息子達に伝えたかったこと―長崎原爆の記録3―羽田恵美
この記事は、下記を読んでからお読みください。
(こちらの記事は3番目の記事(3/3話目)です。)
被爆して逃げてきた人達は、たいてい裸同様のあわれな姿だった。
ずたずたに焼けちぎれたボロぎれが身体のあちこちにまつわり付いているという感じであった。
そのボロぎれさえ、途中で落ちてしまって、上から下まで何もない男の人がヒョロヒョロと迷い込んできた。
そんな格好でいても我が身のことでせい一杯の人達は目もくれず、ましてそれを見て笑う余裕などとても持ち合わせてはいなかったが、 みかねた母が古い浴衣を一枚出してかけてやると、彼は涙を流さんばかりに喜んで三拝九拝した。
駅の方によろめき去って行く姿は、魂のぬけた幽霊のようであった。
これから大阪の方面に帰るのだということだった。
たいしてけがはしていなかったが、この騒ぎの中で無事にたどり着くことが出来たかどうか、案じられた。
たとえ帰り着いたとしても、あの様子では例の症状が出て、もうこの世にはいないのではないかと、思い出すと想像はいつもそこに到達した。
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三原夫人のことを書いてみよう。
御主人は退役の陸軍大佐で父とは在郷軍人会での知りあいというに過ぎず、私達は一面識もなかったが、御主人の指図でさがし歩いて、やっとここまでこられた時は全くの着のみ着のままであった。
ご夫婦は倒壊した家の下敷きになり、やっと抜けだした夫人が、はりの間にはさまれたご主人を必死になって援け出そうとしたが、何としても動かすことが出きない。
「 自分はもうだめだから、お前は早く逃げよ」と云う御主人をそのままみすてられるわけもなく、意識ははっきりしておられたので話をかわしながら時が経った。
そのうち火の手は次第にせまりもう熱くなった、自分にかまわずに。
といわれて………………………………………………
ここまで書いて後がぷっつり絶えている。
四十九年頃の筆だから、数えてみると十四年の歳月が流れたことになる。
その間、息子達の学校、就職、結婚、出産、等々・・・いろいろあったわけだ。
そして今、老人会にも籍を置いて、物忘れ、身体の故障、など、いよいよ心身共に動きが鈍くなった。
でも今まで書いたものを何度も読み返してみると、霞のかかった過去が再びよみがえってくるような気がする。
続けてみよう。
「宮島をたよれ。」と御主人の最後の指示で訪ねてこられた夫人を、父は丁重に受け入れ、さし当たって我家で起居を共にすることになった。
軍律きびしいその頃、正直一徹の父は、一階級上の大佐夫人として礼をつくした。 指先の軽傷だけで他に何も悪いところはなさそうなのに、手伝いも何もしないでとりすましている(と見えた)夫人を、猫の手もかりたい思いの私達姉妹はつい陰口をたたいたりもしたが、今思えば、あの状態でご主人を亡くされたたショックはいかばかりであったか、思いやりのたりなかったことを反省する。
つまり私達は若かったのだ。
敗戦となって敵兵上陸のうわさが流れ、自決の覚悟も共にした。
女子供は避難せよの命令(?)で山の中に入って夜を過ごしたのも一緒だったはずだ。
その後、家に帰って何日たったのだろうか、夫人の健康はすぐれず、次第に弱って、我が家の一間でついに帰らぬ人となった。
どう連絡がついたのか、亡くなるその時は、娘さんとその弟さん(陸軍少尉だったか)がきて枕元に坐り、私達は庭に出された。
キリストの信者らしくて、親子水入らずでお祈りをしていたのが記憶にのこった。(S63.7.28)
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夜おそく誰かたづねてきて父が応対に出、外の暗やみの中でしばらく何か話をしていた。
あとで父の話の様子では、その人も医師で、重傷の息子さんの苦しみを見るにしのびず、楽にしてやる薬を求めてこられたらしい。
その薬を持ち合わせていて提供したのか、それとも何もなかったのか。
父も語らず、私らもそれ以上は聞きもしなかったが、この話はその後、何となくタブーとなって一切口にすることはなかった。
重傷の当人の苦しみよりも、その親の、そうせねばならなかった苦しみは幾倍か、あの混乱した騒ぎの中での、あまりにも悲しい一コマであった。
安楽死という言葉を耳にすると、胸の奥の奥であの夜のことがチラリと灯をともす。
(S63.7.29)
***
爆弾の落ちたその時、母は柿の木の下で草むしりをしていて被害はなかった。
父は畑仕事で桶を荷って庭先に立っていたが、ドカンときて気がついた時は、立っていた場所が数メートルちがっていたという。
つまり吹きとばされたのだろう。
私と二番目の義姉は、夜勤帰りで裏の部屋に寝ていたので被害は免れた。
上の義姉と姪が表の部屋で、 あれだけのめちゃめちゃの破片の中に立っていたのに傷もなく、とにかく全員無事で直ちに活動開始となった。
負傷者の手当てに明けくれて三、四日過ぎた頃だったか、上の義姉が後首すじに傷みを訴えて、父が診ると、二、三糎の細長いガラスが横につき刺さっていた。
それまで夢中で我が身のことなど考える間もなかったのだろう。
柱につき立ったガラス破片の勢いをみても、よくまあこれくらいの傷ですんだものだと、心寒い思いであった。
(S63. 7. 30)
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いつだったか、父も早く亡くなり、母ももう晩年になってから、 里の家でまたあの時の話が出た。
「私達、つまりはみんなただの奉仕だったのよねぇー。」
報酬のことなど誰も考えてもいなかったのはわかっていたけど、何の気もなしに私がつぶやいた時、
「百円もらったよ。」
経済観念まるで無頓着の父に、長年連れ添って家計のやりくり四苦八苦の生活に明け暮れた母が、ぽつりとむぞうさに云った。
知らなかった。
市からか、県からか、いつ頃のことだろう。百円の値うちがまだたっぷりあった時なのか。
あの激動の時。
ちなみに敗戦のおかげでぷっつりうち切られたが、それまで貰っていた父の軍人恩給が月にして百四十円
位だったと思う。私が兵器工場で一ヶ月汗水流して手どりの五十円から六十円。
昭和二十二年十一月に結婚した時はもう旦那さまの役場の月給千円であった。(H20.8.9)
*****完
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
2010年に長崎新聞の「私の被爆ノート」に祖母の体験が掲載されました。
その記事の最後に、記してあった祖母の思いを引用します。
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