妄想の日本史4

出雲神話と出雲大社とが 現存するのは 筑紫の君が
大国主命との 約束を守ったからです
また 国譲りに反対し 諏訪湖で水死する 勇者の話は 
義経の平泉での悲劇的最後を想うと
諏訪に 大きな王朝の存在を確信させます
更に 関東での 倭建命伝説 
なぜ 香取鹿島神宮は 神社でなくて神宮なの
妄想は果てしなく続く

倭は漢に 朝見してましたが
洛陽はあまりに遠く 直接権力が届かなかったので
権威は洛陽 実際の権力は太宰府という 二重構造ができました

この政治体制は とても優れていて
藤原摂関家 武家 ともに天皇の権威を利用することで 
自らの政治を安定させようとしました

勉強好きの家康は 鎌倉幕府の研究から 幕藩体制を作りました
鎌倉の 天皇将軍執権 
江戸の 天皇将軍老中 
この政治体制が 最も安定した形だと 家康は考えたのです

筑紫王朝に話を戻して 時代は三国時代
筑紫の君は 
呉の国を 唯一正当な国として 使者を送っていました
しかし 世の常として 反対勢力が現れ 異議を唱えます
それが卑弥呼です 
彼女は 
筑紫の君とは 天照大神を共通の先祖をもつ
大いなる分家で 国東地方に根拠地を持っていました

時は戦乱の時代 
卑弥呼は 魏に使者を送り 援助を要請しました
要請に応え 魏は張政を派遣しました
が しかし 卑弥呼が死に 張政の任務はあえなく失敗
張政は
失意のまま本国に帰ることもできずに 倭国で燻っていました

魏が中国統一を果たし 
一方 倭国では 
親呉派の筑紫の君が勝利し ねじれ現象がおきました

このねじれ現象を 解消すべく
筑紫の君は 張政を特使として 派遣することとしました
張政は 
名誉挽回の機会の到来とばかり 大いに張り切ります
渾身の力で 任務に取り組み
特に国書は 中国風様式に完璧に整えられていました

国書の署名は 壱与
壱の国の国王与 これが倭国の初の国王の中国風名前です
国王の中国風名前は 倭の五王の時代まで続きます

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