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生きるための自殺論⑦ 自殺の根源を探る

生きるための自殺論⑦ 自殺の根源を探る

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 何か問題があったとき、僕はそれが二度と起きてしまわないよう原因に対して徹底的に対応するという癖がある。誰でもそうなのかもしれないが、僕の場合は過激にやってしまうところがあって、そんな僕を見た他人が閉口するということもときどきあるくらいだ。たとえば僕は数年前からひとり暮らしをしているのだが、ある新年早々の一月三日に鍵を無くしてしまって寒いなかずっと部屋に入れなかったという経験をして以来、外出するときも部屋の鍵を一切閉めないことにしている。理由はごく単純だ。鍵を閉めなければ後で入れないという事態は絶対に起こらないからだ。
 それと同じように自殺未遂を経験してからは、当たり前のことだが僕は、もう絶対に自殺をしないようにしたいと思うようになった。そうしてこれまでの連載で書いてきたような自分なりの対策を考え出してきたが、それはあくまでも対症的なものに過ぎないという思いも僕のなかにはあった。もう同じことを繰り返さないためにはそもそもの原因を取り除く根治的な改善が必要だと、僕は思っていた。
 でも自分の自殺という行動を原因論的に考えてみたとき、自殺というものの根源とはいったいどういうものなのだろう。それはあれこれ考えてみてもよく分からなかった。善良な悪魔を自分のなかから完全に追い出すことはできないし、そんなことはすべきではないという思いもあった。だから僕は少し目線を変えてみることにした。死というイメージを絶えず抱えている自分という人間について考えてみるのはどうだろうと思ったのだ。自分はどこから来たのか。それはつまり自分という人間の源流を見にいくという作業だった。自分という川が流れているとして、僕はその川を上流に向かって歩いていってみることにした。精神的な意味で、自分の故郷を訪ねてみる必要があると僕は思ったのだ。そうすればこの自殺という行動の意味がわかるのではないかという気がした。完全には理解できなくとも、とにかく何かがそこにあるという気がしたのだった。そしてもしその根源を癒すことができれば、これ以上ないことだと思っていた。
 だからこれはごく個人的な話になると思う。普遍性があるかはわからないし、もっと言うとこの作業はまだ途中のものだ。そもそも終わりがあるかどうかも知らない。旅の記録のようなものだと思ってもらっても良いかもしれない。僕はこういう土地を訪れ、こういうものを見た。ゲストにすぎない旅人が訪れた土地の全てを知ることなどできないように、僕のこの文章もまた完全ではない。でももはやブラックボックスではないということもまた、僕にとっては事実だ。
 何はともあれその自分を辿る作業として、僕は小説を書くという方法を選んだ。僕は自分の長所は運と勘の良さだと思っているのだが、僕の直感がこっちだと言って小説を書く方を指差しているような気がしたのだった。でも正直なところ、僕はあまり乗り気になれない気持ちもあった。というのも、もうこれまでに何度も書いてきているように僕は小説を書きたいと思いながらも小説を書き上げたことがなかったので、当時の僕は小説を書き始めるということに対して大きな不安感があったのだった。もう書けない自分に失望するのが嫌だった。
 でも結局僕は小説を書き始めることにした。それは一つには善良な悪魔との闘いに慣れていたということもあった。またもう一つには、もはや上等な作品を書き上げようという発想が頭になかったからだった。これは何か公募の文学賞に出すことを目的としていない自分に向けての自分のための文章だと思ったからだった。その文章には成功も失敗もない。すべてがただ自分自身のありようでしかない。そんなふうにある種ひとつ吹っ切れて書き始めることができたのだった。
 ともかくそうして僕は小説を書き始めたが、それは自分のなかに潜ってゆくような作業だった。僕のイメージではスキューバダイビングのようなイメージだ。たったひとりで海の深いところへと潜ってゆく作業。最初は陽光が差し込んで明るく、さまざまな小魚が行き交う水のなかを泳いでいる。でもそこからさらに潜ってゆくにつれてあたりはだんだん暗くなってゆき、やがて聴こえるのは自分の呼吸する音だけになる。真っ暗で静かな場所。そこは思わずひき返したくなるほど恐ろしい場所だが、それでも気張って先に進んでゆくと最後には、その海底にある都市を見つける。恐ろしくて美しい都市を。それが小説を書くという作業なのではないかと僕は思う。
 僕がその小説を書いてゆく上で大切にしたのはたった二つのことだけだった。リズムと音程。僕はいまだに芽の出ないアマチュアの書き手に過ぎないが、小説を書き始めたときから、その二つだけは絶対に大事にしている。自分のなかに流れている文章のリズムに従って言葉を紡ぐこと。小説が要請するところの音程を守ること。音程というのは自分でも上手く表現できないのだが、その小説が持つ雰囲気といったら近いかもしれない。
 そしてリズムに乗って書き進めていったら、どこかのタイミングでそのリズムからわざと外れる。そうすることによって別のリズムが始まり、それがある種の小説的なダイナミズムに変換される。そんなふうにリズムに乗ることとそこからの逸脱を最後までひたすら繰り返してゆき、物語という音楽が無事終わることができればその演奏は成功だ。
 これはだからある種の儀式みたいなものだ。どこかの山奥の村で、村人たちが太鼓を叩いたり歌を歌ったりしてその土地の神様と交流を試みるように、僕にとってはリズムと音程によって小説という音楽を奏で、自分のなかにある神様、つまりもっとも自分でありながら自分ではないものと接近するという営みだ。僕は文学というものを、言葉によって言葉では表現しえないものを表現する営みだと勝手に定義しているのだが、言葉では表現しえないものを表現するためには自分の理性的な発話主体から外に出る必要がある。そのためにリズムと音程という他者に身を任せる。そうして、自分で主体的に書くのではなく書かされるような仕方で書く。それはたとえば恐山のイタコが、イタコ本人が発話しながらも実際は死者の言葉を発しているのと同じような具合かもしれない。
 そんな方法で僕が書き上げたのが「ボードゲーム」という題の短編小説だった。3万字くらいの短いものだが、結構苦労して二ヶ月くらいかけてようやく書き上げることができた。
 物語の主人公は僕と同じ二十代の男だ。彼には最近離婚したばかりのシングルマザーの姉がいて、彼女の小学二年生の息子——つまり主人公にとっては甥——の子守りを頼まれるという話だ。適当に割愛しながらあらすじを説明すると、姉に子守を頼まれた主人公の「私」は息子とクアルトというボードゲームをしながら自分の子ども時代のことを思い出す。家は常に荒んでいてカオスな状態だったこと、姉と同様にシングルマザーだった母がよく家に知らない男を連れてきていたこと、母にいつも怒られていたこと、自分が生まれたとほぼ同時期に両親が離婚したという話を聞いたこと。そんなふうにひたすら回想をしてゆく。
 すると主人公はやがて保育園の頃のことを思い出す。彼は昔からひとりでいることが好きで孤独で寂しいという感情を感じたことがなかったが、昔は、園児の頃はそうでなかったのではないかと思う。彼は保育園でいつも最後に迎えがくる子どもだった。外はもう暗くなっているのに母はまだ迎えに来ないなか、幼い彼はけんけんを連続で何回できるかということの記録に挑戦したり、あやとりの難しい技を習得しようとしたり、保母に教えてもらいながら数字を千まで数えたりした。どうしてそんなことを自分はしていたのだろうと彼は考える。そしてそれはきっと母に褒められたいと思っていたからだと思う。それから彼はさらに遡って、産まれてまもないときのことを思い出す。まだその頃は祖父母の家にいた彼は両親が夜、彼がベビーベッドで眠っている時に諍いをしていた声を思い出す。その内容を思い出す(あの子を産まない方がよかった)。そのときに覚えたどうしようもない不快感を思い出す。でもそれを堪えて泣かないようにしていたときのこと思いだす。
 僕はもはや自分自身そのものを書いているこの文章を書いているとき、気づかないうちに涙を流していた。それは本当にとめどないほど流れてきた。でも別にそれは悲しくて流していた涙というわけではなく、どちらかというと許されたことによる涙という気がした。何が許されたのかは正直良く分からない。でもそれは自分と和解したような感覚だった。自分のなかの氷が溶けて、溶け出した水が流れ出てきたというような具合だった。
 それから色々あってこの物語は終わるのだが、あまり結末は重要ではない。僕はこの文章と出会うために小説を書きたかったのだと思った。自分が無視してきた寂しさの根源を知るために。そしてその根源は半年前の自殺と繋がっているものだった。そのことを僕はストーリーによって全身で理解したような感覚だった。だから、これを言葉で説明することは非常に難しい。でもたぶん結局のところ、僕は母に認められたいという渇望があったのだろうと思う。能力や資質ではなく、単に自分がここにいるということを。でもそれが満たされないために、それを裏返すようなかたちで自分のなかに仮想の母を作り出し、それに従うということにしたのだろう。それがきっと善良な悪魔という存在で、だからその悪魔はずっと自分のことを認めてはくれないのだろうと思った。
 もちろんこれはまったくの勘違いなのかもしれない。全ては小説を書いているなかで得た非論理的な直観にすぎないからだ。でも僕にとってはこれが真実だという気がした。そういう迫力があった。だからこれを自分の中での真実だというふうに認めてあげることにした。そうして僕は自分で自分を認めてあげることにした。寂しくて母に認めてもらいたがっている子どもの自分を抱きしめるようにして、僕はその少年がちゃんとそこにいることを認めてあげた。そうすると、自殺未遂後からずっと胸のなかにあった、気分を悪くさせる不安感が霧消してゆくようだった。
 以上が僕の旅の記録だ。僕はこの小説を書いてからというもの、焦る気持ちというのがとても減ったという感じがある。これまでは常にもっと経験を積まないと、とか、もっと本を読まないと、とか、もっとお金を貯めないと、とか何に対するか良く分からない焦燥感があったのだが、それがめっきりなくなってしまった。だからこうしてお金もないのに楽観的にこの連載を書くことに打ち込んだりできている。それに加えて、これを書いてからはあまり新しい小説を書こうという気すら起こらなくなった。これにはさすがに焦る気持ちもないではないが、でもいずれはまた書くことにはなるだろうとも思っている。
 後日談として、以前にも書いた友人の心理士とこの小説について話しをすると、それはライフストーリーワークという心理療法の作業に近いところがあるということを教えてもらった。ライフストーリーワークとは、いろんな人や記録によって自分の生い立ちを整理してゆくことで自分という存在を肯定的に捉え直してゆく、という作業らしい。たとえば幼児の頃に親に捨てられて施設に入ったと思っている子どもが、大人になってから昔いた乳児院を訪ね、そこで当時の保母に話を聞いたり当時の記録を見返したりするなかで、母が自分を憎んで捨てたのではなく、さまざまな事情からそうするほかなかったのだと知ることで、自分という存在と自分と母との関係を捉え直しすることができる、というものらしい。僕はその話を聞いて、自分がやったのとまさに同じことだと思った。自分の過去と出会い直し、その過去を再評価する。そうすることによってはじめてひとの傷は癒されうるのかもしれない。心の深いところにある傷はバンドエイドや薬では治せない。そうではなく、それを自分の足で見にいって、そこに傷があるということをちゃんと認めてあげてはじめて回復が始まるのかもしれない。それは傷じゃない、あなた自身だよ、と言ってあげることではじめて。
 
 
 ということで長い連載も、ようやく次回で最後だ。全部の記事を読んでいる人はたぶんいないのではないかと思うが、もしいるなら凄いことだと思う。どこの誰とも知らない素人のこんなにも個人的でややこしい話に耳を傾け続けてくれるなんて。でもとにかくここまで読んでくださり、ありがとうございます。次で最後なので、ここまできたのならぜひ我慢して最後も読んでもらえればと思う(笑)。
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