息子達に伝えたかったこと―長崎原爆の記録―羽田恵美
この手記は、私の義理の祖母が書いたものです。全3回に分けて、こちらにアップします。お時間のある時に読んでいただけるととても嬉しいです。
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息子達は、戦争をしらない。
太平の世に育って、戦争がどんなものであったかあまり関心もない風なので、口下手の私も自然、話題にのせることも少なくて年月を経た。
最近新聞やテレビなどで長崎の被爆地の復元などとよく耳にするので、その都度昔のことが思い出されてしばし瞑想に更けることもある。
三十年にならんとする年月は、もう記憶をかなり薄れさせてしまった。
このままではやがて貴重なあの時の体験も、自分の心の中でさえ語ることもできなくなってしまうだろう。
年寄りから順々に死んで、私らがいなくなり、私らの次の年代が老もうしたら、これでもう原爆の記録は全く歴史の中にとじこめられることになる。
これまでに、もう何万何十万の被爆者によってすべて語られ記録され尽くしたことだろうが、私は私の体験をありのままに残してみたいと思いはじめた。
少し書いてみたら何となく書けそうなので、思いついたまま、断片的ではあるが正直に正直に記すことにした。
今となっては、もの覚えの悪いのに輪をかけて人の名も日時の前後もはっきりせず、或いはまちがって記憶したこともあるかもしれぬが、創作でないことは確かだ。
あと何年かして、もし孫にからかわれ乍ら、お縁でまるくなって日向ぼっこするもうろく婆さんになるまで生き永らえることになっても、この記録がある限り、これ以上薄れることなくいくばくか私の心の空白を満たしてくれるだろう。
他人に見てもらうなど思いもせぬが、息子達には話してやりたくても上手に話せなかった母の体験談として、一度は目を通すことはあってもよいと思う。
(s49.2.21)
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挺身隊の腕章をつけ、三菱兵器のトンネル工場の夜勤を終えて、朝帰りの我が家でやっと眠りをむさぼり始めた矢先だった。
夢うつつにゴロゴロゴロー と雷に似た音を聞いた様で、気がついてみると枕元の板戸がフワーッと頭の上にかぶさってきたところであった。
何事? と眠い目をこすり乍らゴソゴソとはい出し、表の部屋に出てみて唖然となる。
なんと!なんと!
雨戸、縁のガラス戸、障子、建具とゆう建具は原型もとどめず吹き飛んで、天井板もとび散り、畳は床から吹きおこし、こっぱみじんになったガラスが畳の下、上、砂利をまいた様にしきつめ、柱に突きささり、縁先の鴨居は折れてたれ下がり、壁は落ち、手のつけようもない廃墟と化しているではないか。
人生の大半を、仕事上住居を転々とした父が、老後の安住を求めてようやく新築してからまだ四年めのパリパリの家であった。
それはともあれ、庭にいた父は「これはとんでもない新型兵器らしいぞ。けが人がくるかもしれんから薬棚などかたづけて掃除しておけ。」といいのこして、同時に燃え上がった近所の火事の消火にあたふたとかけ出していった。
(燃え上がった家はわら屋根だった。我家より二、三百米爆心地に近い隣組のワラヤネは直ちにもえ上がり、逆に後方二、三百米離れたワラヤネは後できくところによれば一瞬火がついたが、後からきた爆風で吹きけされたという)
当時家族は父母と義姉二人、三つになる姪、それに私。
皆でとにかく玄関とその横の土間の部屋をはき出しにかかる。
薬棚もめちゃめちゃ、こわれた薬びんをとりのぞき、医療器具をそろえるうち耳に入ってきたのは、ヨイサヨイサ、ヨイサヨイサ ひときわ大きな父の声とともに隣組連中のバケツリレーのかけ声だった。
防火班長であった父が、ふだんから声を大にして訓練していた消火のかけ声だ。
いつもは一寸恥ずかしくも感じていた父の大声だが、この時ばかりはほのぼのと暖かく、たくましく、心の落ちつきをとりもどしてくれたものであった。
今でも耳の奥に残っている声である。
まもなく隣組の山崎のじいさんが町からの帰り道、後からあびせられた熱風で背中に大やけどをしてかけこんできた。
患者第一号だった。
それから、どう伝えきいてくるのか、ぞくぞくと運び込まれるけが人は、家に、庭に、道にあふれ、泣き叫び、うめき、助けを乞い、我が家はたちまち野戦病院となったのだ。
予備とはいえ軍医であった父は、さすがにてきぱきと重症者から治療台にのせ処置していった。 開業医ではないので設備とてなく、手持ちの医療具と、薬品はカルボール水のみだった。
ただ釜で湯をどんどん沸かして煮沸殺菌だけは充分した。
幸いなことに、三、四日前、当時町内近隣に一軒の病院もなかったので、万一にそなえ、町内会を経て縫合糸として絹縫糸と、ガーゼほうたいの代用としてよく洗った古ゆかた等の木綿布の寄附をつのり取りよせたばかりであった。
だからほうたいは色とりどりで、のぼりを引きさい
て作ったものなど、赤や青の派手なのを身体中巻きたてた笑えない負傷者の姿が家の廻りを右往左往した。
傷はやけどが多く、裂傷も傷口がめちゃくちゃで中から砂や異物がぞくぞくとでて、簡単に縫合できるものはなかった。ときどき敵機が上空に爆音を残していった。
田圃をへだてた向かいの県道を、地獄の底から這い出した亡者の列が、泣き叫び、親をよび、子をさがし、わめき、言葉にならぬ声を上げ、阿鼻叫喚
の有様で町の方から時津方面へ向かって延々と続いた。
電灯などもちろんつくものではないので、日暮れて目のみえなくなるまではピンセットを握り、見えなくなると父は、待たせていた青年の足の骨折に手さぐりで副木をあてほうたいをした。
誰にたのまれたわけでもなく、自分の仕事を天職として、当然の様に奉仕する父の姿は尊く、たのもしく私達も否応なく、ただ黙々と立ち働いて一日が終わった。
夜がきた。
昼間、警防団が応援にきて家の中のガラス破片などざっと掃除してくれていたので、とにかくふとんだけは敷くことが出来たが、 もんぺも靴もはいたままで横になった。
座敷や縁側や、裏の部屋まで重傷者や行き場のないけが人がごろごろと寝ていた。
長崎の町の空はまだ赤々と燃えている。
町でどんなことがあったのか。
とにかく大変なことがおきたのだと云う事だけがわかっていた。
横になって上を向いたら、 くらやみの中で爆風で吹き抜けた屋根の穴からお星さまがチラチラと見えた。
(s49.2.18)
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