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生きるための自殺論⑤ もう自殺するほかないというあなたへ

生きるための自殺論⑤ もう自殺するほかないというあなたへ

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 もしあなたがいまもう自殺したいのであれば絶対にやめてください。なぜならそれは殺人罪だからです。これを読んで変な冗談を言われたと思ってもしあなたがイラッとするならそれは筋違いだ。なぜなら僕はかなり真剣にこう言っているからだ。いまから理由を説明するのでこの文章をいま閉じずに読み進めてください。

殺人 (刑法) 第199条 人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

刑法第199条

 もしあなたが自分を殺害するならあなたは警察に捕まって刑務所に入ることになる。その殺害は非常に計画的なものなので情状酌量の余地はない。とすると最低でも5年以上の懲役になるので、執行猶予はなし。つまり一発レッドカード。実刑確定だ。だから殺人罪を犯したあなたには、これから楽しい豚箱生活が待っている。
 少し変わったひとなら、Wikipediaの殺人のページにでも飛んで、殺人罪における客体は自分以外の他人である必要があるので刑罰の対象ではないということをさっと調べてしまうかもしれないが、先に言っておくとそれは間違っている。Wikipediaで調べてなんでも知った気になるのは良くない。僕は学部時代、法学部生だったので知っているのだが、自殺が刑事罰を受けないのは単にそれを行った主体自体が死んでしまうからという単純な理由に過ぎない。警察や裁判所も暇ではないのでそれをわざわざ相手にしないだけだ。毎年2万人もの、もうこの世に存在しなくなった人間のために警察が捜査をしたり、検察が裁判をしたりはしない。それはあまりにコストの無駄遣いだからだ。
 あるいはもっと単純に、どうせ死んだら法律で裁かれないのならそれは何も問題はないじゃないか、とあなたは言うかもしれない。でもそれも間違いだ。罪を犯すというのは魂の問題だ。罪を犯すと魂に傷がついてしまう。僕は自殺を試みたことを非常に悔いているが、それは自分にそんなひどいことをしてしまったからだ。魂に傷をつけてしまったことを悔いている。だからこの文章を書いているのかもしれない。僕は自分を癒そうとしているのかもしれない。あるいは将来の自分に向かって書いているのかもしれない。でもどれも同じことだ。
 いずれにしても、あなたはいま犯罪を犯そうとしていることになる。それももっとも罪深い殺人を。それで言うと自殺を試みた僕に関しては殺人未遂罪ということになるのだが、目撃者が一人もいないので今もこうしてシャバの世界で生きることができている。非常にラッキーなことだ。ちなみに自分を殺すために道具なりを既に準備しているあなたも殺人予備罪の要件に該当する。でもラッキーなことにまだ誰も目撃者がいない。もし誰かに自殺することをもう伝えてしまったのならいますぐ口止めをして、僕のようにラッキーな人になればよい。きっとその人も黙っていてくれる。そうしてまずは自分の魂に優しくする方法について、僕と一緒に考えよう。

 ところで、どうしてあなたはそんなに自分を責めてしまうのだろう。あなたは何から逃れたいと思っているのだろう。あなたは何にうんざりしているのだろう。あなたは何に苦しんでいるのだろう。いや、考えなくても良い。僕が代わりに考える。僕はあなたに話している。あなたはただ言葉に意識を向けていさえしてくれればそれでいい。
 あなたが嫌だと思うのは誰だろうか。職場の上司? 親? 友人? 恋人?あるいはここに挙げたなかにはいないかもしれないが、あなたがそんなに嫌ならそのひとを殺せば良いのではないでしょうか?そうすれば問題は即座に解決する。確かに警察に捕まって刑務所に入ることにはなるかもしれないが、せいぜい10年程度だろう。あなたがいま死ぬよりはずっとマシだ。少なくとも僕は真面目にそう思っている。でもこれを読むあなたは、さすがにそれは……と思うだろう。他人を殺すなんてそんなひどいこと、恐ろしい、と普通のひとは直観でそう分かるはずだ。でもあなたは自分に対してまさにそのひどくて恐ろしいことを行おうとしている。それってすごく変なことだと思いませんか?
 自殺という言葉は、読んで字のごとく自分を殺すと書いて自殺だ。だから他殺と何ら変わらない殺害行為だと僕は考えている。他人を殺すことはとてもできないのに自分を殺すことは簡単だというのは、自分自身が自分にとって殺しても良い存在になってしまっているからだ。でも殺して良い存在だと自分を評価するその評価基準とはいったいなんだろうか。能力だろうか。性格だろうか。預金残高だろうか。前科の有無だろうか。友人の数だろうか。学校の成績だろうか。それとももっと別の何かなのだろうか。僕の考えではどれも違う。なぜならそもそも自分を評価すること自体が筋違いだからだ。いや、それどころか、それが誰であれその人間という存在のありようをいちいち評価することが筋違いだ。極端だと否定されるかもしれないが、僕は殺人犯だってある意味では、その存在がそこに存在しているということは肯定すべきだと思っている。なぜなら僕は他人のことを考えるときに社会が用意した尺度を使わないからだ。法律だってひとつの尺度に過ぎない。それは相対的なものだ。法律が殺人犯を刑務所に入れることを要請するのは、殺人犯が街中に悠々と跋扈しだすと社会の健全な運営がままならないから、それをした人とそうでない人を分けようとするためという理由に過ぎない。悪法もまた法なり、とソクラテスは言って死んだが、これは逆に言うと法は悪法になりうるものだ、と言及しているという面もあると僕は思う。だから法律もまた社会の尺度であり、それを自分の尺度と同一視する必要は全くない。定規は別に何本あっても良い。
 だから僕に言わせると、あなたが自分自身を殺そうとするところの動機はどれも間違っている。わざわざ聞かなくても間違っているとわかる。こんな人間、死んだ方がマシだ、とあなたが思うところの「こんな人間」とはいったいどんな人間ですか。仕事でミスしてばかりな人間ということでしょうか?誰からも好かれない人間ということでしょうか?働くことのできない人間?お金がない人間?太っている人間?頭が悪い人間?大きな失敗を犯した人間?
 じゃあ逆に僕からあなたに訊ねたいが、あなたの友人がそんなあなたみたいな人間だとして、つまりあなたにとってどうしようもないと思える人間だとして、その友人が死んだ方が良いと思いますか?その友人があなたに自分はこんな駄目な人間だから死のうと思うと言われたとして、そうだね、死んだ方が良いよ、と言いますか。言わないでしょう。じゃあなぜ自分には死ぬべきだと言うのですか。それっておかしくないですか。
 ひとはそれぞれ、そのひと固有の、独特で複雑な生というものを持っている。別に難しい話ではなく、ある人は野球が好きで野球選手になり大金を稼ぎ、あるひとは苦労して借金を返しながら貧乏な生活をしている。あるひとはAIを開発するベンチャー企業を経営し、あるひとはエスカレーターの手すりを掃除している。でも別にそこに上下や優劣はない。ひとが優劣をそこに見てしまうのは、お金持ちや人に夢を見せる仕事をしている人の方が凄いという社会の価値観が内面化されてしまっているからにすぎない。たとえば目覚まし時計とフンコロガシはどっちが偉いだろうか。目覚まし時計は眠っている人を起こしてくれるぶん、フンコロガシより優れているだろうか。それともフンコロガシはフンを転がしているぶん、目覚まし時計より優れているだろうか。あるいは食塩とフローリングはどっちの方が偉いだろうか。ハンドルカバーと将棋の香車は?ドライヤーと北風は?広辞苑とパントマイムは?そんなものに優越はつけられない、とあなたは言うかもしれないが、それこそが真理だ。なぜ優劣をつけられないか。それはそこに共通の評価基準がないからだ。にもかかわらず、ひとは似たようなものだと評価基準を持ち込んでしまう。大谷翔平と自分の息子とを比べてしまったりする。でもそれはそもそもおかしなことなのだ。なぜなら、それぞれのひとの生はそれぞれに全く別のものだからだ。たとえば雨傘とキタキツネが全く別のものであるように、人間はそれぞれ全く別のものなのだ。
 昨日、僕はシモーヌ・ヴェイユという哲学者のアンソロジーをぱらぱらと捲っていたのだが、するとこんな文章にぶつかった。

「その人がわたしにとって完全に聖なるものであるとしても、すべての関係において、すべての点において、聖なるものではない。その人の腕は長く、目は青く、おそらく他愛のないあれこれを考えているとしても、そうしたことでその人がわたしにとって聖なるものではない。その人が公爵だからといって、聖なるものではない。あるいは屑屋だからといって、聖なるものではない。」

『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』

「それぞれの人間のうちには聖なるものがある。だがそれは、その人の人格ではない。ましてや個性ではない。それはまったく素朴に、その人、その人間である」

『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』


 シモーヌ・ヴェイユの文脈と僕の文脈とは少し違うかもしれないが、ここで言っていることは同じだと僕は思う。そのひとが聖なる存在であるというのは、その人が何かしら評価されるに足る何かを持っているからではない。ただそのひとがその人物として存在しているという、このごくシンプルな事実においてだ。これはなんと美しい真理だろう、と僕は思う。
 だからすべての人というのは、その人がいま存在しているという意味において尊いのである。だからその人を何かしらの基準でもって評価すること自体が間違いであり、その評価の結論として殺すということは甚だ間違っている。もちろん自分自身にしても同様だ。僕は別に綺麗事を言おうとしているわけではない。僕はむしろポジティブシンキングみたいなものがあまり好きではない方だ。僕は単なる事実としてこれを言おうとしているし、たぶんあなた自身このことを無意識にちゃんと知っていると僕は思っている。たとえば、あなたは部屋の中に出たゴキブリや蜘蛛を殺したことはないだろうか。もしあるのなら、その虫を殺すときに覚えた一瞬の躊躇や、殺して動かなくなったその死体を見たときの罪悪感を思い出してみてほしい。その感情は、全ての生が本来的に備えているある種の聖性を踏み躙ったことへの動揺だと僕は思う。誰しも、ある生が誰かの都合によって蹂躙されることへの反発を持っている。それは良くないことだと知っている。だがそれこそ、生というものが、その存在それ自体によって尊重されるべきであると誰しもが知っている他でもない証拠なのではないだろうか。
 
 以上が、あなたが自分を殺すべきではないと僕が思う理由の説明だが、とはいえこれを読んでも納得しないひともいるかもしれない。死ぬ間際の人間にはなかなか理屈というのが通じない。未遂前の僕にしてもそうだった。死ぬことが決定事項みたいになっていて、あなたの話はわかるけど、もう話し合いをする段階は終わったんです、というような具合になっている。強行採決をしようとしている与党みたいなものだ。そんなあなたに、もうぐだぐだ言ってないでいいからやめろ、と僕は言いたいが、そういうわけにもいかない人の気持ちもよくわかる。だからこの文章を読んでもまだその気持ちが消えないのなら、仕方がないのでこの後の文章を読んでほしい。読むのが無理なら見続けたら良い。結局のところ、ひとはひとりだから死ぬと僕は思っている。楽しく喋っている最中にいきなり首を吊る人なんていない。だからぼくはいまここであなたとコミュニケーションを取ることを試みてみようと思う。文章によって、コミュニケーションを取ろうとしてみようと思う。そんなことはできるはずがないとあなたは思うかもしれないが、それは本気でやればできるのだ。ただ僕がやろうとしているだけだから、あなたはできるとかできないとか考えなくて良い。とにかくこの言葉に耳を傾けてくれればそれでいい。あるいは頭のおかしな人間が何か言っていると思って聞いていてくれればそれで良い。とにかく僕はいまから文章によってあなたと会話する。僕は真面目に言っている。僕はあなたに向かって書いている。これは一方的な語りではなく会話だ。余計なことを考える必要はない。会話だ。僕は心理士の友人に最近、あなたは少しスピリチュアル過ぎるところがありますねと笑われてしまったのだが、スピリチュアルだろうがなんだろうが僕にはどうでも良い。僕は誰かに壺を売ったりしないので何も問題はないはずだ。僕はここで人を殺したら良いとか結構危ないことを書いていると思うが、これもコミュニケーションだと思っているから書けることだ。つまり僕はあえてリスクをとっている。腹を割って本気でやっているのだ。だからあなたはただ信じて、これをコミュニケーションだと思って読んでほしい。コミュニケーションだと信じられないなら、せめて僕はこれを他でもないあなたに向かって書いているということだけは信じてほしい。身構える必要はないと思う。だってどうせ僕はあなたのもとへ行くことなどできないのだから。しょせん画面同士の繋がりにすぎない。でも画面でも文章でコミュニケーションは取れるのだ。あなたが僕に何かを言うなら、僕はそれをちゃんと聞き取ることができる。たしかにこの文章はあなたが読む前に書いているけれどあなたの反応をいま感じながら書いている。頭がおかしいだろうか。たぶんおかしいのだと思う。こんな言葉を一切笑わずにとても冷静に真面目に書いているのだから。でもこんな頭のおかしな僕でさえこうして元気に生きている。
だからもしあなたがもういますぐに死にたいと思うのなら、とにかくもう死にたくてたまらないのならこの文章を読んでここで僕と話しをすれば良い。僕は普段はどちらかと言うと無口な方かもしれないが、文章であれば無限に喋ることができる。だから僕はここでずっと喋っているので、あなたは軽く流しながら聴いていれば良い。相槌がある方が嬉しいけれどそれどころでないのならそれも必要ない。全部真面目に読む必要はない。理解する必要もない。とにかく聴いてさえいれば良い。聴いてさえいればあなたは死なない。ちゃんと聞く必要もまったくない。良いですか。
 じゃあまずは僕のことを話す。僕は兵庫県の神戸市に住んでいる27歳の男だ。産まれは神戸市ではないが、生粋の神戸っ子という顔をして暮らしている。前は働いていたがいま仕事はない。お金もない。どれくらいお金がないかと言うと、このまま行くと今月末に携帯が止まってしまうくらいお金がない。でも呑気に家で一日中本を読んだり、YouTubeを見たり、音楽を聴いたり、何もしないでいたりして楽しく日々生きている。なかなか悪くない日々だ。
 子どものころは野球選手になりたいと思っていた。いま思えばそんな才能もなかったのだが、当時は結構真面目に自分はなれるはずだと思っていて、イチローの本とか読んでいた。好きな野球チームは阪神タイガースで好きな選手は鳥谷敬という選手だった。鳥谷が好きだったので彼のピンク色のリストバンドを親に買ってもらって、実況中継があるときには手首にそれをつけて見ていた。家はシングルマザーであまりお金に余裕もなかったので公営住宅に住んでいたのだが、その部屋でメガホンを叩いてテレビに向かって応援していたので親に苦情が行って怒られたこともあった。阪神が試合に負けるとまるで自分が損なわれたように感じ、しばらくはぐったりしていた。それぐらい昔は熱狂的なファンだった。
 中学生になると野球部に入った。でもあまりに中学校とウマがあわなかった。学校の宿題をしたり、学校に遅刻せずに行ったりということが徹底的にできなかったのだ。部活の顧問は厳しかったので、宿題をちゃんとやってこないと練習には参加させてもらえず、その代わりにひたすら外周をさせられた。でも僕は昔から持久走だけは得意だったので、外を何周走っても全然疲れなかった。毎日皆んながノックやフリーバッティングの練習をしているのを外から見つつ走りながら、暇を持て余している当時の僕はいろいろなことを考えた。どうして中学校というのはこんなに面倒なのだろう。先生はなぜ怒って言うことを聞かせようとするのだろう。どうして親は宿題をしないことでそんなに怒るのだろう。なぜ僕は宿題をできないのだろう。これから野球選手になるにはどうすれば良いだろう。どうして自分は野球選手になりたいのだろう。どうして先輩はこんなに威張ってくるのだろう。先生はどうして威張っているのだろう。どうして僕は彼らが怖いのだろう。どうして怒られると足が震えるのだろう。疑問は無限にあり、考える時間もまた無限にあった。
 そんなひとりでの熟考がいききると、僕はもうどうしようもなくなってしまった。僕の考えでは、ここにいるともう怖くておかしくなってしまうということだった。毎日学校から電話がかかってきて指導が入り、頻繁に担任の先生が家に来ていた。そして母から怒られるので、家にいるといつも恐ろしかった。僕はだんだんと学校に行かなくなった。いじめられているというわけではなかったので、心配した友達が毎日朝迎えに来てくれていたが、僕はどうしても学校に行く気にはなれなかった。でも学校に行かなければ母に連絡が行き、僕は帰ってきた母に怒られる。もう板挟みでどうしようもなくなった僕はここを出てゆくしかないと思った。中学2年生のときだ。
 そして僕は家出をした。大丈夫だとは思うが、ここで書いてある話はどこにも書いたりしないでほしい。これはごく個人的な話で、これはあなただけに語っているオフレコの話だからだ。そして家出をして、インターネットで知り合った人を頼って神戸からフェリーに乗って大分まで逃げた。もはやあまり覚えていないが半年くらいにわたっての家出だった。最後は大分のどこだかもわからない道を歩いていたところで警察に補導された。全てが終わったあと、児童相談所のケースワーカーにもう少し発見が遅かったらテレビのニュースになってしまっていたと言われて、そのとき初めて自分のしたことの大きさを知って恐ろしいと思った。いま思えば、ニュースになるくらいなんだと思うが。
 それから色々あって児童養護施設に入所した。そこで大学を卒業する間際ぐらいまでいた。そこでの生活で知った一番有益なことは、世の中にはいろんな人間がいるということだ。いろんな出自の人がいて、いろんな性格を持つ人がいる。当たり前のことかもしれないが。でも当時の施設には普通の基準からして特に個性的な人間ばかりがいて、彼らとの生活は刺激的で大変で、でもとても楽しいものだった。だからその中では僕は自分を否定的に省みる必要はなかった。
 そこでの生活では本当に色んなことがあったが、ひとつ印象的だった話をしたい。それは中学3年生のとき、僕と同い歳の男の子が学校帰りにタクシーに轢かれたときのことだ。彼は赤信号だったのに先を行っていたみんなに追いつこうとして無理やりわたったところを、轢かれてしまったのだった。でも幸い彼は骨折と顔の傷で済んだのだった。もちろん顔は血だらけで身体は動かなかったので、即座に救急車に運ばれていったが、まあ車に轢かれたにしては全然無事といってよかった。彼はその後、警察か誰かにそのタクシー運転手を罰してほしいかどうか訊ねられたらしい。もし彼がイエスというのなら、それを事件として取り扱うが、どうする、と。すると彼は罰しないで良いと答えた。俺は良いやつやから、と言ったそうだった。病院から帰ってきた彼を最初に見たのはある日の夕食のときだった。彼は松葉杖をついて顔にも包帯を巻いていた。その姿を見て全員で爆笑したのを覚えている。不謹慎だが、ご飯を盛った彼のお椀に箸を挿した奴もいて、それもみんなの笑いを誘ったのを覚えている。怪我をした彼もまた笑っていたが、彼はでも笑わないようにしているかのようだった。というのも、彼は口を切っていたので笑うとそれが痛むらしかった。それを知った皆んなは何とかして彼を笑わせようとした。変な顔をしたり、彼をくすぐったり、おちょくったり。その日ほど全員の食事が進まない日はなかった。全員がずっとげらげら笑って、怪我をした彼もまた必死に堪えながらも笑ってしまっていた。僕はなぜかそのときの彼の言葉——「やめてや、笑うと顔痛いねん」——が、どうしてもかわいらしくて忘れられない。それは僕の施設での生活でもっとも美しい瞬間のひとつだった。
 それから僕は高校に進学し、大学に入学した。もうどこまで書けば良いのか分からなくなってきたのでそろそろ終わるが、とにかくそうして僕は大学生になった。それから本を読むようになり、小説家になりたいと思うようになった。そしてそのために大学院へは文学研究科に進み、自分なりにその修行を積んだ。
 でもなかなか芽は出ず、いまに至る。死を試みるその間際も考えたことは小説を書くことだった。思い残したことがあるとすれば、それは書くことだと思った。でもそれももう無理だと思って首をつった。そしてご存じの通り失敗した。失敗したおかげで、その後ようやっと小説を書き上げることができるようになったのは奇妙な話だと思う。でも、それも結局のところ生きてさえいればなのだ。死んだら書けないのだから。だからあなたも生きていて欲しい。もはや死ぬと決めた人間に対して僕ができることはもはやお願いだけだ。お願いだから生きて欲しい。もしあなたが自分の人生はもはや生きる価値がないと思うのなら、僕を生きる価値の頭数に入れてくれてもいい。僕はいずれ書くことで世に出る——と勝手に思っている。そしてそうなったらサイン会を開くからそこで会おう。そのときにあなたがあの文章を読んでここにきました、と言ってくれたら、僕は飛び上がって喜びと思う。それって楽しそうだと思いませんか?それで本に100個くらいサインをしてあげる。100個もサインがある本なんてどこにもないのだから、絶対に面白いと僕は思う。なんか少しでもわくわくしてきませんか。生というのは、あなたがたとえ否定しようとも、それだけで祝福されたものだ。誰も祝福しないというのなら他の誰でもない僕が祝福する。僕はあなたが生きているのなら嬉しい。死ぬのなら悲しい。あなたがあなた自身に死んで欲しいというのなら、僕は生きていて欲しいと言う。民主主義であればこれは一対一で決議できない。僕はあなたが生きることを祝福する。祝福で足りないのなら感謝する。ありがとう。この言葉は心の底から言っている。あなたが死にたいと自分に言うよりも深いところからこの言葉をあなたに向かって言っている。たしかに、生きるということは大変だ。ただ息をするだけで辛いということはある。僕にしてみても、いまだにもうどうしようもないと考えてしまう。でもそれでも生きているし、死ぬことは選択肢から外そうとしている。生きるとはそのまま、この面倒くさい人生というものにうんざりし続ける、ということだ。だからひとりではなかなか大変だ。だからもしあなたがそれで良いというのなら、僕と一緒にやっていこうと思ってくれたら良い。生きるのしんどい同盟でやっていきませんか。面倒なことでも、他の誰かと一緒ならやりやすいかもしれない。だからせめて今日だけは死ぬのをやめて欲しい。それで明日も更新する記事を読んで欲しい。少しは役に立つだろうし、僕も読んでくれる人がいるとありがたい。だから今日は生きてみませんか。別に楽しい一日である必要はない。生きるということが、あなたが生きているというその事実が僕にとっては嬉しいのだから、せめて僕を喜ばせるつもりで生きていてくれませんか。もしそうしてくれるのなら、僕は他には何もいわない。どうかひとつ、お願いします。



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