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自分を擦り減らして相手に差し出してしまう理由。

人から感謝されることが嬉しかった。
自分の価値・存在意義を感じることができて満足していた。
それだけでいい、そう思っていた。
そう、納得しているつもりだった。

その人は、知り合ったばかりの私に全幅の信頼を寄せてくれた。
辛い過去の記憶に苦しめられていることをとうとうと話し続け、初めて楽になれたと喜び、私に出会えたことを奇跡だと言ってくれ、私のことを本当に大切な存在だと繰り返した。
私は、距離が縮まるまでの時間の短さに多少の戸惑いを覚えつつも、「自分の価値を認められている」と感じられる喜びをじんわり噛みしめていた。

人の話をひたすら聴くことで感謝されることは、これまでの人生の中で自分が最も満たされることだったといっても過言ではないと思う。
自分を最大限に生かしていると実感できる瞬間が、いつもそこにあった。

でも、その喜びを上回り、果ては飲み込んでしまうような苦しみが常にセットになっていた。
3時間~4時間もの間話を聴き続け、時間も体力も使い果たしてしまう時期を経ると、私はその相手との関係を維持することができなくなった。
相手の話を聴くことはもはや苦痛以外の何物でもなくなってしまっていた。
「不毛な関係」と一口に言ってしまうのはあまりにも寂しいが、私の間違った形の献身がもたらす結果はたいてい同じ場所に着地していた。

相手の話を一生懸命聴くことの喜びとやりがいは確かに感じているのに、その結末は決して望ましいものではない。
このパターンを変えなければ。
でも、どうすればいいのか分からなかった。

出会ったばかりのその人は、何通にもわたる長い長いメールに溢れんばかりの辛い思いをしたためて送ってきた。
それを読むたび、これまでのパターンが脳裏をかすめた。
今回もまた、同じことを繰り返してしまうのだろうか。
うっすらとそんなことを考えていた矢先、ある出来事が起こった。

その人と私は久しぶりに会う約束をしていた。
ランチやお茶をするためではなく、その人の「付き添い」をすることが目的だった。
現時点で心身共にぎりぎりの状態で過ごしているその人が自身のためにどうしてもやらなければならないことがあり、そのためには私の同行をぜひともお願いしたいという申し出だった。
その付き添いは「仕事」として請負うことになっていたのだが、諸事情により中止となった。
私が家を出る準備を始めようとしていた時にくれた電話で、その人は私への詫びと共に、このまま今から話を聴いてもらえないかと告げてきた。
そして、もともと仕事として依頼していた時間なので、話した分の支払いをすると言ってくれた。

人の話を聴くことで報酬を頂く。
かつてカウンセラーを目指していた私が、挫折してからもぼんやりと夢見ていたことだった。
それがふいに、小さいながらも現実となった瞬間だった。

「自分が全身全霊を傾けずにはいられないこと」が、その価値をきちんとした形で認められ対価を支払われる。
これまでは「自分がどんどん擦り減っていくような虚しさ」を感じたあげく、「こんなふうに感じてしまう自分には本当の優しさや思いやりがないんだ、器が狭いんだ」と自分を責めることの繰り返しだった。
その苦しみから解放されるための答えがここにあった、と思った。

でも、言うまでもなく、私はプロのカウンセラーではない。
今回はあくまで相手の方から申し出てもらったことで、先に知り合いとして関係ができていた上での「『厚意』を伴った契約」である。
私はそう捉え、支払いについての具体的な相談は先方主導とすることにしようと思った。

約4時間の「カウンセリング」を終えた後、数回のメールで料金や振込先などを決めるやりとりをして、私は料金が振り込まれるのを待った。
その人が様々な仕事や事情を抱えていることは承知していたので、それなりの時間がかかることも予想していた。
けれど、その人からの連絡も振込通知も、一向に来なかった。

「初めてのカウンセリング」から一週間経った日、その人からメールが届いた。
それは「今の苦しい気持ちを聴いてほしいので、今晩カウンセリングをしてもらえないか」という内容のものだった。

まだ、この間の支払いがされていないのに。
私の中に浮かんだのは、この率直な思いだった。

でも。
その人の置かれている状況を、私は理解している。
このたびの「カウンセリング」と呼んでいるやりとりは、初めにあったお互いの信頼関係をベースにしている。
相手も、これらのことを踏まえているはず。
「契約ありき」の関係ではないという姿勢を貫くべきか。
相手のことを親身になって考えるなら。
自分が本当に優しい人間なら。
「人の話を聴く」ことに、自分が誇れるだけの情熱を傾けることができるなら。

しばらく考えた。
そして、もらったメールに返信した。

「きょうのカウンセリングの希望については承知しました。
お引き受けする前に、お願いがあります。
お支払いの期日を決めさせてください。
あいまいな状態でお話を聴くのは私自身が辛く、またそのような心持で向き合うべきではないと考えます。
諸事情あることは承知しておりますので、負担のない方法を相談させてください。
今のタイミングでこのような内容をお伝えするべきか迷いましたが、ご理解頂けるものと信じております。」

相手の置かれている状況を鑑みれば、現時点でのこの対応は間違っているのかもしれない。
その人が寄せてくれている「全幅の信頼」を、ばっさり断ち切ることになるのかもしれない。
そんな自分を、またしても責めることになるのかもしれない。

でも、今は、自分の中に生まれているもやもやした気持ちときちんと向き合いたいと思った。
気軽に使われていると感じ始めていること。
約束を守らなくても「信頼関係があるから大丈夫」と思われていると感じ始めていること。
つまりは「大切にされていない」と感じ始めているということ。
そこに蓋をしてはいけない。
というか、もう「蓋はできない私」になっていた。

相手の気持ち・都合を考え、思いやることは私が最優先してきたつもりのことだった。
そのためにひどく消耗し、みじめな気持ちになることがあっても、やめることができなかった。
話を聴くのをやめることは、すがりついてくる相手を切り捨てるようで(切り捨てるように思われる気がして)怖くてできなかった。

でも、それ以外のもっと重い理由があった。
それは、相手を大切に思うからでも、思いやりが深いからでもない。
私自身が「自分を犠牲にして相手に尽くす」ことで自分の価値を証明しないと生きていられなかったからだ。
相手を思いやること(フリ)をやめてしまったら、私は相手にとって「価値ある存在」ではなくなってしまう。
「冷たく愛情のない人間」だと思われてしまう。
そんなの、耐えられない。
それこそが、私の「本音」だった。

自分の価値を証明することと自分を擦り減らすことは、私にとってはまさにコインの表と裏だった。
自分を擦り減らすまで頑張らなければ自分の価値を認めてもらえない。
自分を擦り減らすまで頑張らなければ自分には価値がない。
それらは間違いなく、これまでの自分にとっての「真実」だった。

自分を擦り減らして相手に差し出しているから、自分の期待通りに認めてもらえないと「軽く扱われている」と感じてしまうのだ。
相手が自分を軽く扱っているのではなく、自分が自分を安売りしているだけなのだ。

私はここまで自分を擦り減らしてでも「認められたい」と思っているのか。

相手へのもやもやした気持ちをじっと見つめていたら、ふいにそのことに気づいた。

今、私がフォーカスすべきは相手の気持ちや都合ではない。
私自身が自分を低く見積もっているということ、それゆえ相手への不満を募らせているということ。
もっと言えば、「自分を擦り減らして差し出す必要がある相手(自分を利用することで価値を付加し称賛してくれる相手)」を選んでいるのも自分かもしれないということ。

自分を擦り減らすことなく人と接することができるようになるには、今以上の価値を自分に付加しなければならないと思っていた。
でも、そうでないことに気づいた。

「軽く扱われている」と感じたもやもやをきちんと見て、どうしたらすっきりすることができるのか考え、気持ちを相手に伝える勇気を出した。
その瞬間、「自分の価値が上がった」のだ。
言い換えると、もやもやを「大切にすべき価値のあるもの」として自分がちゃんと認めたから、「自分は大切にされるべき存在だ」と感じられたのだ。

自分の価値は外の世界から引っ張ってくるものではない。
自分で自分の中から掘り起こせるものなのだ。

補足になるが、前述のメールに対する相手からの返事には、支払い方法についての提案はあったが期日についての記述はなかった。
自分の気持ちについてさらに正直なことを言ってしまうと、私は期日が遅れていることへのお詫びや気遣いのような言葉を期待していた。
それがあれば、指定された期日が先に延びたとしてもそれなりの理解と許容心を持って受け入れることができるように思っていたのだが、そのような意味の言葉はなかった。
そのくらい、今の相手には精神的な余裕がないのだと理解することにした。

今後、相手との関係に何らかの変化が起こるのかどうかは分からない。
ただ、自分の気持ちを相手に伝えたそのときから、この先どうなってもそれを受け入れるだけだという気持ちになった。
「自分の価値を証明すること」に縛られていたのが、「自分を消耗させるようなことはせず、目の前の人と楽で楽しい関係を作ること」にシフトチェンジしたのかもしれない。

とはいえ、「自分を擦り減らして差し出す」のは無意識にやってしまっている「クセ」でもある。
チェンジしたはずのシフトがいつの間にか元の位置に戻っていることもたびたび起こるだろう。
そんなときは「あ、またクセが出た😝」と思うことにする。

※「報酬を受け取り話を聴くという行為」について
今回の件を通して、やはり安易に引き受けるべきことではないと感じた。
自分の軽率さを痛感・反省している。






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