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大切なものを失った。「本当の自分」で生きていなかったから。その⑥

大好きだった元主人は、今は遠い宇宙の彼方にいる。
私と別れた後再婚した妻の異常行動から会社と子供たちを守るため、彼は自ら命を絶った。

もし私が「ありのままの自分」で生きていたら、彼とは出会わなかったかもしれない。
そして彼は、もっと長生きしてもっと幸せに暮らしていたかもしれない。
そんな考えが今も浮かんでくる。

子供たちは、亡くなった父親を心から尊敬している。
元主人は、子供たちに対してとても厳しかったらしい。
その様子を見かねて、義父が彼をたしなめたこともあったそうだ。
義父自身が自分の息子たちに対してとても厳しい人だったので、その話を聞いてとても驚いた。
それでも、子供たちは父親の強い愛情をしっかりと受け止めていた。

「子供たちは母親に捨てられたと思っているよ。」
以前、彼にそう言われたことがあった。
私には「捨てた」という意識は全くなかったので、とてもショックだった。
家を出てからもできるだけ子供たちの世話をしに行こうと思っていたが、会うことも連絡を取ることも禁止されていた。
でも、私から家を出たことには変わりない。
その事実は、「捨てた」も同然なのだった。

子供たちの入学も卒業も誕生日のお祝いも、何一つしてやれないままここまできてしまった。
私自身、自分の生活を支えることで精一杯だった。
その状況は今も変わらず、気づけば50代になり、自分の老後も視野に入ってきていた。

主人がいなくなった今、私が目指すこと・望むことは、「子供たちが困ったときに頼れる存在であること」。
自分自身が健康で、それなりの生活力を持ち、何より「楽しく幸せに暮らしていること」。

今までは、自分のためにお金を遣うことに強い罪悪感を抱いていた。
子供たちはこれまでたくさんの忍耐・我慢を強いられてきたと思う。
一方の私は、こんなに楽で自由な暮らしをしている。
子供たちのために何もできていないのに。

じゃあ、もっと努力すればいい。
私よりもっと大変な状況で頑張っているシングルマザーの女性は山ほどいる。
けれど私は、彼女たちのようには頑張れなかった。

離婚直後は暮らす部屋を見つけられずしばらく実家に住まわせてもらっていたのだが、離婚に反対していた母とうまくいかず、居づらい思いをしていた。
家を出る直前から始めていた給食調理補助の仕事は、通勤に一時間半ほどかかっていた。
2か月ほどたったある日、回転性のめまいで動けなくなり、2週間ほど仕事を休んだ。
その後も仕事を転々としたが、完全に回復するまでは数年かかった。

元主人が亡くなったと同時に、それまで7年続けた派遣の仕事を辞め、正社員を目指して転職した。
子供たちのために使えるお金を少しでも増やしたかった。

始めたのは保険のカウンターセールスの仕事だった。
ノルマのプレッシャーと人間関係の辛さ、何より「仕事のできなさ」に絶望して、半年で辞めた。

派遣の仕事に戻ってからも何とか収入を増やそうと、学習塾の受付のパートを始めた。
派遣の仕事は比較的楽だったので何とか続けられたが、休みが一日もない生活を10か月ほど続けて体力の限界を迎え、派遣契約終了と同時にパートも辞めることにした。
辞める理由は体力の問題だったが、ここでも自分の「できなさ」に苦しめられていた。

直近で勤めた会社で働くことを決めたのは、派遣から正社員への登用の可能性があったからだった。
けれど、ここでもうまくいかなかった。
事務員は私ひとりだけだったので、いわゆるマルチタスク能力が求められた。
仕事をなかなか覚えられずミスを連発する私を、上司は毎日罵倒し続けた。
手が震えたり思考がフリーズするようになり3か月で退職を申し出たが、辞めることができたのはさらに3か月経ってからだった。

一体、私には何ができるんだろう。
「できないことリスト」はほぼ完成した気がするが、今度は「できることリスト」についてもう一度ちゃんと考えてみよう。
そうしてたったひとつだけ思いついたのが、家事代行(掃除・整理整頓)の仕事だった。
初対面のお客様の家に行くことへの不安や多少なりとも要求される「要領・臨機応変」のプレッシャーがあったが、「とにかくやってみよう」と自分に言い聞かせた。

家事代行の仕事でも、自分の弱点は露呈した。
細かい部分まで手をつけすぎて時間が足りなくなる。
ポイントを絞って完璧さにこだわらないという、必要な割り切りができない。
お客様との対応に気を使いすぎてぐったりしてしまう。
それでいて、事務的な手続きに漏れがあったりする。

落ち込むことも何度もあった。
それでも、これまでの仕事と大きく違うのは「自分の丁寧さ」を評価してもらえる場面に多く出会えるようになったこと。
多少時間がかかっても、その結果を喜んでくれるお客様に出会えるようになったこと。

どんなに頑張っても、伺ったすべてのお客様から気に入ってもらえるわけではない。
評価されなかったことを嘆くのではなく、評価してくれるお客様を大切にしてもいい。
そんなことを知った。

私は、たぶん一般的な基準に照らすと「できないこと」の方が圧倒的に多いと思う。
そんな自分が、どうすれば「子供たちにとって頼れる存在」になれるのか。

「できないこと」をできるようにするための努力は自分なりにしてきたつもりだけれど、どう頑張っても「自信」はつかなかったし、「できないものはできない」と思うようになった。
では、どうしたらいいのか。

自分の能力の問題以前に、私の中にはずっと抱えてきた「灰色の塊」がある。
「自分はありのままの姿を隠している。周囲に対して嘘をついている」という、子供の頃からの後ろめたさ。
能力面についてどうしようもないのなら、この「灰色の塊」を何とかしよう。
そう思い、子供の頃のことを改めて振り返ってみた。

私は活発な子に憧れた。
私もみんなから気にかけられる存在になりたかった。
そんな思いから、活発な子の真似をした。
本当の自分でない自分を作り上げ、周りに馴染み、置いて行かれないよう、孤立しないよう、必死でしがみついてきた。
その全てに嫌悪感と罪悪感を持ち、「本当の自分」にならなければと思い続けてきた。
それらの思いが「灰色の塊」の正体だった。

これまで「本当の自分」になろうとし続けてきた。
でも、どう頑張ってもなれなかった。
どんなに本を読んでも、著名なセラピストの話を聞いても、自己暗示をかけようとしても、知識が積み上がっていくだけで何も変わらなかった。
できないものはできないのだ。
仕事の能力と同じだった。

そもそも、自分がなろうとしている「本当の自分」の中身とは何なのか。
そう考えたとき、ハッとした。

「みんなから気にかけられる存在になりたい」
「周りに置いていかれたくない」
そう感じていたことが、「本当の自分」だったのではないか。

周りに合わせることを止めてしまったら、私は生きていけない。
周りに合わせることが、自分が生きていくためにどうしても必要な手段だったのだ。
「本当の自分」がそれらの手段を使って、ここまで私を守ってくれたのだ。

私は「本当の自分」を隠していたのではなかった。
私はすでに「本当の自分」で生きていたのだ。

それを認めた瞬間、「灰色の塊」の輪郭がふっとぼやけた。
それまで「灰色の塊」が「感じる」ことを妨げていたことにも気づいた。
「灰色の塊」をなくそうとするのを諦めてきちんと見つめたら、それがいつまでも居座り続けていた意味が分かった。
「みんなから気にかけられる存在になりたい」
その思いに気づいて。そう訴えていたのだ。

もう、自分を責めなくていいんだ。
もう、自分を探さなくていいんだ。
もう、自由に感じていいんだ。
どんなに恥ずかしいことでも。みじめだと思うことでも。
たとえそれらが周りの人達と違っていても。理解されなくても。

感じる力さえあれば、それを信じて、それを頼りにして、生きていける。
自由に感じることを自分に許すことさえできれば、きっと、たぶん、生きていける。
状況は何も変わっていないけれど、「予感」だけはしている。
そう、「感じて」いる。

いつか、子供たちと再会して笑いあえる日のために。








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