映画2
キューティ・ブロンド
女子はピンク!男はブルー!なんて時代は古い!
これはもう周知の事実。変えられない真実。
どんな色もあなたが選んだなら、それが認められるべき。髪の色がブロンドでも、肌の色が何色でも、どんなセクシャリティでも、自分が好きな色は自分が決める。それにその色で偏見持たれたり、どんな人か決めつけられるべきでもないよね!
なんて話、最近のSNSでよく耳にします。
だがしかし!そんな議論は、もはや古い!過去の物!(迫真)
私たちはもう既に次のステップへ向かうべきなのだと、この映画を観て改めて気付かされました。1人の女性の痛快サクセスストーリー、社会的背景もよく分かる、深くて楽しくて悔しくて可愛い映画です。
偏見の詰め合わせセット
主人公エル・ウッズはアメリカ西海岸育ちのお嬢様。ブランド物で身を固め、ファッションには抜かりなくこだわり、顔とスタイルにも自信がある自己肯定感スカイツリーの超ハッピーな女の子。
又、社交クラブ「デルタ・ヌー」の会長を務めるエルは、常に親友やクラブの女子達とファッションやメイク、恋愛などキラキラした物に囲まれて日々を謳歌していた。
大学卒業後は、彼氏ワーナー・ハンティントンと一緒になり、素敵な奥さんになることを夢みていたエル。ある日ディナーに誘われ、いよいよプロポーズの時!?と、期待してデルタ・ヌー一同に送り出されます。
しかし、ワーナーから「30歳までに上院議員になりたい。そのためには、君みたいなブロンドの女の子は妻にはふさわしくない。別れて欲しい」と、大きな期待とは裏腹に嘘のような別れ話を切り出されました。
上院議員のようなお堅い職業には落ち着いた見た目の女性が横に居るべき、という偏見。そしてブロンド髪は馬鹿っぽい、という偏見。そんなしょーもない理由から、こんなにハッピーで可愛い素敵な女の子は振られてしまったのです。
しかしエル、ここで一念発起。
振られてもへこたれません。馬鹿っぽいから、と振られた彼女は、彼氏ワーナーがこれからハーバード大学のロースクールを目指すと聞き、同じ学校に行けばまた振り向いてくれるかも!と考え彼女も法学生になることを決心します。法学の勉強はしたことの無いエルですが、猛勉強をしてなんやかんやで合格。見事、アメリカの名門ハーバード大学のロースクール進学への切符を手にします。
(↓別れ話をされた直後の主人公エル。ビックリ仰天、このあと泣き叫び発狂)
そうそう、主人公エルが会長を務める社交クラブ「デルタ・ヌー」ですが、そもそも社交クラブってナンゾヤ?何かいかがわしいモノか?って思いませんか?
アメリカには古くから社交団体や慈善団体が存在します。有名な組織の一つがフリーメイソンです。フリーメイソンのような社交団体から派生して、大学に付随したものが、「デルタ・ヌー」のような全寮制の社交クラブになります。
日本の大学にも似たような社交団体やサークルなどがありますが、少し異なる部分はとても伝統的で秘密主義的であるということ。多くの社交クラブではしきたりや伝統が存在し、また入会するには会員の住まいや品行を注視する傾向があり、一定の必要条件を満たせれば晴れて会員となります。
厳格な入会基準をパスしてこうしたクラブに入会出来れば職業や名誉上、有利になることもあるようです。いわゆる箔が付くということ。
こうした社交クラブの本来の目的は社会への慈善活動、成績の向上、リーダーシップ的精神のもとで行動力を育むといったもの。かつての伝統的かつ保守的なクラブであれば、入会誓約をし、上級生へ敬意を払い、時には上級生からのいじめ「しごき」などにも耐えなければならないケースもあったよう。なかなかハードな縦社会が楽しいキャンパスライフに存在しているとは、面白いような怖いような。(今の時代はさすがに無いでしょう)
この映画は、さまざまな偏見や差別が登場します。いわば偏見の詰め合わせよくばりセット。それら偏見の一部は今でも世の中に根強く存在し、偏見や差別意識はこれほど我々の思考にこびり付いているのかと考えさせるのです。
そして主人公エルを含め、あらゆる人物が差別に縛られ葛藤し、乗り越え成長してゆく物語でもあります。
冒頭で「ブロンド髪は馬鹿っぽい」という偏見その1が登場します(その2もその3も映画を観ていれば沢山出てきます) 。日本ではあまり馴染みのない文化ですが、欧米には"Dumb blonde"というステレオタイプが存在します。
「馬鹿な金髪女 "Dumb blonde"」
「セクシーで魅力的、装飾品やお金に目がないが、知識や学問には疎く、暗い髪の女性よりおつむが弱い」という意味合いで、男性からすると性的に興奮はするが、家庭的ではないので妻にはしたくない、というイメージもあり保守的な男性には嫌われる傾向にありました。
このステレオタイプを大衆的にしたのは、20世紀の映画界。
Dumb blondeの代名詞といえば、かの有名なマリリン・モンローです。彼女は「セクシーな金髪女性」として世の男性を虜にし、映画界を席巻。50年代の大衆文化のアイコン、セックスシンボルとして君臨していました。
しかし彼女本来の自毛は金髪ではなく、男性から求められる理想の女性像を分析して作り出し、それを自身が賢く演じていたに過ぎませんでした。また制作側の戦略から、彼女が似たような型の役を演じるようにしたことで、Dumb blondeの文化が世の中に広く知られていきました。
このことから、男性が中心となって制作した創作物を、男性中心の消費者が楽しんだ結果、一つのムーブメントが生まれるほど、世間は男性社会であったことがうかがえます。女性蔑視と性的搾取、そして人種差別やルッキズムなど問題点をつっこめばキリが無いほど、世の中の性に対する態度を現しています。
そんな大衆文化の興趣の一部が、偏見となって現代の私たちの思考にこびり付いているなんて考えると、どれだけ私たちはメディアに支配されているんだろうと、ハッとさせられます。
金髪女性に対するイメージは、アメリカと日本ではまた少し違う要素があるかもしれませんが、日本でももちろん髪の色に対する偏見はあります。
学生や社会人は黒髪やこげ茶がふさわしく、真面目なイメージを持たれますが、金髪やその他の色に染めている者は不真面目で社会生活には不向きである、といった偏見。一概に偏見そのものの否定は出来ませんが、頭髪の色や髪型とその人物の内面を否定することに、なんの因果関係があるのでしょうか。
キューティ・ブロンドが公開されたのは2002年。約20年前に公開された映画の内容を、私たちが今SNSなどメディアで議論してるなんて、遅れてると思いませんか。(もちろん私たちを取り巻く議論は髪の色の偏見に限りません)
ある意味、そんな娯楽的文化から生まれたステレオタイプを理由に、恋人に別れを切り出す青年ワーナーが、上院議員になれる訳ない!と示しているシーンでもあります。さっそく上院議員にはなれないフラグ&噛ませ犬はこいつだぞ!ということ、はっきりわかんだね。
セクシー or インテリジェンス
1つの対比として、ここで浮かぶのは「セクシーさとインテリジェンス」です。「セクシーさ」と「知識や教養」は相反するものとして扱われ、性に奔放な者あるいは性的に魅力のある者は学問分野には精通していない、という定義があるようです。
金髪は美しい。その髪の1本1本が動くたびに細かい輝きを見せる、確かな造形美があります。それが豊満な体をした女性と合わさると、性的に魅力を感じるのも頷けます。
ですが、果たして美しさや妖艶さと賢明であることは、決して交わることのない事象ですか?
どっちも持ってちゃダメですか?いいえ!!!!!良いんです!!!!!!!!どちらか一方でも、両方でも!!!!!!!!!(クソデカボイス)
待ってくださいよ。そもそも主人公のエル、ハーバード大学のロースクールに行く前から教養と豊かな人間性を兼ね備えた素晴らしい人物なんです。
お嬢様育ちから世間知らずな部分はあるものの、ファッションに関する知識や応用はピカイチ。クソ彼氏ワーナーに振られる前の、親友たちと洋服店でショッピングを楽しんでいるシーンでは、無邪気にはしゃぐエル達を見た店員が(あの客はアホそうだからカモに出来るな)とでも言わんばかりの目配せをして、セール品のドレスを「入荷したばかりの新作だ」と伝えエルに売りつけてきます。そこでエルは専門的な質問をしますが、店員はさほど知識はなかったのか適当に話を合わせて返答します。エルの質問は少し逆説的で意地悪な質問だったようで、ちゃんと縫製を知っている者ならイエスとは言わない内容でした。エルという人物はヘラヘラしているように見えて、実はしっかり物事の真実を見抜き、人の思惑を察知することの出来る力を持った女性なのです。このシーンから既に、彼女がその後ハーバード大学のロースクールに合格し、メキメキ頭角を現す片鱗が見えてます。
そして、彼女の人望がその人間性を表しています。
親友たちやクラブのメンバーは皆お互いを思いやり切磋琢磨出来る仲間として、彼女の周りに居て受験生であるエルをサポートしてくれます。このことから、エルは理知的な学問分野には精通していないものの、相手を思いやる賢さや教養が身についていることが分かりますね。その後のシーンでも、彼女の優しさや機転を利かせた思いやりなど、学校の勉強をしているだけでは得られない人間性が垣間見えます。もはやロースクールとか行かなくても、その人間性だけで十分なんじゃない?と思ったのですが、違いました。
彼女のような人物こそ、法という理性と規範を武器に、あらゆる偏見や暴力から弱者を救い、闘うにふさわしいのです。
教養と学問
この映画の重要な部分として私が好きなテーマは、人の尊さは学問をどれだけ修めたかではない、ということです。
人の価値は有名な大学を出たから、理知的で高給取りな仕事をしているからだけでは測れませんよね。もっと大事な部分があって、その人だけの良さとかに気づけたり、お互いを尊重したりするために勉強するのだと思います。
人生はマイナスなことの繰り返しで、時に現実に絶望したり自暴自棄になったりするもの。そんな時にこの映画を観れば、殻を破って逆境に立ち向かう力を分け与えて貰えるような気がします。
ただ、こういったサクセスストーリーすら、今の時代はもう既に古いのかもしれません。というのも、勉強に興味がなかった女の子が有名大学に進学して...って、これこそステレオタイプなサクセスストーリーなんです。言い出したらキリが無いですが。
真の意味で皆が平等になった時とは、そこにサクセスストーリーないし逆転劇すら生まれないのが理想なのかも。
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