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その指先に触れたなら

─side he─

intro.
「…では、君はどうしたいですか?」
「二度と、会いたくない、です。……二度と」

「…どうして?」
「…いつか、殺してしまいそう、だから」
「…… 」
「私は、父とは分かり合えない。きっと何処までも平行線。決して交わらない…。だからこの憎しみが会ってしまえば殺意に変わらないとは限らない」

「穏やかに、ただ穏やかにいたいんです」


1.
夜の居酒屋はオフィス街にほど近いこともあってか満席とまではいかないものの、それなりに賑わっている。
カウンター席と数える程のテーブル席で直ぐに店内はいっぱいになってしまうこの手狭さではあるが、味の良さはもちろんのこと雰囲気の良さもあって2人はこの店には何度か来ていた。
「いらっしゃいませーぇっ!」
店員の元気のいい掛け声が飛び交うなか、2人は話を進めていた。
「『お前は親の、俺の言う事を聞いていれば良いんだ!
お前に意思は必要ない。飯を食べさせて貰って、学校へ行かせて貰ってるだけでも有難いと思え!
俺の言うことを聞けないなら、今までお前に掛かった金を全部返して、そして今すぐ出て行け!!』」
顰め面をしながら少しドスをきかせた低い声で誰かのモノマネなのか、彼女は目の前の席に座った彼に話をしていた。
「……ってね、こぉーんなこと、しょっちゅう言われてみてくださいよ? もうね!呪いですよ、呪い! ぷはっ!あ、すみませーん!ネギまとハツ。タレと塩で!」
ゴクッゴクッといい音が聞こえそうなくらい勢い良く飲んでいるその様子はまるでビールでも飲んでいるかのようだが、ジョッキに入っているものは少しだけぬるくなり始めた烏龍茶だ。
「呪い…?」
先程の言葉を目の前で聞いていた彼は、少し物騒な響きのするそれに眉をひそめて反応を示す。
「言われ続けると…殴られ続けてると、段々『本当にそうなんじゃないかな』って思えてくるんですよ。考える事を放棄したくなるんです。私には何の価値がないんだーって。撫でてもらうとか褒めてもらうなんてしてもらった事、記憶にないですもん」
話す彼女の顔には自嘲気味の笑みが浮かんでいる。
「お待たせしましたー!ネギまとハツ、タレと塩でーぇす!」
話の腰を折らないように気をつかっていたのか、それとも絶妙なタイミングなのかは分からないが店員の男が焼き立てのいい匂いをさせた焼き鳥をテーブルに運んできた。
「あ、ここにお願いしまーす」
オーダーした焼き鳥を嬉しそうに見ながらテーブルの中央を指す彼女を見ながら、
「 完全なるDV・モラハラの典型、だな…。あ、すみません。生中一つ 」
彼は前半は店員に聞こえないように、そして後半は店員に聞こえるように言葉を向ける。
「ありがとうございまーぁす!生中1でーす!」
追加オーダーをカウンターの奥に伝えて戻る姿を見送り、次を繋げたのは彼女の方だ。
「タチが悪いのは、ココに本人の悪意が一切ない事ですよ」
「 …… 」
「 自分は正しい、間違えてない。自分以外の人間が間違えてるんだーって本気で思ってるんですよ。怖くないですか、コレ?」
焼き立てのネギまを手に取り串から外すでもなくそのまま齧り付いて、ゆっくり咀嚼する。その様子を見ながら何か考えているのか目の前の彼は黙って待っている。
「こんな事されて、愛情なんて感じるべくも無いでしょ。とんだ無理ゲーもいいとこですって」
「…お母さんは?」
彼はふと浮かんだ疑問を彼女に投げ掛けた。
「そっちはモラハラが主ですかね。母親は被害者でもあるけど、加害者でもありますから…ね」
この話の間の何度目かの嘲笑をまた浮かべた彼女は何処か遠い目をしていた。
「あ!でも、こうやって居酒屋で普通に話せるくらいにはなってますよ!そこは大丈夫です。洗脳とかされてませんからね? ふふ」
今までの話の内容が内容なだけに彼女は少しだけ慌てたように笑って否定をするが、
「…だから、倒れても…実家に連絡しなかったのか」
逆に彼の眉のシワが深くなったのは気の所為ではないだろう。
「ええ。それに、連絡しようもないですしね。連絡先、知らないし教えてないし」
先程から話を聞いていて、二の句が継げないとはこの事だと男はつきたくもないため息を吐く。何かワケありなのだろうと、思ってはいた。だが正直、ここまでとは考えていなかったのだ。
「…これから、どうするんだ?」
自分に今聞ける精一杯の質問を彼は投げかけた。
「んーどうしましょうかねー? 分かんないです。はは」
精一杯の質問に返ってきた返答は、彼女自身本当にどうしたらいいか迷っているのか、それともはぐらかしているのか彼には判別出来なかった。
「お待たせしましたーぁ!生中でぇーす!」
先程オーダーした生ビールはジョッキがキンキンに冷えていそうなくもり具合である。それをテーブルに置くやいなや店員の男は直ぐに他のテーブルに呼ばれてオーダーを軽妙に厨房に伝えている。店は今日も繁盛しているようだ。

「……取り敢えずは…諸々、準備しますよ」

どこか絞り出したようなそのセリフはこの会話の最中、初めて見せた彼女の素のように彼には感じた。
「さ、この話はここら辺でおしまいっ!今日は飲みましょ。いきなり倒れて驚かせちゃったから『先輩には悪いことしたかもー?』って思ったんで話しましたけど、酒が不味くなるような話なんてずっとしてるもんじゃないですって!」
パンっと手を叩いて少し無理矢理のように話を切り上げようとしている目の前の彼女にはもう素の表情に感じた何か暗いものはもう見えなかったが、無理をして笑っている、そう印象付かせる顔をしている。これ以上は聞かない方がいいのだろうと結論付けた彼も、何も気がついていないフリをすることにした。
「飲むって言っても、お前のそれ…烏龍茶だろ?」
「いいじゃないですかぁ!居酒屋なんだしお酒飲んでる気分くらい味合わせてくださいよ!せっかくの先輩の奢りなんだし?」
おどけたようにそう言う彼女の中ではもう決定事項のような口ぶりだ。
「…俺がいつ奢るって言ったよ…」
本音を言えばこんな話になるとは思っていなかったので正直折半にしろと言いたいくらいだったが、
「へへ、ゴチになりまーす」
何故か彼には言えなかった。
「……こういう時だけはちゃっかりしてんだよなぁ…ま、いいよ。今日は奢ってやる」
苦笑い、とはまさにこの事だろう。そうとしか言えない顔を彼はするしかない。すると、本気で嬉しそうな笑みを浮かべながら、
「やった!あ、すみませーん!つくねとネギまとモモ!つくねはタレで2本と、ネギまとモモはタレと塩両方1本ずつ!んで烏龍茶おかわりでっ!」
これが初めてのオーダーかと言わんばかりの量を頼み出した。
「かしこまりましたぁーっ!ありがとうございまーぁすっ!」
店員の男は女が告げたオーダーを復唱してまたカウンターへと戻っていったのを見届けてから、
「…お前っ、少しは遠慮しろよっ!」
とさっきは言えなかった文句を彼女に言って、その後は他愛もない話を続けた。

2.
「お世話になりました」
あの話を聞いた3ヶ月後、彼女は最後の挨拶をしていた。
「いや……力になれなくて済まなかった」
「ふふふ、何がですか。もう十分、助けて貰いましたよ。十分過ぎるくらいです」
そう言う彼女は彼の目を真っ直ぐに見ながら笑う。
「…でも、辞めたくはなかったんだろ? 本当は」
半分は自らの希望も込めてそう言うと、
「んー。まぁそう、ですねぇ。そうかもしれない、ですね」
彼女は何処か遠くを見ながらそう言った。
「……なら…」
躊躇いながら言葉を繋げようとするが何を言っていいのか分からない様子に気が付いたのであろう、彼女は
「でも現実問題、無理ですから。もう、自分でもどうにも出来ないところまできちゃったんで。諦めるしかないです」
キッパリと、やはり目を逸らすことなく言う。
「…それでも。まだ一緒に仕事したかったよ。俺は」
そうした清々しい彼女の姿に悔しさが募る。
そして、これ以外の言葉が出てこない。そんな自分にも彼は悔しかった。
「ありがとうございます。私も先輩と仕事するの、楽しかったです。入社してから先輩に色々教えて貰って、失敗して皆に迷惑掛けた時も、上手くいって皆で打ち上げした時も……。ふふ、なんだかんだで楽しかったなぁ」
「…俺もだよ」
「楽しかった。一緒に仕事出来て」
彼女が言ってくれた言葉に嘘が見えないのが嬉しかった。その言葉に誠実に返したい─彼も彼女の目を真っ直ぐ見てそう告げる。
「先輩…ありがとう、ございました」

「頭なんか下げるな。─今生(こんじょう)の別れじゃあるまいし」

「……そう、です…かね?」

「ああ。今生の別れじゃない」
「それにお前、友達少ないからな。俺が見舞いに行ってやるよ」
冗談めかして、反面、言い聞かせるような言い方をしてみる。そんな彼を見て、
「うわ、ひっど。そんな酷いこと言う人には会ってあげませーん。…それに、これから忙しくなるんですよ? 見舞いに来る時間なんて無いですって」
彼女は笑いながら明らかな拒絶をした。
「土日に行けるだろうが」
何とか食い下がってみようと苦し紛れに言ってみた。が、
「ダメですよ、カノジョさんに誤解させるような事しちゃ」
「ダメです」
首を振って、先程よりも強い拒絶を示す。彼女が笑っていてもこれ以上は無理なのだと、全てを拒んでいるのが分かった。
「…分かった」
その言葉を聞いて、彼女がパッと表情を変えた。
「職場の先輩に家庭の事情とか聞いてもらっちゃって、ホントすいませんでした!…聞いてもらって、ちょっとだけ楽になれました」
何処か、芝居がかった言い方。彼女らしくない、と思った瞬間に、
(彼女「らしい」って何だよ…)
そうだ、彼女を語れるほどに自分は彼女のことを知らないのだ。知っていることは、彼女から聞かされた事情と職場で見た彼女だけ。
それだけだ。
「ちゃんと、治せよ」
他に何も言えなかった。
「……はい」
一言だけ返事をした彼女は悲しそうな、困ったような顔で笑った。
「…何で笑うんだよ?」
「別に深い意味はないですって」

「それじゃ。本当にお世話になりました」
「お元気で」

「………… ああ」

聞こえるか聞こえないかくらいの声で、彼は答えた。



3.
彼女が居なくなって数週間も経てば、日常は戻る。
引き継ぎはきちんとしていってくれた。担当する後の人間にも、相手先にも出来る限りで困らないように。彼女はとても丁寧だ。書類を見ていてもそう思う。そうして彼女の痕跡が少しずつ無くなっていく。まるで最初からいなかったかのように。
会社としてはその方がいいのだろう。誰がやっても上手く回るに越したことはない。
「何だか、寂しいもんですね」
誰に向けて言われた言葉か分からなくて一瞬、考えてしまった。だが、そこには自分に向けて言ったんだ、という顔をして書類を差し出している人がいた。
彼は瞬きをしてその言葉と書類を受け取った。
「そうだな」
当たり障りのない言葉を返した方がいいだろう、と判断して彼はそう言った。今、彼に書類を渡してきたのは彼女の同期入社の女性だ。
「知ってます?」
何故、こんなに挑戦的な目で見られているんだろうか?
彼には何か目の前にいる部下にした記憶はなかった。

「あの子、スマホ解約したんですよ。

「…え?」

「辞めてから、1週間くらいしてどうしてるかなーってランチでもと思って誘おうとメッセ送ってみたら送れません、って」

ああ、目の前の部下は怒っているのだ、と彼には分かった。突然、彼女が消えてしまったことに腹を立てているのだ。


新入社員として入社してから新人研修を終えてこの部署に配属になってから、彼女は比較的誰とでも平等に付き合っていた。あまり深入りせず、ちょうどいい距離感を保っていたと思う。その中でも、彼が知っている1番近くに居たのは目の前にいるこの女性部下だ。彼女を良く飲みに誘っているのを職場でも目にしていた。この女性部下は姉御肌で面倒見のいいことでも有名だった。彼女に異変が起きる前から色々と気にしていたのかもしれない。
「こんな、スマホまで解約するとか何か変ですよ」
何処か確信めいた目で此方を見る女性部下を見返すことが彼には出来なかった。

事情は分かっている。だが、スマホまで解約したというのは本当に何かが変だとしか思えない。
「いいんですか? 主任」

彼には何も言葉が返せなかった。


部下のあの一言が残った重い気持ちのまま仕事を何とかこなして帰る準備をしていた。その時、彼のスマホにメッセージの受信を告げる音が鳴った。

「今晩、会える?」

短いメッセージは付き合って長い恋人からだった。
恋人になってから2年程でそろそろ結婚を、と仄めかされている。結婚するのもいいのかもしれない。でも何かが気になる。このまま結婚していいものなのか分からなくなっていた。
(これが俗に言う倦怠期ってやつなのかね)
恋人からのメッセージに短く「ああ」とだけ返した。


その日の夜、彼はベランダでビールを飲みながらぼんやりしていた。ここ最近、色々な事が重なっている。考えることが億劫になってしまう。普段は殆ど吸わない煙草をこの日は燻らせたくなった。
というのも、夜に会う約束をしていた恋人に振られた。
正直、振られたことは大してなんとも思わなかった。だが、恋人に言われた一言が気になっていた。
「貴方はその子のこと、大事なのね」
「本人だけが気がついてなくて周りは皆わかってるのよ」
「見ようとしてないの?それとも本当に気がついてないの?」
久しぶりに会う恋人の為に、とイタリアンを予約して食事をしながら当たり障りのない話をした。途中、無言の時間もあったがそれなりにいい時間を過ごせたと思っていた。
だが、恋人は初めから別れ話をするつもりだったようだ。

確かにここ最近の自分はいい恋人ではなかった。それに加えて、どうやら恋人は彼には他に思う人がいるかのような言い方をしていた。それがどうしても気になってしまう。
手元の煙草は殆ど吸わないまま灰になって落ちてしまった。吸いかけの煙草を吸ってビールを煽る。
(何でこんなにイラつかなくちゃならないんだよ)
携帯用の灰皿に煙草の吸殻を捨てて部屋の中に入る。テーブルの上に置いていたスマホを取り上げる。女性部下が言ったことを確かめる為に彼女にメッセージを送った。送り先が見つかりませんと、無機質な返答が返ってくる。電話を掛けてみたがやはり同じ結果。

本当に、消えてしまった
『彼女』という痕跡を消したのだ

ふいに、前に部署のメンバーで行ったバーベキューの写真に目を落とす。写真に写る彼女はいつもよりも楽しそうな顔をしていた。

この時彼女とはどんな話をしただろうか?

動画も出てきた。動画の彼女も遠慮がちな笑顔ではなく楽しそうな笑顔をしている。
ここにいる彼女はこんなにも楽しそうなのに。

分からない
見えていたはずの色々な事が、分からない

写真のフォルダをスクロールしているうちに1つの動画で手が止まる。これは、忘年会で撮られた1枚だった。あとから部署の社員からもらったものだった。

「なーに2人で話し込んでたんすか」
「傍目で見てちょーっといい雰囲気だったんで1枚撮りました」

そう言っていたあの時、話していた内容がふいに蘇る。



「どうせなら、海が見えるところがいいですね」
「…は?」
唐突な言葉が彼にはなんのことだかさっぱり分からなかった。言っていることは、わかる。だが、何の目的に対してなのか全く分からない言葉だった。
「暑くもなく、寒くもなく。海の見える場所。そういう所でのーんびりしたいです。どこら辺になるんだろ…伊豆とか…熱海とか?ですかね。沖縄…じゃ暑いだろうし。でも、今の日本の夏を考えると沖縄の方が涼しいのかも?」
ぶつぶつと独り言なのか自分に向けてなのか分からないまま彼女は続けている。痺れを切らして、
「だーかーら、何が?」
と彼が聞くと、
「ほら、最後の晩餐てあるじゃないですか。食事があるなら最後の時間て何がいいかなーって。余生とも違う、本当に最後の時間」
彼女は遠くを見ながら、彼に答えた。
「どうせなら、穏やかに死にたいですよね」


「……海辺の病院…?」

知りたいことは、聞きたいことは多くある。
その答えを得るためには探さなくてはならないのだ。


4.
彼女が辞めるきっかけになったのは、職場で倒れた事が原因だった。

その日は部署で班替えが行われた。ずっと同じではなく色んなメンバーとやる事で部署の活性化と個人スキルの向上を目的としているもので、実際にそれぞれのいいところを吸収していて良い方向に結果が出ていることが多かった。
「…来月からはこの組み合わせでやっていく事になるから。新しいペアはそれぞれミーティングをきちんと行うように。大筋で構わないから目標を立てて。あとで報告書を提出するように。以上」


「……ふぅ」
会議終わりに疲れてそうな彼女を見つけて声を掛けた。
「どうした? 何かここ最近ずっと顔色悪いけど」
「やだ、メイクで隠せてないです!?」
歩きながら、少しわざとらしい素振りで返答する彼女に口元が引き攣る。彼女の歩幅に合わせて歩いていた歩調が彼女よりも遅くなる。
「……」
歩きながら空笑いでもした方がいいのか考えていると、
「…冗談ですよ。そんな可哀想なものを見るような目で見ないでください」
明らかにスベった、というような顔をしながらこめかみを指で押している。
「あーえっと…ちょっと…目眩がしたり?とか頭が痛くて?」
「酷いなら早退した方がいいぞ?」
彼女の横を歩きながら、彼女の顔を見ると明らかに顔色が悪かった。青ざめている、と言った方がいい程だ。

「や、大丈夫ですよ。多分疲れが溜まってるだけだと思うんで」
「けど……」
「今日終われば明日明後日休みですもん。土日ゆっくり……」
彼女の言葉の言い終わりは来なかった。

糸の切れたマリオネットのようにぐらりと体が傾いだ。彼女の手からは書類やバインダーが落ちて床に広がる。

「……え……?」

「っ!おいっ!?」
彼女の体を腕に受け止める。何が起きたか彼女は分かっていないようだった。彼にも何が起きたか分からなかったが、取り敢えず尋常ではない事態が起きていることだけは分かった。
「大丈夫かっ!?俺が分かるか!? おい、君っ!救急車っ!」
周囲も何事かが起きている、と分かったのかざわつき出す。
「早くっ!!!」
「しっかりしろ!おい!」
同じ部署のメンバーが集まってきてそれぞれ彼女へ声をかける。
「直ぐ救急車来るからな!」
彼もこのまま立っているより、彼女を床であろうと降ろした方がいいだろうと考え、
「座らせるぞ?……もうすぐだからな?」
座らせる旨を彼女に伝える。体の向きを変え彼女を床に座らせ、励ましの言葉を掛けようと手を握る。

「……冷た…い……?」
異常に冷たい手だった。
何だ、これは?
背筋に冷や汗が流れる。
「……っ! !早く、救急車っ! それか、産業医!誰でもいい!呼んできてくれっ!」
僅かではあるが彼女が彼の手を握り返す。
「早く!!」
この声が聞こえているうちに。


周囲ではざわめきが酷くなっていた。けれど、そのどれも彼の耳には入ってこなかった。


それから1ヶ月後、退院して職場に復帰した彼女と居酒屋で話した内容は彼女の病状を告げるものだった。
病名は脳腫瘍。もう手遅れの状態だった。


彼女との会話が手がかりになるかは分からない。でも直感的に彼女は海辺の病院らしきところにいるに違いないと思った。彼は時間の許す限りあちこちの病院やホスピスに連絡をして、彼女の特徴を告げ入院していないか尋ねた。勿論、個人情報で教えてくれないことも多かった。だが、見舞いに行きたい、彼女に最期になる前に会っておきたいのだと説得し電話で聞いて回った。


5.

初夏の日差しが海に反射している。眩しくていい季節だと彼は思う。

コンコン

ドアは開けられているが一応ノックをする。
「……はい」
中から聞こえてきた声は懐かしいがとても弱々しい声になっていた。その声を聞いて奥歯を噛みしめる。
「久しぶり」
絞り出した声が震えていたのが彼女に分からなければいい。彼は無理矢理に口角を上げた。
「…どうして」
目を見開いてそう言う彼女の顔色は前よりも白くなっていた。
彼は出来るだけ明るい声を出して、おどけたように彼女に言う。
「手当り次第、電話して。いやぁ、時間掛かったわ」
「……どうして」
「さぁ?」
これは、彼の本心だった。

「お前の指先に触れたら、分かるかなって思って」

「…なんですか、それ」
泣き笑いのような顔で彼女は彼を見た。
「何だろうな」
「疑問に疑問で返さないでくださいよ」
ふふふっと声を上げて彼女が笑っている。

「でも、…来てくれてありがとうございます、先輩」

彼は何も言わずに笑った。
窓の外で、海が日差しを反射して光っていた。


「外出用の車椅子借りられて良かったな」
「風、寒くないか?」
「気持ちいいですよ」
彼女の髪が潮風に柔らかく靡いている。
彼女の希望で外に行くことにした。施設の人は渋々ながらも許可をしてくれた。外とはいっても海は目の前だ。そう遠くへ行く訳ではないが、彼女は喜んでくれた。
「いい天気だな。それに、いい所だ」
「でしょ?」
偶然とはいえ、梅雨前の晴れ間は嘘みたいにいい天気の日になった。海の青が色々な色で綺麗だった。
「何となく、お前がここを選んだ気持ちが分かる気がする」
こんな綺麗な場所なら穏やかに暮らせるだろう。そう思って言うと、
「でしょ?」
「なんでお前が自慢げなんだよ」
「へへへー」
彼女の笑顔は悲しいくらい力がなかった。

ベンチを見つけた。
砂浜のベンチはゆっくり話すには良さそうだ。
「ここら辺でいいか。よし、降ろすぞ。俺に捕まって。ゆっくり降ろすから気をつけて座れよ」

彼女の体は倒れた日に支えた体よりも更に軽くなっていた。

波の音が絶え間なく聞こえている。
普通なら何も話さないこの間は居心地が悪そうなものだが、今の彼にはそれはなかった。


「疲れたなら寄りかかっていいから」
座っているだけでも疲れるのかもしれないので、一応そう声をかける。
「ありがとうございます…」
彼女はそう言って彼の肩に頭を乗せる。

「疲れた、な…」
本当に小さな、小さな声だった。彼女が何か言ったのは分かったが音としては聞き取れなかった。
「ん?何か言ったか?」

「先輩」
彼の問いには答えず、彼を呼ぶ。
「ん?」
「先輩」
「何だよ」
「ありがとう、ございました」
「何がだよ」
彼は思わず笑った。
「何…で……しょうね?…ふふ」

海が光っている。穏やかだが波の音が絶え間なく続いている。何て眩しいんだろう。

「…なぁ」
「……」
彼女に問いかけるが答えがない。
「……なぁ」
「……」
もう一度、問いかける。やはり答えはなかった。
「なぁ、ってば」

海を見たままで問いかける。光で揺らめいていた海が更にぼやける。

「……」

周りには、誰もいない。この悲しみを共有出来る相手もいない。
彼はさっきまで噛みしめていた奥歯を離した。
もう、噛みしめなくていい。波は見えなくなっていた。

どれだけ経っただろうか。来た時よりも風が少し冷たくなっていた。
隣に座っている彼女の手を取る。
「前に倒れた時も思ったけど、手、冷たいよな……」

あの時のようにこの手が握り返すことは、もうないのだ。

「…これ以上冷える前に、帰ろうな」


6.

彼女は終わったあとのために全てを整えていた。

施設の人、特に彼女の主治医である脳外科医と精神科医は彼女から事情を聞かされていた為、彼が立ち会うことを喜んでくれた。本来は親族のみであるにも関わらず、だ。彼は主治医2人に感謝した。

彼女の持ち物は彼女の意向で全て処分する事になっていた。だが、彼は頼み込んで彼女のスマホだけは譲ってもらった。それくらいしか持っていけるものはなかった。何をしたかった訳では無い。
だが、解約して繋がらなくなったはずのスマホを持っていた彼女のことを思うと、この世に残っている彼女が存在した僅かな証のような気がしたのだ。


もう、あの日元恋人から言われた言葉の意味は分かっている。
彼には彼女が特別だった。
だが、それは同情なのかもしれない。その区別はもうつけることが出来ない。
彼女が居なくなっても日常は続く。
彼は日常に、職場に戻った。職場で彼女の訃報を知っている人は誰もいなかった。


梅雨が明けて本格的に暑くなってきた頃、彼女の四十九日の為にあの施設のある場所に来ていた。施設の前にある海はあの日の静けさとは打って変わって夏の盛りの賑やかさに包まれている。そこに背を向けて彼女を埋葬した樹のある場所へ彼は向かっていった。
まだ、樹とは言いにくいほど小さな樹。彼がここに来なくなってしまえば彼女がここにいることを知っている人間は施設の元主治医たちだけになってしまう。
人は二度死ぬ、とよく言う。
一度目は体、二度目は記憶。
彼女は職場での繋がりも普段の生活での繋がりもスマホを解約することで断った。きっと、彼女がここにいることを誰かに告げることを彼女は望んでいないのだろう。
恐らく、彼がここを突き止めたことは彼女にとってイレギュラーなのだ。ならば、彼女の望み通りにするのが筋だろう。
いつまで、とは決めていないが来れる限りはここに来るつもりでいた。


彼女に会いに行って部屋に帰ってから、シャワーを浴び冷蔵庫からビールを出して開ける。エアコンの効いた部屋で飲むビールが美味いと感じられる自分は生きているんだなぁ、と変な実感をする。
テーブルに開けたビールを置いてデスクの引き出しを開けた。そこには彼女のスマホを仕舞っていたのだ。
ずっと充電もしていない。充電はないだろう。
そう思って充電器に刺す。
暫くツマミを摘みながらビールを飲んで充電されるのを待つ。電源が、入りさえすればいい。
電源ボタンを長押しすると電源が入った証のマークが浮かび上がる。電源をつけたはいいが、パスコード等があればおしまいだ。
だが、パスコード等は何もなかった。
スマホには殆ど何も残っていない。アプリも、電話帳も本当に何もなかった。
だが、アルバムのアプリを押すと残っていた。

会社のバーベキューで行った2人の写真。
忘年会で撮った2人の写真。

たったの、2枚だった。

「……何だよ、これ」


彼女のスマホを額に当てて声を震わせる。
あの指先に触れたかった。