妄想の日本史5

陳寿は 三国志を著すにあたり 
魏の徳を慕って朝貢した卑弥呼の後継者として
壱与を登場させたため
正史に登場するはずのない 卑弥呼の名前が歴史に残りました

張政は 倭国に長期滞在していましたので
倭国の大量の正確な情報をもっていました
郡より 女王国の大宰府に至る
距離 万二千余里
日程 水行十日 陸行一月
道中の国々の戸数 
  
もし 倭国に戦乱があれば 軍を送るための経費を 
即座に計算する必要がありますが
張政の正確な報告で それが可能になりました

この後 筑紫王朝は唐の時代まで続きます 

壱与の政権が安定すると その反勢力側に
不満がたまります
その不満分子の中に のちに神武天皇と名付けられた
磐余彦の一族がいました 
彼らは 新天地を求めて 東へ旅立ちました
各地を転々とし 最終的に 
浪速の地に向かいました

初め浪速に上陸しました 
が 相手はあまりに強く
リーダーが 重傷を負い 死亡するという 
大敗北を喫して 敗走しました

新しくリーダーになった 磐余彦は
太陽に向かって 攻めたのが失敗だから 
東に回ろう ということで 
紀伊半島を迂回しようとしました 
が 戦闘の疲れが酷くて 
潮岬を超えたあたりで 力尽き
上陸することとしました 
今の熊野古道です

熊野古道は険しい山道で 大きな集落もなかったので
大きな抵抗はなく 大和の地に入ることができました
が 疲労が激しく 
浪速を攻撃する力は もう残っていませんでした
のでやむなく この地に腰を据えることとしました
地名は 自らの出身に因んで ヤマト(山人)としました
この第一歩が
やがて 偉大な大和朝廷に成長することとなります

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