、書いておこう。家族がいてくれたから孤独にならずに頑張れました、はい。
ここに記したことは、あくまでもわたしが主観的に思うことだ。こうすればいいですよとお勧めするつもりは全くない。
治療や生活に「納得する」ことが大切なんだと思う。先生の治療に納得できなければ、受けなければいいし、納得したのなら、腹を括るしかない。
変な話だが振り返ってみると、この2年は充実していた。
治療においても、MRI、CT、PET、抗がん剤のフルコースの治療と検査を繰り返していた。
そして、徐々に心境も変化していった。
養子を迎える選択を真剣に考え始めていた。
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